27.吸血鬼の返還と不穏な予感

 翌朝。

 リトの自宅で朝食を共にしたライズとティオを伴って、リトはいつものように研究所に出勤した。

 室内に足を踏み入れた瞬間、気が重くなって身体の動きが止まった。


 決して忘れていたわけじゃなかった。

 ただ、この二日間色んなことがありすぎて、鏡に映るをもう見慣れてしまっていただけで——。


「所長、何があったんですか!? ソレ、退行……してますよね?」


 研究のことばかりに頭になく、必要な時以外はあまり言葉を交わさないリトの部下達。

 しかし今回ばかりは、その全員に痛そうなものを見る目を向けられる。

 頭痛を覚えて、リトは頭を抱えた。


 背が縮んで若返ることなんて、普通どの種族にだって起きない。

 魔族ジェマの年齢退行も同じだ。そう頻繁に起きることなんてない。いわゆるレアなケースだ。


 そういえば、以前に読んだ論文にも年齢退行について扱ったものがあった。

 精神的なショックや身体的に大きな苦痛から逃れるための自衛で子どもの姿に戻る、という見解だったか。

 リトの場合、退行のきっかけは心臓の発作なのだろうけど。


 いつまでも哀れみの目を向けられるので、リトはなるべく考えないようにして、ライズを連れて所長室に避難した。

 自分だけ引きこもっても、事情を知ってそうなライズが部下達から尋問を受ける展開くらいは読めている。

 病み上がりの彼にそんな仕打ちは可哀想だと思ったのだ。


「ライズ、俺はこれから毎日出勤できる自信がない」


 来る日も来る日も、あの同情のこもった目を向けられ続けるだなんて居心地が悪すぎる。


「何言ってるんですか。それだけ外見が変われば、みんなの反応は当然ですよ」


 呆れたように返されて、リトは不満で口を引き結ぶ。

 そしてふと、頭の中で疑問が浮かんだ。


 そういえばどのくらい若返ったのだろう。


 椅子から立ち上がり、リトは窓のガラスに映る自分を観察してみる。

 大人というにはまだ子どもっぽい。けれど子どもというには大人びているような、微妙な顔立ち。

 おそらく十代の終わり頃くらいだろう。

 十年、いや二十年くらいか? 


 どうしよう。研究所の所長として、また筆頭貴族の当主という立場上、たまに女王と謁見しなければならないというのに。

 なんて言い訳したらいいんだ。


「所長はいるか?」


 無遠慮な言葉と共にドアを開けられて、リトとライズはほぼ同時に振り返った。

 部屋の入り口には、白いローブに身を包んだ白い髪の男。彼の手がつかんでいる人物を見た瞬間、リトはあからさまに苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

