九-4

 杭打ち機(パイルバンカー)の衝撃でルキト自身も大きくよろめく。何とか倒れずに踏み留まったものの、すぐさま動きを止めざるを得なかった。マキのアサルトライフルの銃口が、既にルキトへと向けられていた。

「坊やにはちょっと刺激が強すぎたかしら?」

 ルキトは横目にマキを睨みつけたまま、おもむろに両手を上げる。右腕を覆っていた氷の剣の残骸も剥がれ落ちていく。

 絶望的な状況――だが、ルキトの視線はマキよりももっと後ろの方を見据えていた。

 杭にへし折られて遠くへと飛んでいった氷の剣の先端は、網に包まれて拘束されているエレンからそう遠くない地点の路面に突き刺さっていた。

 エレンもしかとそれを目にしていた。迷うことなく行動に出る。網の中に囚われたまま身を捩って地面の上を這い、刃のところへ向かう。

 刃はルキトの手から離れたことで早くも溶け始めている。エレンはポケットから取り出したハンカチを手にかぶせ、網目から腕を伸ばして氷の刃を掴んだ。

 布一枚ごときで死の冷気を防げるはずがない。刃に触れた右手から途端に底知れぬ冷たさが肩の方にまで伝わってきた。しかし今はこの死に塗れたナイフこそが唯一の希望だ。エレンは歯を食いしばって冷たさに耐えながら、一思いに刃を引っこ抜いた。

 急いで氷のナイフで網を切り始める。刃はどんどん溶けていく。辛うじて鋭さを保っている状態。手から伝わってくる死の冷たさに身を凍えさせながらも、エレンは決死の表情で一本ずつ着実に網を切っていく。

 ――その様を視野の隅に捉えながら、ルキトはマキへ質問を投げかけていた。

「一つだけ教えてくれ。あんたはさっき、ホスピタルはブレシスを治療するための機関だと言っていた。けど、一体どうやって治療するんだ?」

 マキはアサルトライフルの銃口をルキトに突き付けたままだ。

「結果的にギフトを使えなくなるってことよ。それだけ分かれば十分でしょ?」

「一度手に入れたギフトを手放すことはできない。ギフトとは体の一部だ。使えなくさせることも、取り除くことも不可能なはずだ」

「確かに、完璧に取り除くことは不可能よ。けど使えなくさせることはできるわ。例えば――あなたがどんな経緯でギフトを得るに至ったのか私は知らないけど、あなたがもしその経緯を忘れてしまったら、必然的にギフトの発現の仕方も忘れてしまうんじゃないかしら? そうなったら、結果的にギフトを使えなくなっているのと同義よねぇ?」

「忘れる、だって……?」

「そう。ホスピタルが行うブレシスの治療法っていうのはつまり、ギフトを手に入れたきっかけに関する記憶を全て消して、自分がブレシスであることを忘れさせるというものなのよ」

 マキが告げた言葉に、ルキトは戦慄を覚えた。

 ルキトは殺人鬼に腹を刺されて瀕死の重傷を負う経験をした。そこでルキトは死の冷たさに触れ、死の温度というギフトを得るに至った。

 だからもしその経験と知識を忘れてしまったら、ルキトは確かにギフトを振るえなくなってしまう。ギフトを得るに至ったきっかけとなる記憶を奪われてしまったら、体の中にギフトが宿っていることすら認識しなくなってしまう。

 これがホスピタルの治療法。ブレシスから忌まわしい記憶を消し去り、ギフトを事実上使えなくさせる方法。

 ――ルキトとマキの会話を遠くで耳に拾いながらもエレンは氷のナイフで網を切り続け、ようやく外に出られる程度の穴を空けることができた。

 溶けて小さくなったナイフを捨て、地面に両手を付いて網の中から這い出る。ナースはまだルキトの方を向いている。今なら背後から奇襲を仕掛けられるかもしれない。が、これまでのマキの戦闘能力を鑑みると、不発に終わる可能性の方が濃厚に思えた。

