28.賢者との決別と決意の告白

「ラァラ!」


 一瞬のうちに自宅へ戻ると、リトは館内を走り回って部屋を確かめていった。


 今日は出かける予定はないとラァラは言っていた。それなら自宅に帰れば彼女がいると思ったのだ。


 なんとなく、目立たない位置にある客間を選んで開けてみることにする。

 幾つかは開けたが、もぬけの空。

 ついに最後の部屋のドアを開けた時、リトは自分の勘が正しかったことを思い知った。


 カーテンで閉め切った薄暗い室内。床いっぱいに広がるのは、数えきれないほどの薄藍色の羽。

 二つのうち、右側のベッドの傍らには見覚えのある白い魔族ジェマが——。


「カミル様、何をやっているんだ!」


 思わず叫んでいた。

 なぜなら、薄藍色の翼の少女が手足を拘束されて、ベッドに縛り付けられていたからだ。


 紅い瞳がぴくりと動く。同時に、はたと気づいたラァラの目がわずかに動いた。


「リト、助けて」


 彼女の言葉に応えるために、リトは床を蹴った。

 ためらいなくラァラとカミルとの間に滑り込み、彼女を背中に庇う。


 迷いなんてなかった。

 しかし、カミルはリトのそんな態度が気に入らなかったらしい。

 不機嫌そうに目を細める。


「邪魔だ。どけ、リトアーユ」

「どけるわけがないだろう。不法侵入じゃないか。そもそも、女の子相手に何をしているんだ」


 カミルを前に、不安や怖いと思う気持ちはもうない。


 むしろ、はるかに力の弱い少女に対して彼が行った仕打ちに怒りを感じずにはいられなかった。

 床にラァラの羽が散らばっているということは、カミルが彼女の羽を乱暴にむしったに違いないのだ。

 翼族ザナリールの羽をむしり取るだなんて、正気の沙汰ではない!


