第13話 あの日の私

 伏見さんは握った手に力をこめると、私がこれまでに体験したことがどんどん呼び起こされた。

 それこそ自分でも忘れてしまっていた事まで全部だ。


「いや、待って」

「大丈夫。終わったら体が軽くなるから」

「怖いよ」

「俺がここに居るから、心配するな」


 私の肩を抱いた腕にもギュッと力が入った。それは頑張れと励まされているように思えた。

 そして瞼の裏にあの日の自分と、巻き込まれた人たちが映し出された。



 ◆



 ―― 小学校三年の春。


『おじちゃん! 行ったらダメ』


 キキキー!……ドンッ!


『救急車を呼べ! 事故だ』


 あのおじさんの生死は分からないままだった。ただ、ハンドルに突っ伏した背中が見えただけだで、それはピクリとも動かなかった。


(お人形さんみたい……)


 ―― 中学二年の夏。


(もう、嫌だ。死にたいな)


『えっ⁉︎』

『またね、奏。バイバーイ』


 次の日、全校集会でその子の死を知らされた。死因はいじめによる自殺。聞こえていたのに。声をかけられなかった十四歳の夏。


 素直にダメだと言ったのに事故に遭ったおじさん。自分もいじめられるのが怖くて、気付いていたのに気付かない振りをして失った友の命。

 目を瞑っても見えてしまう。耳を塞いでも聞えてくる。


 ―― 高校二年の秋。


『奏、おばあちゃんと留守番してて。明日の夕方には帰って来るから』

『うん。お父さんに宜しく』


 仕事の都合で、単身赴任をしていた父のもとへ母は時々通っていた。


『ちょっと待ちなさい。紗江さん、今晩中に二人で帰って来なさい』

『おばあちゃん、それがダメなのよ。明日は職場の方の息子さんの結婚式だから』

『あんたたち死ぬよ』

『もうやめてください。おばあちゃんも奏も、時々変な事言うんだから。じゃあね』

『お母さん行かないで、結婚式は行かないでーっ!」


 嫌だ、見たくない。あの映像だけは見たくない!

 見せないで! お願いっ。見せないでぇ――!



 ◆



「おい! 大丈夫かっ!」


 大きな声に起こされて、目を開けると伏見さんが私の顔を覗き込んでいた。


「はぁ、はぁ、はぁっ。あっ、あっ」


 息が上がり過ぎて言葉が出せなかった。伏見さんは額から汗をボタボタと流していて、彼もまた体力を消耗しているのだと知った。


「ご、ごめん。急ぎ過ぎた」


 伏見さんが小さな声で私に詫びる。


 私はありったけの気力であの時の映像を切った。どんなに後悔しても、どれほど嘆いても、あの日は帰ってこない。だから二度と見たくなかった。

 それでも思い出してしまい勝手に涙が出てきた。私は涙を拭う力もなく、瞬きをするのがやっとだ。

 そんな私を見た伏見さんは、一瞬目を見開いてその後は眉間に深い皺を刻んだ。


「俺が、……やる、よ」


 霞がかかったような視界とぼんやりとした意識では、彼が言った言葉は聞き取れない。

 でもとても悲しそうに私を見つめ、その胸に引き寄せられた事だけは分かった。


「伏見さん」

「なに」

「……眠い」

「ああ。少し休んだ方がいいな」


 そのまま抱え上げられ、真新しいベッドに寝かさた。

 またあの続きを見るのが怖かったけれど、それ以上に体がだるくて、恐怖より眠気が勝っていた。


「俺、ずっと見てたんだ。あんたは知らないだろうけど、人の目を気にせずに駅構内のホームを走る姿を。なんでそんなに一生懸命なんだろうって気になった。あの日、俺の怪我を予知した。その時縮まった距離で感じたんだ。ああ、彼女も俺と同じだって。そしてその細い体が限界を訴えている事も分かった。俺、捻くれてるからこんなやり方しか出来ないんだ。警察官なのをいい事に、その社会地位を利用してあんたを囲った。俺、あんたの事……」


 誰かに優しく頭を撫でられている気がした。

 お母さん? それともお父さん?……そんなわけはない。だって、二人はもう。


 目が覚めたらまだ泣いていることに気づいた。


(やばっ、瞼が重い。腫れてるよね、これ)


 窓のカーテンをめくったら、外はもう暗くなり始めていた。いったい、どれくらい眠っていたのだろう。


(どうしよう。私は本当にここで伏見さんと暮らすの?)