 嫌な予感がする。


「……どうしたんだ、カミル様」

「やはり、これはお前が何とかしろ」


 ぐいっと目の前に突き出されたのは、赤髪の吸血鬼だった。昨日の夜、カミルに処遇を任せたレイゼルだ。

 どうやら見間違いではなかったらしい。


「こいつが何かしたのか?」


 いつになく低い声と、彼をまとう険悪な雰囲気。たぶん、カミルは怒っている。

 大賢者を相手に、レイゼルは一体何をやらかしたんだ。


「聞きたいか?」


 地を這うような低い声に、リトは思わず首を横に振る。


「……いや、やっぱりいい。遠慮しておく」


 触れない方がいい気がする。


 ——そう、リトが頭の中で結論付けた時だった。

 突然、カミルはつかんでいたレイゼルの首根っこを離した。当然、床に尻餅をついたレイゼルはうずくまってしまう。


 あんまりな乱暴な扱いを受けて、カミルに襲いかからないだろうか。

 そんな思いはリトの杞憂で終わった。

 なぜなら、顔を上げて血走った目を向けたのは、目の前の白い男ではなくリトだったからだ。


「貴様っ、リトアーユ! 殺してやる……!」


 胸ぐらをつかみ、レイゼルは今にも殴りかからんばかりに片方の手を振り上げた。

 しかし、何かにせき止められているかのように、拳が振り下ろされることなくピタリと止まったままだ。


 なるほど、これが行動制限か。

 たぶん、誰かに危害を加えないように制限を課されているのだろう。


「こいつ、どうしようか。俺の部署に置いてもいいが、ティオが怖がるだろうしな」


 かと言って、女王に突き出すのもそれはそれで後が怖い。

 大体、レイゼルが証言すれば、帝国では違法となっている制約ギアスの指輪を作成していたことがバレてしまう。それだけは避けたい。


「たしかにカミル様がこいつの面倒見るわけないですよねー。オレ、引き取りますよ」


 進言したのはライズだった。まるでちょっとそこまで行ってくる、みたいなノリだ。


「いいのか? ライズ」


 今回の事件で一番の被害者は、間違いなくライズだ。

 だから、リトは自分が引き取らざるを得ないと考えていたのに。


 上司が抱く心配をライズはすぐに察したのか、へらっと気の抜けたように笑う。


「もう何もできないんだったら大丈夫です。そういうわけだから、いつまでも所長にすがり付いてないで一緒に来いよ。仕事教えてやるからさー」

「放せ!」


 何事もなかったように、ライズはレイゼルをリトから引き剥がすと所長室から出て行った。おそらく、自分のデスクに連れて行って本当に仕事を教える気なのだろう。

 素直に、すごいと思う。ライズを心の底から尊敬せずにはいられない。


 あれだけひどい目に遭ったのに。

 囚われて、身体を束縛するような呪いをかけられて。さらには自分と同士討ちまでさせられたのに。

 どうして。

 なぜ、ああも簡単に受け入れてしまえるのだろう。


「ライズは平気なのか?」


 カミルも気にかけているのだろう。

 紅い瞳をわずかに細めて、閉められたドアを見つめていた。


「あいつは無理なことは無理だと言うさ。大丈夫って言うからには大丈夫なんだろう」


 もともと身体が丈夫でないライズは、何でもはっきりと主張する。不調な時はためらわずに休むし無理はしない。

 だから、きっと心配は無用だろう。


「ふむ。おまえはどうなんだ?」

「何がだ?」


 振り返ったカミルの紅い瞳とリトの瞳がかち合う。

 彼の問いかけが不可解で首を傾げると、カミルは距離を詰めてきた。


「先日の拒絶は本心なのか、それとも一度限りの偶然なのか。私としては気になるところだ」


 質問の意味を理解した頃はすでに遅かった。

 白い手が伸びて、リトの顎をつかむ。途端に身体が硬直して頭の中が真っ白になった。


「え」

「実を言えば、私は少々機嫌が悪くてね。おまえが付き合え、リトアーユ」


 ちょっと待て——、と制止する暇さえなかった。

 間を置かずにすぐに口を塞がれて、リトは石のように固まった。そのまま力任せに体重をかけられ、ぐらりと浮遊感を覚える。

 唇が離されて気がついた時には、ソファに押し倒されていた。


 今日のカミルは虫の居所が悪い。そんなこと、見ればすぐに分かっていた。

 いつになく強引で何度も唇を重ねられる。

 満足に呼吸もできず、なにも考えられない。


 このまま意識まで溶けてしまいそうだと、思った時。

 不意に、ぞくりと寒気を感じた。


 いつの間に手を伸ばしたのか、リトのシャツのボタンを外して脱がせにかかっているらしい。

