文学

 目録作りは骨の折れる仕事ではあったが、案外、順調に進んだ。寝具・薬品・文房具・衣類等、あらかたの物品のリストアップを完了し、本棚に並べられた書籍類を残すのみとなった。


 書籍の目録を作るとなれば、奥付に記載された作品名・作者名・出版年月日などから成る書誌事項を一冊ずつ確認しなければらない。私は本の一冊に手をかけた。裏表紙の方からページをめくり、奥付に書かれた情報を確認した。



 作品名:門

 著者:夏目漱石



 著者名を読んだ途端、私の頭に素朴な疑問が湧き上がった。この本を書いた夏目漱石とは何者だ? この世界の住民は私を含めても三人しかいない。その誰一人として夏目漱石という名前を持ち合わせてはおらず、歴史を遡ってみても、夏目漱石なる人物が世界に滞在した形跡はどこにも見当たらない。


 結論はすぐに出た。夏目漱石は異世界人だ!


 その発見を機に、私の本を見る目が一変したのはわかって頂けるだろう。小松左京、三島由紀夫、澁澤龍彦、デール・カーネギー、リチャード・ファインマン……ここにある本の著者は揃いも揃って異世界人だ!


 書誌事項を片っ端から書き写しながら、私はなんとも嫌な気分になった。コンポに続いて本棚までもが、異世界の作品で埋め尽くされていたのである。自室が異文化の巣窟と化しているのは、あまり気持ちのいいものではない。適応障害が悪化する恐れもある。


 楽器の件に続いて、新たな見落としが発覚したのも不快だった。歌詞も楽器も関係なく、コンポに蓄積された音楽が現実世界のものであるはずがなかったのだ。この世界の住民で音楽を生業にしている者は一人もいないのだから、作曲家の肩書を持つ人間は、問答無用で異世界人なのである。


 シェーンベルク? 当然、異世界人だ!


 本の目録を作る仕事は機械的にさっさと片づけた。最後の一冊を本棚に押し戻し、私はしばらくの間、棚の前で物思いにふけった。元来の性格なのか病気が原因なのかは不明だが、たまにどうでもいいことが気になって、じっくり吟味したくなる時がある。


 その時は、現実世界の文学のことが心に引っかかっていた。本棚では見つからなかったが、この世界にも文学は存在すると仮定してみよう。果たして、それはどんな内容なのか? 


 そこで私が思い出したのは、先ほどコンポで見かけた「室内楽」という言葉だった。音楽自体はこの世界にすでになく、室内楽も消失していたが、室内楽を示す言葉だけはかろうじて残っていた。


 私はこう考えた。「室内楽」が音楽の一形態として成立するのなら、文学の世界に「室内詩」という分野があってもよいのでは?



 室内詩:室内で暮らす人間が室内について詠った詩



 私は本棚から離れ、机の前の六歩足チェアに腰かけると、引き出しから新品のノートとボールペンと黒いマジックペンを取りだした。目録を作っていたおかげで、ノートとペンの置き場所はすぐに知れた。ノートの表紙いっぱいにマジックペンで「室内詩」と書いてから白紙のページを開いた。


 机と向き合っていたのは、十分ぐらいだったと記憶している。試行錯誤を繰り返し、私は一篇の室内詩を完成させた。



『本棚』


本を一冊取り出そうとする


隣の本に引っかかって、なかなか動いてくれない


ぎっしりと敷き詰められた本は、どこを見たって余裕がなくて


ずいぶんと窮屈そうだ



 こうして室内詩が誕生したことにより、文学はかろうじて消滅をまぬがれた。まあ、消えたところで困りはしないのだが。左目の視神経を欠損して以来、文字を読むのさえ困難な体だ。私の娯楽から「読書」が消えてから、すでに五年以上が経過している。文学が無くなろうが、正直知ったことではない。


 とはいえ、読むのは不可能でも書くことはできる。室内詩の創作は新しい娯楽になりうるのだ。たった一つしかない娯楽が二つに増える。これは記念すべき事件かもしれない。


 ――――そんな楽しい夢想から現実に立ち返ってみると、室内詩の制作は時間も手間もかかる大変な労苦であるし、誰にも読まれない詩を作るのは途方もなく無意味なことに思えた。そもそも今の無気力な生活を始めてからというもの、新しい趣味や習慣が一日以上続いた試しがない。


 ああ、きっと明日になれば室内詩への興味は完全に消えているのだろうなと確信めいた予感を抱きつつ、私は「室内詩」と大きく書かれたノートを机の引き出しにしまった。


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