語彙論

 六歩足チェアの背もたれに体を預け、今日の仕事を振り返ってみた。


 メジャーを使った測量に始まり、インテリアの観察を経て、最後に物品の目録作りを行った。病人の仕事にしては上出来な仕上がりである。体は隅々まで疲弊し、走ったわけでもないのに息が上がっていた。ここで仕事を切り上げても特段不思議ではなかった。


 ところが、私はなぜか物足りなさを感じていた。何かが足りないという漠然とした考えに心を囚われ、どうしても仕事を終える気になれなかった。


 私の仕事は「世界の再定義」である。なのに、今日の私の取り組みといえば、世界に配置された事物を一つずつ観察して、紙面に記録しただけに過ぎない。世界を再定義したとは到底いえないだろう。


 正体のつかめない欠落を求めて、私は仕事の続行を決めた。


 とは言っても、何をすればよいのか、肝心な点はわからなかったので、いつも通りモニターの真っ黒なディスプレイを眺め続けていたわけだが。まさか、この虚無的な習慣が意外な形で役に立つとは、思いもよらなかった。


 変化は一時間後に起きた。相変わらず、視界の中央には黒いディスプレイが鎮座していた。ふと私はモニターの背後から伸びているHDMIケーブルに気がついた。ケーブルの先は同じ机の上に置かれたノートパソコンの端子に接続されている。


 目が光の刺激に耐えられないため、パソコンの電源はめったにつけない。モニターも疲れ目対策で購入したものだ。だから、あまり意識していなかったのだが、目録作りが功を奏したのだろう。たったの一時間で、パソコンの存在を思い出すことができた。


 ただし、重要なのはパソコンの実体ではなく名前の方だった。パソコンという言葉から、自然とインターネットという言葉が連想され、そのインターネットという言葉に違和感を覚えたのだ。


 インターネット。英語で記せば"Internet"、"inter"と"net"の合成語である。


 "inter"は「~の間」「中に」「相互の」を意味する接頭辞、"net"は「網」を意味する名詞だったと記憶している。


 問題は"inter"の方である。調べるまでもなく、インターネット上に蓄えられている情報は100パーセント異世界のものだ。つまり、インターネットにアクセスする行為は、異世界の文化を覗き見ることに他ならない。この世界から外に向けて伸びている通信回線をインターネットと呼んでいるわけだ。


 しかし、外に向けて伸びているものに"inter(中に)"の名をあてがうのは奇怪であり、むしろ「外へ」を意味する接頭辞"outer"をつけて"Outernet"と呼称するのが道理だと私は考えた。結果、インターネットはアウターネットに改名された。


 こうした言語上の問題が浮かび上がると、もはや一つの単語の問題ではすまなくなった。他の単語についても、同様のことが言えるからだ。だから、私は部屋中にあるものを六歩足チェアの上から眺め見て、適切な名前への変更作業に従事した。

 

 いくつか例を挙げると……、



 六歩足チェア→定位置


 ハンガーラック→置物(一着も服が吊るされていないため)


 コンポ→オブジェ


 パジャマ→普段着


 二階の天井→空



 こんな具合である。最も大きな変更は「インテリア」が「イア」になったことだろうか。"interior(インテリア)"の"inter"が冗長に思えたので、接頭辞をまるごと引っこ抜いてやったのだ。家具が世界の中に存在するのは自明であるから、くどくどと述べ立てる必要はない。同じ理由で「室内」という言葉も抹消した。なお、改名されずに元の名前が残った事物も少なからず存在した。


 部屋にある事物とそれぞれ向き合い、新しい名前を考える作業の間、私は初めて世界を再定義しているという実感を得ることができた。これだ、これこそ私が求めていたものだ。誕生したばかりの世界は無秩序で、虚空が広がるだけの茫漠とした空間に過ぎない。そこに意味が付与されることで、世界は初めて輝きを得る。やがて世界の隅々まで意味が満ちていき、世界は完成形へと至るのだ。その手助けをするのが私の使命なのだ。


 どうやら職務の内容がはっきりしたようだ。空間の測量・イアの観察・物品の目録作り・事物の命名、以上四つをルーチンワークとして行う。仕事の内容を知れたことが、今日一番の収穫かもしれない。あとは同じ作業を各部屋で繰り返すだけである。


 事物の命名をもって、本日分の仕事は終了した。明日の仕事場は、両親の部屋を予定している。ちょうど両親が不在で、仕事がやりやすいからだ。それに自室の隣に位置しているので、移動距離も少なくて済む。


 問題は、明日になっても現在のやる気が継続しているかどうかだ。数年来、新しい習慣が根づいた試しがないので、何かと不安ではある。しかし、私はこの無益な仕事を必ずやり遂げるつもりだ。倦怠感と体調不良に襲われようとも、必ずや世界の再定義を達成してみせる。その果てに何が待ち受けるのか、私は少なからず興味を抱いているのだ。


 今日の日記はこれでおしまいにする。現在時刻は八時三四分。就寝時間が来るまで、定位置で静止していよう。

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