第16話 愛のレシピ


 瑠栞が三社の面接で一日家を空ける今日、運よく公休だったあたしはある計画に燃えていた。いつも美味しい料理をふるまってくれる瑠栞への感謝の気持ちを、いい恋人らしく行動で現そうというものだ。

 キッチンを掃除する。もちろん冷蔵庫やレンジやフライヤーなどの家電製品もみっちり中まで磨き上げる。


「よしっ!」


 髪を留め、使い捨て手袋を輪ゴムで固定して、いざ出陣。

 けれどもとより瑠栞はきちんとした性格で、片付けながら調理していくタイプなので、なんと目立つ汚れがなかった。水きりカゴにある朝食のときの食器についた、わずかに滴る水を拭いて食器棚にしまう。シンクはあたしの顔が反射しそうなくらいにはピカピカ光っている。

 気を取り直して冷蔵庫を開けた。整理整頓されている。

 レンジを開けた。壁や天井をこすってみても、汚れはない。

 フライヤーの中の油はあたしの判断だけで捨てるわけにはいかないにしても、縁や本体や周りに油汚れは残っていなかった。


「……天使」


 再び気を取り直して、床掃除を始めた。目に見えるひどい汚れはないとしても、拭けばやはりうっすらと掃除用のシートが汚れる。


「んー」


 ゴミ箱に捨てる前にじっくりと眺めてしまう程度には、ほのかな汚れ。

 まさか、あたしが気づかぬ間に朝のうちに掃除していったのだろうか。一緒に起きて、一緒に食事していたのに?

 ただでさえあんなに可愛いのに、奇跡を起こしすぎだ。

 もう一度気を取り直して、壁掃除を始めた。食器棚のガラスやカウンターも、見たところ光っているとしても丁寧に拭いていく。


「あああ」


 もう、途中から笑ってしまった。

 完璧なお嫁さんの前に、あたしのようなぐーたら亭主は出る幕ナシ。


「神さま、あたしのような不出来な者に彼女のような素晴らしい恋人を与えてくださり、ありがとうございます。どうかあたしが永遠に彼女を愛し、慈しみ、守り、支え共に歩むことができますように御導きください。そして病めるときも健やかなる、とき、も──」


 食器棚の上の段の縁を拭いているとき、見慣れない一冊のノートを発見して手を止める。

 あたしの右耳から、悪魔が囁いた。


 ──うっそ日記じゃないッ? 読もう!


「ダメ、ダメダメ」


 棚の縁を掴んだまま抗う。むしろ棚の縁にしがみついて我を律している。

 左耳からは天使がこう窘めてきた。


 ──沙橙、あなたは瑠栞の信頼を裏切るようなことは決してしないはずよ。


 そこで悪魔が叫ぶ。

 あたしは棚の縁を捥ぎ取らんばかりにきつく摘まんだ。


 ──バカ! こんな見えるところに置いといて読まないでくださいって方がどうかしてるんだよ!

 ──ここは彼女の家で、ここはもう彼女のキッチンなのよ。恋人だからといってプライバシーに立ち入り過ぎてはダメ。


 ──これはサインかも。きっと見つけてほしくてここに置いたんだよ。

 ──沙橙、このノートはきちんとしまわれているでしょう。忘れるならテーブルでもカウンターでも、もっとわかりやすい場所に置いて気を引くものよ。


 ──沙橙、あんたはドジなんだからそんなあんたが見つけられるような場所に置いてあるっていうことを、純粋な心でよく考えてごらん。

 ──沙橙、あなたは純粋な心の持ち主でしょう。秘密のノートを恋人に見られてしまったら傷つくわ。そうでしょう?


「秘密の、ノート……」


 愛にふやけたあたしの心を鋭いワードが引き裂いていく。

 瑠栞の秘密。日記、なのだろうか。日記であるなら見るべきではない。でももし、あたしが知ったほうがいい秘密だとしたら。例えば、あたしに言えずに困っていることがあるとか。実はあたしに相談できない問題を抱えているとか。

 

 ──そうだよ。瑠栞の心の内ぜんぶ知って、もっと頼れる恋人になろう!

