第41話 僕たちの未来

 颯太は病院の休憩室に置いてあるソファーの上で仰向けになっていた。颯太は日勤と夜勤の連続で三日まともに寝れていない。しかも昨日の夜は患者が立て続けに急変した上に、バイクを運転していた若い男性が単独事故を起こして病院に運ばれてきた。どちらとも颯太が対応して事なきを得たが、彼は疲れきっていた。

「加藤先生、お疲れ様。また夜勤? 」

 朝番の先輩医師が休憩室に入ってきた。颯太は慌ててソファから起き上がった。

「はい。交通事故の患者が運ばれたり、患者が急変したりでてんやわんやでした」

 颯太は困ったように笑った。

「あら、昨日は当たっちゃったんだね。そういう日もあるよ」

 先輩医師は同情が混じった笑みを颯太に向けた。

「でも皆さん大したことなくてよかったです」

「本当にお疲れ様。今日は上がっていいよ。ていうか今日は友達の結婚式に行くんじゃなかった? 」

「そうなんです」

 颯太は高校の時に仲良かった友人が結婚式を挙げるということで、二年ぶりに東京に行くことになった。彼はその友人と高校を卒業してから全く会えていなかったので、彼に直接会って結婚を祝福したかった。颯太はこれから家へ帰ってシャワーを浴び、スーツに着替えてから新幹線で東京に向かう予定だ。

「お土産楽しみにしてるね」

「はい。お疲れさまでした」

 颯太は立ち上がると休憩室を出た。彼は疲れ切った体を引きずりながらロッカー室へ向かっていると、一人の女性を見掛けた。その女性は水島薫だった。彼女は颯太とほぼ同じタイミングでこの病院で働き始めた看護師で、まだ経験は浅いものの冷静な判断力があり、多くの医師が薫を頼りにしていた。颯太は薫の顔を見ると、今まで萎れていた気持ちに気力が戻ってくるのを感じた。

「おはようございます」

 楓は颯太に頭を下げた。

「おはよう。これから仕事? 」

「はい。加藤先生は帰りですか? 」

「うん。これから帰ってシャワー浴びて、東京に行くよ」

「そっか。今日は東京に行く日ですね」

「うん。お土産買ってくるね」

「楽しみにしてます」

 颯太は周りに誰もいないことを確認した。

「今度いつ会える? 」

 楓も同じように周りを確認した。

「来週の水曜日の夜なら大丈夫です」

「僕もその日は空いてるからもしよかったらご飯はどう? 美味しい和食のお店見つけたんだ」

 颯太の言葉に楓は嬉しそうに顔を輝かせた。

「行きたいです! 」

 楓の嬉しそうな顔を見て颯太も顔をほころばせた。

「それじゃあ水曜日にね」

 颯太と楓は正反対の方向へ歩き出した。二人は一年前から交際し始めた。薫は穏やかな性格で、いつも笑顔を絶やさない女性だった。環境が大きく変わった颯太にとっては彼女と一緒にいるだけで癒され、颯太が薫に惹かれていくのに時間は掛からなかった。二人が働いている病院は職場恋愛が禁止ではない。ただそこまで大きな病院ではないので、二人が付き合っていることが分かったら噂に尾ひれがついて広まってしまうかもしれない。二人はそれを心配して周囲には隠して付き合っている。お互いに仕事が多忙なこともあり、遠出は出来ていないが店で食事をしたりお互いの家に行き来することで、穏やかにそして着実に愛を育んでいる。


 颯太はまさみと別れてすぐに長野にある病院で働き始め、今年で二年経った。地方病院は医師がなかなか集まらず、医師不足が進むばかりで多忙を極める。そのうえ、この病院は「24時間365日」患者を受け入れており、早朝も深夜も盆も正月も関係なく患者がやってくる。場合によっては三日間働いてほとんど寝れないということもある。颯太は地方病院はかなり忙しいと聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。しかし長野の病院を辞めて父親の病院に戻るつもりはなかった。颯太はこの病院で働いている間に、この長野という土地に愛着が湧いてしまった。颯太がこの病院で働き始めた時、先輩医師たちが颯太の歓迎会をしてくれたのだが、その帰りに見た星空が彼は忘れられなかった。東京では見ることのできない満点の星空に心を奪われた。この星空を見てから彼は天体望遠鏡を買って、天体観測をするのが趣味になった。颯太は忙しい仕事の合間を縫って望遠鏡で星を見るのが何よりの癒しになった。


