第15話 ホラーナイト
急いで玄関の鍵を開けたとたん、ふんわりと優しい匂いがあたしを迎えた。遅くなることを伝えておいたけれど、帰宅時間に合わせて夕食を作ってくれたのだ。先に食べていいって言ったのに。
「瑠栞ちゃん! ただいま帰りました♪」
「おかえりなさーい」
気のない返事。
夜九時は怒らせるほど遅くないし、そんな事で怒る瑠栞ではない。きっとなにかに集中しているのだろう。邪魔しないように静かにパンプスを脱いで、荷物の音もなるべく出ないようにして忍び足でリビングに入る。
瑠栞は膝を抱えてソファーに深く座り、テレビを見ていた。
珍しい。
「ただいま」
寝室に向かいながら後ろを通る際に再び声をかけた。
「おかえりなさい」
「なに見てるの?」
瑠栞が恐らくタイトルを言ったのだろうけれど、聞き取れないほど小さな呟きに頬が緩む。
「そっか」
夢中になっているのだ。可愛い。
部屋着に着替えて戻ると、瑠栞が画面を注視しながら腰を浮かしているところだった。
「どうしたの?」
「ご飯、支度しないと」
画面の中では暗い廃坑のような場所を白人風の男女ふたりが息を弾ませて突き進んでいる。きっといいところだ。
「瑠栞ちゃん見てて」
「でも」
「あたしシャワー浴びちゃうから。楽しんでよ」
「ありがとうございます」
一度もこちらを見ないで瑠栞がソファーに腰を下ろした。
バスタオルと新しい下着を持ってバスルームに向かう際にまた後ろを通ると、恐怖を煽る音楽にのせてさっきのふたりがダッシュしている。追いかけられているようだ。瑠栞の艶やかな後頭部を眺めて、また頬が緩んだ。
キッチンを覗くと、今夜のおかずが見えた。豚バラとナスの味噌炒めに、ひじき、油揚げとしめじの味噌汁、そしてあたしの大好物のなめたけ。
テレビから悲鳴があがった。吹き替え版のようだ。
お腹がぐぅーと鳴ったけれど、待つだけの価値はある。
ゆっくりシャワーを浴びて、冷たいレモンティーを飲み干した。
瑠栞が固唾を呑んで見守る画面の中では、黴臭そうな古めかしい部屋でふたりが言い争っている。仲間割れだろうか。よくない。危機に陥った時こそ力を合わせないと。と思っていたら、突然キスシーンが始まった。舌を絡めて音を立てる濃厚なキスだ。あれよりもっと愛のこもった素敵なキスができるあたしの勝ちだ。
「さっぱりした~♪」
隣に腰を下ろしたあたしに気づいてさえいないような、瑠栞。食い入るように見つめる瞳と小さく尖った繊細な鼻筋、保湿リップしか塗っていない裸の唇を横から眺める。時計を見るとあと四十分は終わらない。
「温めてくるね」
「あ、すみません」
瑠栞が腰を浮かしかけたのを、優しく肩を押さえて座らせる。
「いいところでしょ? 食べながら見ようよ」
「でも」
「遅くなったのはあたしの都合だし。これくらいさせてよ。ね」
「……では、お言葉に甘えて……」
一度もあたしを見ない。
瑠栞の作ってくれた夕食を温め直し、ソファーの前のローテーブルに並べる。
「瑠栞ちゃん。いつも美味しいご飯ありがとう♪」
「簡単なもので……今日は、こちらこそ、すみません」
上の空なのも仕方ない。画面では女性のほうが埃塗れで唇と指先に怪我を負っている状態で、泣きながら鍵のようなものを順に試して扉を開けようとしている。鍵ではなくて、あくまで、鍵のようなものだ。不思議な建物に閉じ込められているホラーなのかもしれない。
「うわぁ~、美味しそう。食べようよ。いただきます」
「いただきます」
瑠栞と夕食を採りながら、建物が巨大な顔のように歪んで人間を飲み込もうとしたり、古い井戸から謎の粘液が噴き出して主人公のふたりを押し流したり、それによって離ればなれになって再会したと思ったらついに男性の方が目玉をくりぬかれて死んでいたりという惨事を眺めた。
お金がかかっている。
「ごちそうさまでした♪」
最後は悪霊と化した男性の霊にまで襲われつつ、女性はボロボロになって建物から逃げ出すことに成功。森を抜けて国道のような広い道路でトラックに拾われ、生活を送っていたらしい現代風のアパートに帰りついた。
そして朝の歯磨きで鏡の中に男性の霊を見るシーンで映画は終わった。
「はぁ」
呪縛から解き放たれたように、瑠栞が溜息を洩らす。
「瑠栞ちゃん」
「あ、沙橙さん」
やっと目が合って優しくキスをする。
「食休みしたらお風呂入っておいでよ。お湯、溜めておいたから」
「すみません。こんな、何から何まで」
「映画おもしろかった?」
「はい。堪能しました」
二人で片付けをしながら、そもそも今の映画がどういうストーリーだったのか解説を受けた。あたしはホラー映画にまったく興味がないのだけれど、瑠栞が好きだから概要は把握しておきたい。
「食い入るように見てたね」
「ドキドキしました。沙橙さん、ぜんぜん恐くないんですもんね」
「うん。でも、CG凄かった」
「次は沙橙さんの好きな映画見ましょう」
泣いちゃうようなラブストーリーをセレクトしておかねば。
しばらくして瑠栞が入浴の準備を整え、一旦バスルームに向かった。あたしはというと、ネットでニュースを確認するふりをしながら鼻歌を我慢している。
静かな足音が背後に迫った。
「沙橙さん」
「うん?」
瑠栞が真っ赤な顔で目を潤ませて、申し訳なさそうに声を絞る。
「申し訳ないですが、もう一度、入りませんか?」
「……」
「一緒に、入って下さい」
待ってました!
「うん、いいよ☆」
恐がりの見たがりなのだ、瑠栞は。
甘えん坊さんになった瑠栞がぴったりとあたしにくっついてくる。お風呂でも、ベッドでも。
ホラーナイト万歳!
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