音楽

 十年以上使い続けている塗装が所々剥がれたミニコンポは、時の流れが止まったこの部屋を実によく象徴している。内蔵のハードディスクには1500以上のアルバムデータが収納されているが、これらは全て一枚一枚CDからダビングしたものだ。


 作業用のBGMとして、膨大なトラックの中からトーキング・ヘッズの名曲『ワンス・イン・ア・ライフタイム』を選択した。有線のスピーカーから、トリップ感の漂う不可思議なイントロが流れ始めた。


 物品の目録作りにいそしみながらデヴィッド・バーンのボーカルに耳を傾けていると、とある歌詞の一節がじんわりと心に響いた。


 And you may tell yourself, "This is not my beautiful house"


 直訳すれば「そしてあなたは自分自身にこう語りかけるかもしれない。『これは私の美しい世界ではない』」。


 悲痛な言葉だ。自分の属する世界が実は自分の世界ではないという恐怖に襲われた男の叫び。その苦しみには共感を禁じ得ない。この男に比べれば、私は遥かに恵まれた境遇にいるのだろう。美しいかどうかはともかく、属している世界が自分の世界であると迷いもなく断言できるのだから。


 だが歌を聞いているうちに、感動よりも困惑の方が心を占めるようになった。歌詞の所々に散見される奇妙な単語に気づいたのだ。


 Under the rocks and stonesの"rocks",


 Under the rocks and stonesの"stones",


 Where does that highway go to?の"highway",


 岩、石、高速道路…………いずれもこの世界には存在しない事物である。この曲の大意は、一人の男が人生を振り返りその是非を自身に問いかけるというものだが、そこにどうしてファンタジックな語彙が入り込んでくるのか、私にはさっぱり理解できなかった。


 それに歌詞で語られる悩みもどこか現実感を欠いた、私の人生とは無縁のものに思えた。自動車とか妻とか、随分と贅沢な悩みだ。他に歌うことなどいくらでもあるだろう。胃液の逆流で日に三回嘔吐する苦しみとか、キャリアが大学中退で止まる虚しさとか……。


 あれこれ考えた末に到達した結論は、どうやらこの曲は異世界の歌らしいということであった。玄関の外に広がる異世界から輸入されたと考えれば、奇怪な語彙の組み合わせも、現実離れした歌詞も全て説明がつく。『ワンス・イン・ア・ライフタイム』は異世界のバンドが異世界について歌った曲なのだ。


 その気づきは、私が歌い手に感じた共感をあっという間に霧消させた。スピーカーから流れる音楽が血液型の合わない輸血のように思われ、理屈でというよりは感情的に、拒絶の意思を示したくなった。私は即座に一時停止のボタンを押した。音楽は止まった。


 それから私はリモコンを操作し、どこかにあるはずの現実世界の音楽を求めて、膨大なトラックを探し回った。


 ハードディスクに納められた音楽のうち、歌入りの曲は問題外だった。一曲たりとも例外なく、異世界の語彙が混ざりこんでいたのだ。タイトルからして『TAXI』だの『虹』だの、話にならない名称ばかりで、現実から遊離した空想的な内容がふわふわと歌われている有様だった。


 器楽曲も似たようなもので、『錨を上げて』『嵐の歌』『Guitar Shop』……という風に、幻想的な標題をつけられたものが多かった。現実世界の音楽を探す試みは甚だ困難を極めた。


 結局、二十分以上もの時間をかけて、目的に合致したアルバムを探り当てた。そのアルバムとは『シェーンベルク室内楽作品集』である。


 室内楽……今の自分にこれほどふさわしい曲があるだろうか? 室内の聴き手に向けて室内で演奏される器楽曲。まさに、引きこもりのために作られた音楽だ。これこそ現実世界の音楽だと私は確信した。


 アルバムに収録された曲は複数あった。なんとなく題名が気にいったので、私は『浄められた夜』を選んだ。浄められた夜というのは、きっと一年のうちに一度か二度訪れる、不眠に苦しまずに熟睡できる夜のことを指すのだろう。それは、非日常を表現する音楽にぴったりの主題だといえる。


 患者特有の親近感を抱きつつ、私は再生ボタンを押した。チェロとヴィオラによる重々しい序奏が奏でられた。それからチェロとヴィオラが現実世界には存在しない架空の楽器だと気づくまで、三秒とかからなかった。


 乱暴な動作で、私は一時停止のボタンを押した。自分の認識がつくづく甘かったことを今更ながらに自覚し、激しい嫌悪の情にとらわれた。


 エレキギター、ベース、ドラム、バイオリン、ヴィオラ、チェロ、ホルン、トランペット、ファゴット、フルート…………歌詞以前に異世界の楽器が使われている時点で、これまで確認した音楽は考えるまでもなく異世界の音楽だったのである。そんな単純な事実に気づけないとは実に情けない話だが、私の頭は長い間使われていなかったために、思考力が相当鈍くなっているらしい。


 現実世界の音楽を探すつもりなら、現実世界の楽器が使われているかどうかを最初にチェックするべきだったのだ。


 というわけで、新しい観点から音楽の探索を再開した。私の属するこの世界には一つだけ楽器が存在する。一階のリビングの隅に置かれた黒い電子ピアノだ。最後に音を出したのは…………残念ながら記憶にない。ちなみにダンパーペダルはバネがいかれているし、電源プラグは引っこ抜かれている。鍵盤を覆い隠す蓋に、隙間なく真っ白な埃が溜まっているのは書くまでもないだろう。


 今もって演奏可能なのかどうか怪しい代物だが、この世界に電子ピアノが存在するというのは紛れもない事実だ。よって、現実世界の音楽とは「電子ピアノ一台だけで演奏される器楽曲」だと定義される。


 私は再びコンポに向き合い、この定義に当てはまる音楽を探し始めた。


 結果は収穫ゼロに終わった。あろうことか、このコンポには現実世界の音楽は一曲も収録されていなかったのである。


 私はコンポの電源を切り、音楽を聴くのを止めた。この瞬間、世界から音楽が消失した。特に悲しいとは思わなかった。

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