 そんな時、部屋の向こうからとても美味しそうな匂いがした。その匂いに反応して、胃がキュルキュルと音を鳴らす。こんなに気持ちは重たいのに、人間ってどんな時でもお腹は空くのね。


「お腹空いた……カレー?」


 私はそっとドアを開けてその匂いのする方へ視線を向けた。


(うそっ)


 伏見さんがキッチンに立っていた。

 なにやら忙しそうに動いている。一番上の棚も手を伸ばしただけで届くし、見る限り手際も良さそうだ。

 そっとドアを開け、部屋を出た。目が腫れているのを手で隠しながら、洗面所を目指した。先ずは顔を洗って気持ちを引き締めたい。

 伏見さんは私に気づいている筈だけど、何も言わずに見送ってくれる。


 そして、洗面台の鏡を見た私は唖然とした。


「ひどっ!」


 目は充血し、瞼はボテッと腫れ、頬は赤く擦れたようになっている。

 私はひとまず顔を洗って化粧を落とした。もともと眉はしっかりあるので描く必要はない。

 でも、流石にこの顔は見せられない。絶対に、笑われるから! だからといって、ここに籠るわけにもいかない。


「あのぅ」


 私は額に手でヒサシを作るようにして、視線を伏せながら伏見さんに声をかけた。


「ん? どうした」

「あの、私、今すっごく目が腫れてるんだよね。だから」

「なら、これ使え」


 私の目を見ないようにして差し出してきたのは、キンキンに冷えたタオルだった。中にはアイスパックが入っている。あんなにぶっきらぼうなのに、差し出す手は優しい。


「ありがとう」


 その冷えたタオルで両目を覆うように手で押さえ、ソファーに座った。

 キッチンでお皿を置く音や、何かを包丁で刻む音がする。そして、香辛料のきいたカレーの匂いが空っぽの私の胃を激しく刺激する。

 しばらくすると、彼がこちらに近づいて来るのが分かった。


(目を使わないと、耳って凄く敏感なんだね。なんかドキドキする)


 つい、体に力を入れてしまう。


「はっ、構えんなよ。もうしないから」


 さっきの事を言っているのだと思った。そのまま伏見さんは私の隣に座った。


「ふわっ!」


 つい声が漏れる。

 だって、彼の重みでソファーが凹んで私の体が傾いたから。両手は塞がっているわけで、離せば不細工なあの顔を彼に晒してしまう。その躊躇いが招いた結果が、彼の肩に寄り添う格好をとってしまった。


「顔、そんなにひでーの?」


 伏見さんはもたれ掛かった私の肩を抱き、耳元でそう囁いた。


「っ! ちょ、耳元で話さないで!」

「なんだよ。だったら顔を見せろ」

「嫌だ!」

「ふん、ならこれでどうだ」


 止めてと言ったのに彼は、私の耳に、なんと、その唇を!


「やっ、んんー」


 私は生温かい感覚に驚いて、思わず顔を上げた。ニヤッと笑う彼の顔が目に入る。


「何したの さっき何をしたんですかぁぁー!」

「ちょ……土偶みたいな目になってるぞ。ぶはははは」


 伏見さんは目尻に涙をためて、腹を抱えて笑い出した。


(腹立つイケメンだなぁ!)


 睨んでみたけど、まったく効き目はなし。


「ひー、面白れぇ。よし、飯だ。飯っ、食うぞ……ぷっ、ダハハハ」

「ひどい!」


 今の私の顔ではなにをしても、事態を打開できそうにない。

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