 一体どうすれば勝てるのか――

 エレンが次なる一手を決めかねていると、突然後ろから声がした。

「エレンさん。これを彼に」

 聞き覚えのある、波風の立たない海のように穏やかな声音。エレンは驚いて振り返ったがそこには誰もおらず――地面の上に、先程までなかったなずの水の入ったおもちゃの水鉄砲が落ちていた。

「記憶を消すって、一体どうやって」

「さぁね。それはホスピタルに来て自分で確かめたらいいわ!」

 マキが高らかに叫んだ。白衣の奥から小型の拳銃を取り出し、ルキトに向ける。戸惑っている場合ではない、エレンは水鉄砲を急いで拾って腰の後ろへしまい、片手を上に伸ばして空砲のように衝撃波を放った。

 不意の轟音にマキがこちらを振り向く。エレンは挑発的な笑みを作ってみせる。

「私のことはもう眼中にないってわけ?」

 マキは破られた網と、その近くに転がっていた溶けかけの氷のナイフを一瞥し、感心したように目を丸くした。

「あら。やるじゃない、お嬢ちゃん」

 その隙にルキトが素早くマキから離れた。エレンは両足に拒絶の力を蓄積させる。マキは小型の銃を収め、アサルトライフルを構える。標的は二つ。銃口を向けた先は、エレンだ。

 間髪入れずに発砲するマキ。夜闇に火花が迸る。エレンは空中高くジャンプして弾丸の雨を回避する。マキから更に距離を置いた地点に着地し、すぐにまた飛翔する。マキは迅速に移動しながらアサルトライフルを発射し、執拗にエレンを追って来ている。一瞬でも足を止めれば鉛弾を食らうことは必至だ。

 もう一度、一際高く跳躍し、併せてエレンは腰に隠しておいた水鉄砲を取り出した。そして空中にいる状態からルキトめがけて腕を振りかぶった。

「ルキト! 受け取って!」

 呼びかけ、水鉄砲を投げる。同時に掌から衝撃波を撃つ。物を壊すためではなく、託すために威力がコントロールされた一発だ。衝撃波によってエレンの手中から弾き出された水鉄砲はアサルトライフルの弾道の脇を通り抜けて一直線にルキトのところまで飛んで行く。

 マキの後方で静かに反撃のチャンスを伺っていたルキトは、空から飛んで来た水鉄砲を正確にキャッチした。中にはたっぷりと水が入っており、そのおもちゃの用途をルキトは瞬時に理解する。

 異変を察知したマキが白衣を大きく翻しながらルキトの方を向いてくる。ルキトも水鉄砲を両手に持って構える。

 手から死の温度を流し込み、水が凍りつく一歩手前でルキトは引き金を引いた。

 撃った本人ですら驚くほど、水鉄砲の発射スピードと飛距離は凄まじかった。どこかの誰かが予め妙な改造でも施したのだろう、おもちゃの銃から発射された水の弾は正しく実弾の如きスピードで真っ直ぐ飛び、アサルトライフルが火を噴くより先にマキの首筋に命中した。

 水鉄砲がただのおもちゃではないのなら、発射された水もただの水ではない。ルキトの手によって死の温度が流し込まれた水だ。氷にならずとも、そうなる直前まで冷やせば氷と同等の冷たさを相手に与えることができる。そう、ルキトのギフトの強みは、ものを凍らせることではなく冷気そのものにある。

 水鉄砲を食らったマキの顔が、初めて歪む。素肌の上から瞬く間に染み込んでくる悍ましい冷たさに怯んでいる。

 ルキトはもう一発撃った。今度はスリットから覗くマキの左足に命中する。

 堪らずによろめくマキ。いかにナースといえど、生者である限り死の温度に触れれば平気ではいられない。

 マキは奥歯を噛み締め、寒さに震える腕で尚もアサルトライフルを持ち上げようとする。しかし既に背後にはエレンが肉薄していた。

「もう避けれないでしょ」

 エレンの衝撃波混じりのキックがマキの体に直撃する。震撼する空気、完璧な一撃だ。マキは十メートル以上吹っ飛ばされ、路上に激しく落下した。

 ナースにようやくまともにダメージを与えることができた。それを見届け、しかしルキトは休む間もなく足元の地面に水鉄砲を連射した。小さな水溜りができると、ルキトはしゃがみ込んでその上に片手をつける。死の温度によって水溜りを一瞬のうちに凍結させ、それを土台のようにして尚も上へ上へと氷を伸ばしていく。

