4日目「リビングとキッチン」

平和、料理

 世界の再定義を始めて、もう四日目になります。仕事にもだいぶ慣れてきました。おかげで、一階の半分以上を占めるリビングとキッチンを、たったの一日で定義し直すことが出来ました。


 仕事はいたく順調です。本日の報告を始めるとしましょう。


 リビングは大きく分けて二つのスペースがありました。食卓が置かれた食事スペースと、宿泊客がテレビを見たりソファに寝そべったりする団らんスペースです。


 このうち団らんスペースの方は、私には全く意味のない場所ですので、リビングの新しい名前は「食堂」に決めました。食堂では、天からぶら下げられた丸いシェードランプが、いびつな形をした食卓を暖色の光で照らし出していました。


 リビングが食堂なら、キッチンは「厨房」です。今日も料理人の二人が、せっせと料理に励んでいました。昼は料理人の男、夜は料理人の女が当番だったようです。当番表は貼られていないので、二人の間に暗黙のルールでもあるのでしょう。どのみち、私には関係のないことですが。


 食堂は平和でした。厨房も平和でした。私がメジャー片手に食堂の測量を行っている間、洗濯人の女は何も尋ねてきませんでした。厨房にある食器類を棚から床に降ろしても、料理人の男は文句一つ言いません。


 個人の自由が認められ、争いのない世界。これこそ平和です。平和そのものです。秩序は世界にあまねく行き渡り、私はそれを身にしみて感じました。


 懸念していた元戦場:食卓にも、今では安らかな平和が舞い降りていました。戦いの傷跡はどこにも見当たりません。怒りと苦しみに満ちた戦争、暴言が激しく飛び交った未曾有の激戦は、本当に起きたことなのでしょうか。あの頃の悪夢が嘘のように、食卓は完璧な沈黙に支配されていました。


 私が夜の義務をこなす間、宿泊客の二人は口を開こうとしませんでした。以前のように異世界の話題を持ち出すような愚かな真似はせず、淡々と食事を続けているのでした。宿泊客を見習って、私も無言のまま食糧を口に運びました。


 平和でした。平和が食卓を包みこんでいました。


 戦争の時代は過ぎ去ったのです。これからは人間が幸福を追求する時代です。決して揺らぐことのない秩序が世界に築かれ、安らぎと静けさに満ちた平和が実現されるのです。


 だが、そんな完全で侵しがたい平和に、一抹の影が忍び寄りつつある。


 きっかけは些細な行動だった。夜の義務を終えた私は、生命維持に欠かせない水を飲もうとした。だが、冷水は嫌だった。全身に寒気がしたので、温かい飲み物が欲しかったのだ。私はケトルに水を汲み、お湯を沸かした。


 ただ、それだけだ。それだけの行動で、私は床が抜けるような不安に苛まれることとなった。


 ケトルに水を入れる。プラグをコンセントに差しこむ。ケトルの電源スイッチを押す。お湯を湯呑みに注ぐ。これらの動作のどこに不安を感じる要素があるのか。私は不安の正体を掴めなかった。掴めないから、ますます不安になった。


 日記を書いている今もなお、その原因は分からないままだ。正体不明の感情が心を揺さぶり続けている。心拍数が上昇し、体の表面があからさまに熱い。不安だ、とにかく不安だ。前方の黒いオブジェが前触れなく倒れて私を押し潰すイメージが頭から離れない。闇に潜む恐怖は、手すりのない階段だ。放っておけばおくほど、負の感情は増殖し、悪性の胃潰瘍のように精神を蝕んでいく。


 どこが間違っている? 私の行動のどこが間違っているんだ?


 答えの出ない質問が意識にまとわりつき、不安と恐怖の波が折り重なるように押し寄せる。夜に神経を高ぶらせやがって。今夜は眠れそうにない。寝台に体を横たえても、最低三時間は目を開けた状態で過ごすことになりそうだ。過去の経験がそれを証明している。不眠の感覚は尿意と同じぐらい正直なんだ。絶対に嘘をつかない。


 今日の日記はこれぐらいにしておく。感情を文字に起こせば不安が和らぐかと思ったが、とんだ期待外れだった。心理療法にはロクなものがないと改めて思う。


 明日も仕事がある。和室でいつものルーチンワークだ。だからもう寝よう。寝られないのは重々承知しているが。


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