 本気の怒りをこめてリトはカミルを睨みつける。

 それなのに何がおかしいのか、彼は艶然と微笑んだ。


「おまえが相手をしてくれるのなら、構わぬが?」


 カミルは返事を待たなかった。

 ぐい、と強い力で腕を掴まれ、そのまま空いている方のベッドに押し倒される。今度は抵抗できないように組み伏せられ、カミルがリトの上に覆いかぶさってきた。

 もちろんリトは必死でもがいたが、彼はビクともしなかった。彼の細い身体のくせに、どうしてこう腕力があるのだろうか。


「離せ」


 強く睨みつけるリトの瞳を見返して、カミルは薄い笑みを浮かべた。


「泣いて懇願したくなるほどまで可愛がってやるよ」


 紅い目が冷たく笑う。

 彼のまとう獰猛な雰囲気がいつもと違っていて、心臓が冷えた。


「何をする気だ」

「さて、どんな目に遭わせてやろうか」


 身の内に走る動揺がそのまま顔に表れるリトを見て、カミルはにやりと笑う。

 このままじゃだめだ。けれど、どうすればカミルから逃れられるのだろう。今は両手とも彼に捕らえられていて、身動きすらできないのだ。


 それでも、リトは彼から目を逸さなかった。

 向こうがどういうつもりなのかは知らないが、絶対思い通りにはさせない。

 ——そう、決意した時だった。


「リトを離して!」


 ラァラの叫び声が部屋に満ちると同時。

 カミルの後頭部に鈍い音とガラスが割れる音が走った。


 白い髪をつたってなにかがリトの顔に滴ってくる。


 もしや酒、だろうか。

 たしか客室には来客のための小さな酒瓶が置いてあったはずだ。目ざとくラァラが見つけて、酒瓶を振り上げてカミルに殴りかかったのだろう、と思う。

 いや、それにしても酒の匂いはしない。カミルが瞬時に、魔法で水にでも変えたか。


 本人は拭いもしないので、落ちていった水はリトの髪や服に吸われていく。

 冷たい。


 我に帰ったのか、不意にカミルは手を離した。

 そして、くるりと振り返る。


「つくづく苛立たしい小娘だ。待て」


 なんと大人げなくラァラを追いかけ始めた。

 しかし、さすが風の民と言われる翼族ザナリールだけあって、彼女の動きは素早かった。いくら白き賢者と言えども簡単には捕まらないようだ。

 リトが起き上がった頃には、二人は半ば追いかけっこ状態で部屋中をぐるぐる回っていた。

 小さな少女を追い回す北の白き賢者。なんてシュールな光景だろうか。


 けれども、先に行動を起こしたのかカミルの方だった。不意に彼の姿が消えたのだ。たぶん、【瞬間移動テレポート】を使用したのだろう。


 走っているラァラの目の前に、一瞬で現れるカミル。

 彼の白い手が伸びて彼女に触れる寸前、リトは再び二人の間に割って入った。

 翼の少女を背に庇い、白き賢者を睨みつける。


 さらに。

 続けて聞こえてきた金属音に、ラァラは目を丸くした。

 リトが剣を鞘から抜き放ったのだ。


 愛用の片刃剣ファルシオンの鈍く光る切っ先を、ためらいなくカミルに突きつける。


「私をどうするつもりかね?」


 白き賢者は笑っていた。リトが剣を振るったとしても、かわしてみせると言わんばかりだ。

 そう、カミルならいとも簡単にかわしてしまうだろう。

 いかにリトが剣に覚えがあるとしても、世界的に有名なこの大賢者に敵うだなんて思っていない。


 それでも、負けるわけにはいかない。

 ラァラの薄藍色の翼はボロボロだ。それなのに彼女は泣かなかった。羽を抜かれるのは泣くほどの激しい痛みを伴うはず。

 それほどのひどい行為を、カミルは平然とやってのけた。


 それなら尚更、退くわけにはいかない。


「これ以上ラァラに手を出すなら、叩き斬る」


 柄を握る手に力を込め、リトは全神経を集中させた。

 少しでもおかしな動きをすれば遠慮なく斬る。それだけの覚悟を決めていた。


 室内に、糸を張り詰めたような緊張感が満ちていた。


 最初にそれを緩めたのはカミルだった。

 盛大にため息をつき、彼は深紅の双眸でリトを見て微笑んだ。


「——ふん、面白くもない模範解答だ。本意とは言えぬが、認めてやるよ」


 この期に及んでなにがおかしいのか、カミルは笑みを絶やさなかった。

 そしてきびすを返して、そのまますぅっと消えてしまった。たぶん、魔法で帰ったのだろう。


「大丈夫? リト」


 切っ先を下げて、リトはそのまま剣を鞘におさめる。

 振り返るとラァラは心配そうに瞳を揺らしていた。


「ああ。何もされてないから平気だ」


 いやそれよりも、ラァラの方が大きな怪我を負っているだろうに。

 早く医者に診せた方がいいに決まってる。


 そんなリトの心情をラァラは知るはずもなく、見上げたままにこ、と笑った。


「よかった。心臓悪いんだから、あまり無理しちゃだめだよ」

「——え?」


 もしかして、彼女に大きな勘違いをされているんだろうか。

 別に心臓が悪いほど身体が弱いわけではない。いや、確かに発作だ倒れたけれども。

 でもあれは、おそらく心因性なものだし。


 きちんと説明した方がいいのだろうか。いや、そもそも主治医のラディアスから病気に関してちゃんとした説明を受けていない。


「あ、いや……、心配してくれたんだな。ありがとう、ラァラ」


 ひとまず礼だけ言うと、彼女は機嫌よく頷いた。


「うん。それより、よく分かったね」

「ラトから話は聞いていたからな。さっき研究所でのカミル様の言動も不審だったし」


 だからと言って、彼は即行動すぎる。

 信じられないことをやってのけるから、本当にびっくりする。


「そっか。でもあの人、どうして急に来たんだろう」


 不思議そうにラァラは首を傾げた。

 もちろんリトは理由なんて分かってる。でも今、言うべきだろうか。

 一瞬迷う。


「それは……」


 言ってしまってもいいものか。もっと時期を見定めるべきでは。

 だが、変に隠しても仕方ない。

 立ち止まっていても前には進めない。


「ラァラ」


 名前を呼ぶと、まっすぐな眼差しで見つめられた。どくん、と心臓が波打つ。

 固唾を飲み込み、リトは覚悟を決めて口を開いた。


「それは、俺がラァラを好きになったからだと思う」


 短い沈黙が降りた。


「リト、わたしを好きなの?」

「うん」

「妹みたいに、とか?」


 顔色をうかがうように見上げてくる彼女に、リトは首を横に降ってはっきりと言葉にする。


「いや、違う。ひとりの女性として、ラァラのことが好きなんだ」


 彼女の藍色の目が大きく見開く。


 どう返事がくるかは予想できなかった。

 ラァラは退行前のリトを見ているはずだ。彼女の中で、リトは年上すぎて眼中にない場合だってある。


 けれど、ラァラは驚きはしたものの戸惑ったり困った様子を見せたりはしなかった。

 いつものようににこ、と花が咲いたような笑顔を見せてくれた。


「ありがと」


 リトは静かに、続きを待った。

 藍色の目をわずかに揺らして、ラァラは口を開く。


「今すぐ返事はできないけど、わたしもリトは嫌いじゃない。わたしが自分の気持ち確かめるまで、待っててくれる?」


 少し背の低い彼女に目線を合わせるように、リトは少し屈んだ。

 目を合わせて、闇色の瞳を細めて口元を緩める。


「うん。俺はいつまでだって待つよ」


 待つのは、もうリトにとっては苦痛じゃない。

 今までずっと、一緒にいてくれる人を待ち続けていたんだ。心からの想いを告げた今、さらに待つのは平気だ。


「さてと」


 気持ちを切り替えて、リトは姿勢を正した。

 見上げてくる翼の少女に笑顔を向けて、こう言った。


「俺もカミル様に散々振り回されて疲れたし。ひとまず、レモネードでも作って休もうか」

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