 衝撃波に乗った大ジャンプを経てエレンが傍に着地してきた。

「この水鉄砲、いいね。どこから持ってきたの?」

 氷を成長させながらルキトは水鉄砲を腰の裏にしまった。

「その辺に落ちていたから拾ってきたのよ。それよりもあなた、なにしてるの?」

「俺の後ろに隠れて。追い打ちをかける」

 冷え落ちた声でルキトはそうとだけ言う。エレンは言われるがままにルキトの背中に回った。氷はルキトのイメージに沿うようにして冷たい音を鳴らしながらどんどん長く、そして太く伸びていき――やがて大きな氷の柱が出来上がった。

 幅が広く、壁のように分厚い柱。どこかで見たような形――そう、件の道路橋の橋脚だ。

 マキが立ち上がる。純白の白衣は薄汚れていたが、まるで激闘そのものに高揚しているかのように目を見開いて口元を歪めている。確固たるダメージを受けたにも関わらず、マキは髪を乱しながら再度アサルトライフルを発射してきた。

「意外と楽しませてくれるじゃないの!」

 弾丸の雨が怒涛の勢いで正面から襲い掛かってきた。盾のように立ちはだかる氷の柱に激突し、氷の破片が派手に飛び散る。ルキトは地面に手を付けた体勢のまま、柱が破損していく裏で同時に氷を再形成させていく。

「合図したら、やって」

 鳴り止まない銃声の中、ルキトは姿勢を低くして後ろに隠れているエレンにそう伝えた。

「どういうことよ?」

「合体技」

 ルキトの言葉と、眼前に立つ氷の柱から、エレンは作戦を把握した。

「ダサいわね。男子ってそういうのが好きなの?」

「うるさい……」

 ルキトが口を尖らせたのと相まって、銃声が止んだ。氷の柱の陰から前方を覗き見ると、マキが焦った様子でアサルトライフルの弾倉を外していた。――弾切れだ。

「今。撃って」

 ルキトが肩越しにエレンに目をやる。エレンは数歩後ろに下がって構えている。

「あ、言っとくけど――」

 ぽつりと付け加える。

「あの橋脚を殴った時よりも、強めに」

「言ってくれるじゃない。上等だわ」

 今回の騒動の発端となり、ルキトとエレンが巡り会うきっかけともなった、言わば象徴的なオブジェ。エレンは思い切り右腕を引き絞り、勢いを付けて氷の橋脚をぶん殴った。それに併せて拳にめい一杯凝縮された拒絶の力が前方へ向かって爆発する。

 大地が震える程の衝撃を受けて木っ端微塵に砕ける氷の柱。無数の氷の破片が疾風の如きスピードでマキの許へ飛んで行く。その様は正に氷柱の弾丸だ。マキは驚きに顔を強張らせ、咄嗟に両腕をクロスさせて防御の姿勢を取る。

 そこに襲い来る数えきれないほどの氷の破片。きらきらと冷たい光を瞬かせながら、鋭利な氷弾は白衣もろともマキの腕や足にたくさんの傷をつけていく。その傷口から死の冷気も染み渡り、あまりの威力に遂にマキは後ろに転倒した。

 ルキトとエレンが互いのギフトを組み合わせたことで実現できた技だ。全ての氷弾が通過した後、地の上には仰向けに倒れ伏したマキの姿があった。全身傷だらけで、白衣も無残に切り刻まれている。崩れた前髪の下にある顔は、苦しげに歪んでいた。