 颯太は自宅でシャワーを浴びて身だしなみを整えると、長野駅に向かい新幹線に飛び乗った。彼は新幹線の座席にもたれると東京に着くまでの間眠りについた。

 颯太は東京に到着すると宿泊予定のホテルに荷物を預けて、友人の結婚式に参加した。新郎新婦は多くの親族や友人たちに祝福されてとても幸せそうだった。その姿を見ただけで颯太も幸せな気持ちになれた。結婚式には高校の時の友人たちが多く参加していて、友人たちに久しぶりに会えたことも颯太は嬉しかった。結婚式の次の日、颯太は新幹線に乗ってそのまま長野に帰ってもよかったが、その前に寄りたい場所があった。


 颯太はある家のチャイムを鳴らした。しばらくの間待っていると、一人の女性が家から出てきた。それは颯太の母親の真理子だった。颯太はこれからのことを話したいとあらかじめ真理子に連絡していた。

「久しぶり」

 颯太は笑顔を見せたが、ぎこちない笑顔になっているのが自分でも分かった。

「元気だった? 少し痩せたんじゃない? 」

 真理子は久しぶりに颯太に会えて嬉しいはずなのに、彼女も颯太と同じようにぎこちなかった。

「そうかも。忙しくて」

 颯太は家の中に入った。二年ぶりの我が家は何も変わっていなかったが、リビングで父親の敦がテーブルについていることだけが唯一違っていることだった。颯太の記憶の中では敦は休みの日は教授たちとゴルフに出掛けていることが多く、一緒に遊んでもらった記憶がない。しかし今日家にいるということは、颯太は自分の話を真剣に聞いてくれるということだと思った。

「久しぶりだな」

 颯太は敦の向かい合う形で座った。

「久しぶり」

「どうだ長野の病院は? 人手が足らなくて大変だろ」

「うん。でもやりがいはあるよ」

 颯太の言葉に敦は鼻で笑った。

「やりがい? どうせ珍しい症例もほとんどないだろ。あったとしても大学病院に紹介状を送るのが関の山だ。キャリアなんて積めないぞ」

「確かにそうだけど……」

 敦の言うとおりだ。颯太の働いている病院では珍しい症例はほとんど見かけることはない。あったとしても颯太は施設が充実している大学病院へ紹介状を出すことしかできない。

「そんな所で働いても将来性はないぞ。長野の病院なんて今すぐに辞めて戻ってこい」

「僕は戻らないよ」

 颯太の強い言葉に敦は目を白黒させた。

「本気でそう言ってるのか? 」

 敦は信じられないといった様子だった。

「田舎の病院で働いてなんになる。そこにいたってキャリアを棒に振るだけだぞ。お前の人生はそれでいいのか? うちの病院を継げ。それが家族とお前のためだ」

「嫌だ」

「颯太! 」

 敦は勢いよく立ち上がった。

「待ってください。颯太の話も聞きましょう」

 真理子は二人の間に入った。颯太は真理子が夫である敦に意見をする所を見たことがなかったので、内心驚いていた。敦も同じ気持ちだったようで驚いた顔をしていた。しかし敦はすぐに不満そうな表情に変わり、椅子に座り直した。