 カミルがなにをしようとしているのか。

 そんなこと、リトの肩をむき出しにしている時点で分かりきっている。


 カミルの唇が、リトの首筋に移る。


 ふと、昨夜聞いたラディアスの言葉が浮かんだ。


 ——全部奪われる前になんとかしないと、キミが傷つくよ。

 そう彼は言っていた。


 あれは、いつ教えてもらっただろうか。

 真夜中の研究所で告げられた言葉。

 ——吸血鬼の魔族ジェマによる吸血は、所有印。


 刹那。

 リトは闇色の目を大きく見開いた。


「や、めろ……っ」


 腕に力を込めて、リトは自分に覆いかぶさっていた白い魔族ジェマを押し返した。

 ぴた、とカミルの動きが止まる。


「そんなに嫌なのかね?」


 確認するように尋ねられた。


 視界が涙で歪んでいる。

 強く頷いて、リトははっきりと告げる。


「嫌だ」


 カミルのことは嫌いじゃないし、尊敬している。

 彼の持つ膨大な知識は彼自身の努力で得たものだと知っているし、カミルが手掛ける魔法道具マジックツールはもはや精緻を極めた細工を凝らした芸術品だ。

 技術者として、また魔法使いとして彼に敵うひとは誰もいないだろう。


 それに、カミルはリトが独りぼっちで寂しい時、手を差し伸べてくれた。

 動機はどうあれ部下である自分を気遣っていたのだと、リトは思う。

 きっとラァラに出逢わなければ、カミルに甘えて今もずるずるとこの不毛な関係を続けていたことだろう。


 だけど気付いてしまった。

 こんなこと続けたって、何にもならない。ただ相手を利用しているで互いに傷つくだけだ。


 それに今自分には、好きなひとができてしまった。

 この揺れる恋心を認めてしまったからには前に進むしかないのだ。


「そうか。それは残念だよ、リトアーユ」


 わずかに深紅の双眸を細めてカミルは離れた。

 ゆっくりと身体を起こしてから見ると、カミルはリトを一瞥してから言った。


「つまらん。私はもう帰る」


 すぐにきびすを返して、カミルはドアを開けて出て行ってしまった。一度も振り返らなかった。


 一人になった途端に、室内はしんと静まり返る。

 重いため息をついて、リトは乱れた衣服を整えて外されたボタンを留めていく。

 気が滅入りそうになってもう一度ため息をつこうとした時、ふと違和感を覚えた。


「……妙だな」


 昨夜とは違い、カミルは自分から早々と退出していった。

 背を向ける前に見せた鋭い深紅の双眸とひき結んだ口元。そして一度たりとも振り返らなかった彼の行動が、どうにも頭の隅で引っかかった。


 ラディアスはカミルのことを何と言っていただろうか。

 記憶をたどって、昨夜の会話を反芻させる。



 ——そういえば、ラァラがあの人にいじめられると言っていたんだが、何か関係あるのか?


 ——それさ、オレのせいなんだ。あのヒトはオレのことを気に入ってて、誰にも渡したくないんだって。……で、ラァラにオレを盗られたと思ってて、その腹いせとオレの動揺見たさにひどいことするんだ。




「まさか」


 脳裏で思い描いた自分の予想に、リトは激しく動揺した。


 今のリトとカミルの関係はどう表現したらいいか分からないが、たぶん親密なものだ。そして、リトは突然翼族ザナリールの少女へ恋心を抱いてしまった。

 ラディアスは、カミルが自分に執着していると言っていた。

 もちろんカミルはリトとラァラが二人でいるところを見たことはない。だが、彼は人より突出した大きな能力を持っていて、手で触れるだけ記憶を読み取った時があったのだ。


 もし、今までの接触で、カミルが自分の記憶を覗いていたとしたら……?

 ラァラに恋をしているとバレてしまっているなら、おそらく彼は彼女に危害を加えるのではないだろうか?

 実際にラディアスもラァラも、カミルがと言っていた。


 あり得ない。世界的に大賢者と呼ばれるほどのいい大人が、か弱い翼族ザナリールの少女に手を出すだなんて。

 

 そう、常識的に考えるならあり得ないのだが。

 カミルに大人としての常識が当てはまったことなど、今までただの一度もない!


 リトは迷うのもためらうのも、もうやめた。

 失ってから後悔するのは嫌だ。


 一息で魔法語ルーンを唱える。

 無事に【瞬間移動テレポート】の魔法は発動し、一瞬でリトの姿はその場から消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る