 死の温度と拒絶の力の波状攻撃は、無敵とも思えたナースの女を再起不能になるまで追いやった。ルキトは緊張感を解かずにマキの出方を伺う。エレンもまだ拳を固く握り締めたままだ。

「……よく、考えてみなさいよ……あなた達」

 掠れた声を漏らしながら、アサルトライフルを杖のように突いてマキがふらふらと立ち上がった。絡まった長い髪、そして体のあちこちに傷を負ったことで白衣に血が滲んでいるその姿は、正に満身創痍の状態だ。

「ホスピタルに来ればギフトを失うけど、つまりそれは悲しい記憶も忘れられるってことなのよ? なのにどうしてそこまで抗うの?」

 息を切らし、マキが訴える。

「辛いことも悲しいこともひっくるめて、俺の人生だ。何一つとして、なかったことにはさせない」

 先に答えたのはルキトだ。エレンも続く。

「嫌なことを忘れてばかりいたら、いつまで経っても弱いままじゃない。そんなのは御免だわ」

 マキは気圧されるように二人のブレシスを見つめ返す。

「それはあなたたち個人の都合であって、ブレシスが厄介事の根源になることには変わらないのよ」

「ブレシスだって人間だ。間違いは犯すかもしれないけど、それを正すこともできる。争いが起きたとしても、きっと治められる。他の人の力になれるときだってあるかもしれない。俺は、そういうブレシスがこの世界に一人でも多くいることを、信じている」

 夜空にかかるてんびん座。その控えめな星の瞬きを背にし、ルキトは言う。そして――隣にいる少女にも、この想いが少しでも伝わればいいと胸の片隅で願った。

 腰を屈め、立っていることすらやっとといった様子のマキは、塵の付いた前髪を掻き上げて虚勢とも取れる冷笑を浮かべた。

「甘ちゃんね。そうだとしたら、ホスピタルなんてとっくの昔になくなってるわよ」

 重みのある言葉と共に再び銃を持ち上げるナース。底知れない闘志と信念。ルキトとエレンは身構える。

「あんた、まだやる気か」

「当然よ」

 マキが引き金に指をかける。闘いはまだ終わらない。元より二対一だが、今ではマキの方が消耗している。戦力としては互角か、あるいはルキトたちの方が上回っているかもしれない。あとはもう一度先程のような勝機を見出だせることができれば――。

 ルキトが逡巡している間も、マキは銃を構えたまま動かなかった。集中力を高めて最適な攻撃タイミングを見計らっているのだろうか、張り詰めた沈黙と緊張感が並木道に過る。

「……何よ、ナース・リンサ。今いいところなのよ、邪魔しないでくれる?」

 ――違う。マキは誰かと話をしていた。彼女の耳にはずっとイヤホンのような装置が付いており、ここにはいない人物と通話しているようだった。

「なんですって……!?」

 そんな、今まで一切の隙を見せていなかったマキの瞳が、ここにきて困惑に揺れた。彼女の意識がルキトたちとの闘いからイヤホンの向こうへ遷移した瞬間だった。

「どうしたのかしら?」

 臨戦態勢を取っていたエレンは肩透かしを食らったように構えを解く。

「さぁ……分からない。けどなんだか様子が変だ」

 こちらから攻撃を仕掛けるなら正しく今が絶好のチャンスだったが、それを躊躇してしまうほどの只ならぬ事態がマキの顔つきから伝わってくる。

 小声で通話しながらナースはちらちらとルキトたちを一瞥し――遂に銃を下ろした。闘いの気配が呆気無く消え去り、エレンが冷ややかに嘲笑った。

「かかってこないのね。興冷めだわ」

 エレンの挑発に反応しないほど、マキの表情には余裕がない。

「俺たちを捕まえるのを諦めたのか?」

 ルキトが真面目に問いかけると、マキは険しい口調で答えた。

「勝負はひとまずお預けよ。あなたたちに構っていられない事情ができたわ」

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