「ありがとう」

 颯太は真理子に言った後、敦と再び顔を合わせた。

「人手は足らないし休みもほとんどない。日勤夜勤の連続で三日間寝れないことは珍しくないよ。でも僕はあの病院が好きなんだ。お父さんの病院で働いていた時は患者さんから感謝されることはなかった。でも長野の病院だと患者さんたちが自分を慕ってくれているんだよ。僕なんて全然若いのに。患者さんたちは僕に頑張ってねとか期待しているよって声を掛けてくれた。僕はそんな患者さんたちの寄り添える医者になりたい。僕はそんな医者になりたいんだ! 」

 敦は颯太の顔をじっと見ていた。

「僕はお父さんがどんな気持ちであの病院を継いで、続けてきたのかを知ってる。お父さんのことを本当に尊敬している。でも今の僕は病院を継ぐつもりはない。本当にごめんなさい」

 颯太は敦に頭を下げた。敦は暫くの間黙ったままだった。颯太は敦から絶縁されるかもしれないと思った。しかし例え絶縁されたとしても、譲るつもりはなかった。

「分かったよ。好きにしろ」

「いいの? 」

 颯太は敦の言葉が信じられなかった。彼は頭を上げて敦の顔を見たが、敦が冗談で言っているようには見えなかった。

「あぁ。お前より優秀な人間はいる。そいつに病院を継がせればいい。お前は自分の好きなことをしろ」

 敦は言い終えると立ち上がり、リビングから出ようとした。

「お父さん。僕の話を聞いてくれてありがとう。」

 颯太は立ち上がって敦の背中に頭を下げた。


「颯太」

 颯太が玄関で靴を履いていると、真理子から声を掛けられた。

「颯太がこの家を出てからお父さん変わったの。仕事が終わったらなるべく早く帰ってきたり、家で話をしたりするようになった。もっと早くやってほしいわよね」

 真理子はそんなことを言いながらもどこか嬉しそうだ。

「そうだね」

 真理子は突如神妙な顔つきになった。

「まさみさんのことは本当にごめんなさい。本当にまさみさんにも颯太にもひどいことをしてしまった」

 真理子は颯太に頭を下げた。真理子のその言葉に颯太の心にあったわだかまりが溶けていくのを感じた。

「もういいよ。そうだ今度お父さんと一緒に長野に遊びにおいでよ。美味しい蕎麦屋さんがあるんだ。案内するよ」

「分かったわ」

 二人は微笑んだ。そして颯太は家を出た。


 颯太が東京駅に向かおうとキャリーケースを転がしていると、男女が言い合っている声が聞こえた。彼は女性の声に聞き覚えがあり、その声の持ち主を探した。それはまさみだった。颯太はまさみが晴人と言い合っているのが見えた。

「何するんだよはこっちのセリフ! なんで駅から出ちゃうの」

「だって東京駅なんてほとんど来ねぇし」

「だとしても迷いすぎでしょ」

「だって分かりづらいんだよ」

「地図を見たり上の案内板を見たりすれば来れるでしょ」

「それができたら苦労しねえよ」

「なんでそんなに自信満々なの」

 二人は突然笑い出した。

「帰ろうか」

 晴人はそう言うと手を差し出した。

「うん」

 まさみは晴人が差し出した手を握ると二人は歩き出した。

「これ持つよ」

 晴人は空いている手でまさみが持っていたキャリーケースを手に持った。

「ありがとう」

 まさみは晴人に屈託のない笑顔を向けているのが颯太には見えた。その顔を見た時、颯太はあの決断は間違っていなかったと強く思った。きっと自分と結婚していたら、まさみは好きだった仕事を辞めて、縁もゆかりもない土地で孤独に過ごしていただろう。あの笑顔を見ることはもうなかった。颯太は二人に気づかれないようにそっとその場から離れて、駅へ向かった。颯太は時間を確認しようとスマートフォンを取り出すと、楓からメッセージが来ていた。気をつけて帰ってきてくださいねという内容だった。そのメッセージに自然と笑みが零れ、早く楓に会いたいと思った。颯太は彼女にもう帰るよと返信して、スマートフォンをコートのポケットにしまった。


 どうか幸せに。僕も幸せになるから


 颯太は見えなくなったまさみに心の中でそう呟いた。

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