 ──あなたは今のままで素敵な恋人よ。疑ってはダメ。

 ──愛してるなら骨の髄までぜんぶ

 ──愛しているのだから


 あたしはノートを手に取った。

 その瞬間、悪魔は笑うことなく消え、天使も嘆くことなく消えた。


「レシピ帳」


 表紙にはマジックで瑠栞の繊細な字がそう書かれている。雑念が全て消え去って、導かれるように開いた。几帳面な瑠栞らしく、一ページに一つずつレシピが丁寧にまとめられていた。数ページ見て気づいたのは、やや偏っているということだ。瑠栞がよく作るソテーや煮付け、切り干し大根やひじきの煮物は見当たらない。

 これはあたしの舌に合わせた、あたしのためのレシピ帳だ。瑠栞があたしに出会ってから覚えて作るようになった料理を、細かくまとめたノートだった。


「……」


 胸が詰まる。

 ノートを抱きしめて、息をすることさえ忘れてしまう。

 でも泣いてしまう前にもう少し秘密のレシピ帳を眺めてしまいたかった。だってこれは瑠栞の愛が詰まった、大切な秘密の宝物だから。あたしの涙で汚してしまわないように、大切に愛でてすべて目に焼き付けたい。

 ノートは五つのインデックスで区分けされている。肉、魚、野菜、主食、甘味。そう書いている。白紙の部分は、これから瑠栞が埋めてくれる場所だ。あたしの胸はもう一杯で、幸せで弾けそうだった。でも風船のように弾けて壊れたりしない。膨らんで、膨らんで、どんどん大きくなって、その分多く詰め込めるようになった愛を瑠栞に注いでいくのだ。


「瑠栞ちゃん愛してる」


 永遠に愛するために永遠の命を願おうと思ったその時、あたしは見つけた。


「……瑠栞ちゃん……っ」


 魚の項目に、ナマコの酢漬けがあった。あれは祖母の味だ。その地域で一般的なレシピや、ネットで調べたと思われる何人かの作者の名前と数々のアレンジや味付けの違いが細かくまとめられている。そんな中、瑠栞のコメントが書き添えられていた。


「ヤツは襲ってこない。ヤツは巨大化しない。ヤツは叫ばない。噛みつかない……」


 調理するあたしの手元を見て硬直した瑠栞の蒼白い顔を思い出す。再びノートを閉じて胸に抱いた。瑠栞は努力家だ。それは瑠栞の長所で魅力だけれど、あたしは無理をさせていないだろうか。あの蒼白い顔を打ち消す努力なんてさせてはいけないのに。

 ノートを丁寧に元あった場所へ戻す。

 瑠栞が秘密にしている、あたしへの深い愛。

 あたしはそれに報いているだろうか。



   *   *   *



 玄関の音がして、つい口元が綻んだ。


「ただいまぁー」


 几帳面な瑠栞でも、こうして砕けた挨拶はしてくれる。パタパタとスリッパの足音がして、求職用のビジネスバッグを置く音が続いた。


「いい匂い」

「瑠栞ちゃん、おかえりなさい」


 ターナーを手に半身でふり返る。ピシッとスーツを着こなした瑠栞が、頬を染め目をキラキラさせて笑っていた。


「夕飯、作ってくれたんですか?」

「うん。今日は瑠栞ちゃんがすごく頑張った日だから」

「せっかくのお休みなのに」

「だから全部、瑠栞ちゃんのための時間だよ」


 瑠栞の目があたしの手元からカウンターに流れ、また手元に戻ってくる。


「嬉しいです」

「シャワー浴びておいでよ。もうすぐできるから」

「はい」


 今夜のメニューは瑠栞の好きなピーマンを使ったピーマンの肉詰め、瑠栞の好きなニンジンとシメジの入ったオムレツ、梅紫蘇を和えた大根サラダ、トマトとワカメの洋風な味噌汁、デザートにはキウイとマスカットだ。

 瑠栞が上機嫌で身を返した時、ふと目線が上に飛んだ。


「あ、見つかっちゃいました?」

「……え」


 聞こえなかったふり、もしくはオムレツに集中していて聞き逃したふり。でもあたしの後ろめたい気持ちを吹き飛ばすような軽やかな声で、瑠栞は続けた。


「沙橙さん専用のレシピ帳。リクエスト、書いておいてくださいね」


 そして小走りで寝室に着替えを取りにいった瑠栞を、あたしはフライパンを持ち上げて火から離し、見送った。


 胸の奥が熱くなる。身震いしそうなほど。

 また燃えあがって、膨らんでいく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マシュマロターン 百谷シカ @shika-m

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