第39話 私たち、離婚します④

 まさみは玄関で靴を履き替えていると、彼女の背中から晴人が現れた。晴人はどこか心配そうな顔をしている。

「それじゃあ行ってくるね」

「なぁ。やっぱり俺も着いていこうか? 」

「大丈夫だよ。それに言ったでしょ。これは私と彼の問題だから」

「分かった。気をつけてな」

 晴人はまさみの言葉を聞いてもまだ浮かない表情をしていた。まさみは笑顔で晴人に手を振ると家を出た。彼女はこれから颯太に会って、別れてほしいと伝えてくる。彼女は颯太がどんな反応をするだろうかと考えると不安になった。しかし彼女にはもう迷いはなかった。

 まさみは颯太と待ち合わせをしたカフェに着くと、既に彼は待っていた。彼女は深呼吸をしてから颯太に声を掛けた。

「ごめん。待った? 」

「僕もちょうど来たところだよ」

 颯太はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていた。

「今日は忙しいのに来てくれてありがとう」

 まさみは颯太の向かいの席に座った。

「ううん。大事な話ってなに?」

 まさみは鞄から婚約指輪が入った箱を取り出してそれをテーブルの上に置いた。

「これは? 」

「ごめんなさい。私は颯太とは結婚できません。本当にごめんなさい」

 まさみはそう言うと颯太に頭を下げた。

「どうして? 」

 颯太は困惑した様子だった。

「颯太がもう一度プロポーズしてくれてから色々考えた。私、今の仕事が好き。自分の実力を試したいの。だから颯太とは一緒に行けない」

「僕よりも仕事を取るんだね」

 その言葉にまさみは罪悪感で押しつぶされそうになった。しかし彼女は冷静に振舞おうとした。

「そうだね」

「僕は仕事だけじゃなくて家族も捨てたのに、まさみは何も思わないの」

 颯太はまさみのことを詰るような口ぶりだった。しかしまさみは落ち着いた態度を崩さなかった。

「それは申し訳ないと思ってるよ。でもそれとこれは別だと思う」

 まさみの変わらない態度に颯太は先ほどとは打って変わって、彼女に擦り寄るような態度をとった。

「分かった。例えば別居婚はどうかな? 僕は長野でまさみは大阪で、月に一回くらい一緒に過ごすのは?‌ そうすればまさみは大好きな仕事を続けられるし、僕も長野で働けるよ」

 まさみは暫く黙ったままだったが、意を決して口を開いた。

「ごめんなさい。好きな人がいるの」

 二人の間に沈黙が流れた。

「もしかしてあの人? 」

「うん」

 まさみは颯太の顔が見れなかった。颯太がひどく怒りだすのではないかと思った。しかしそうなっても仕方ないと思っていた。颯太を酷く振り回したのだ。それくらいの報いは受けないといけないとまさみは思った。

「そっか……。分かったよ」

「えっ?」

 颯太の落ち着いた様子にまさみは思わず顔を上げた。颯太の顔は寂しそうではあったが、どこか晴れやかな顔をしていた。

「まさみが僕じゃなくてあの人に惹かれてるのが分かってた。だからまさみのために仕事を辞めて家族も捨てたなんて言ってまさみを引き留めようとした。まさみにひどいことを言った。本当にごめん」

 颯太はそう言うと頭を下げた。

「ううん。それを言うなら私もだよ。私、颯太と別れるときひどいことを言った。ずっと謝りたかったの。颯太が医者で院長の息子だから付き合ったなんてことを言って本当にごめんなさい」

 まさみも同じように頭を下げた。

「私、知ってた。颯太が何を言われたら一番傷つくか。知ってたのに別れたいから颯太にそんなことを言った。私って本当に最低だよ」

 颯太は優しく微笑んだ。

「僕が前に話したことを覚えてくれてたんだね」

 まさみは頷いた。


 颯太は物心がつく頃から、医者になっていずれは父親の跡を継ぐことを周囲の大人たちに期待されていた。颯太もその期待に応えるかのように勉強に励み、進学先も多くの医者を輩出している高校や大学を選んだ。颯太にとって自分が医者になることは当然だと思っていた。しかし大学に入ってから、その思いは疑問に変わっていった。

 颯太は大学に入学すると同級生たちによく合コンへ誘われるようになった。同級生たちは研修医になると忙しすぎて彼女が作れないから、彼女作るなら今のうちだと言って毎晩合コンへ繰り出していた。颯太も同級生たちに誘われるがまま、よく合コンへ顔を出していた。

「みんな可愛いねー! こんな可愛い子たちと飲めるなんて本当に嬉しいよ」

 颯太の同級生たちは女性たちに対してニヤニヤとした表情を浮かべていた。

「私たちもです! 皆さん頭いいしカッコイイから」

 女性たちも妙に甘ったるい声を出して、男性たちに気に入られようとしていた。男性たちは若くて可愛い彼女が欲しい。女性たちは医者の卵と付き合いたい。打算的な思いが見え透いたこの集まりに颯太はうんざりしていた。

「おい。お前も挨拶しろよ」

 颯太は同級生にそう言われてようやく口を開いた。

「初めまして。加藤颯太です」

 その場の雰囲気に馴染めなかった颯太は思わず不愛想な挨拶をしてしまった。

「お前テンション低いって。こいつね、父親が病院の院長なんだよ。すごいっしょ! 」

「すごーい! つまり将来は院長になるんですか? 」

「一応、そのつもりです」

「カッコイイ! 」

 女性たちは颯太が院長の息子で将来は病院を継ぐことを知ると色めき立った。そしてわざとらしくアプローチを仕掛けてきた。その様子に颯太は苦々しく思った。彼は合コンに誘われる度にこのようなやりとりが何度も繰り返されたので、合コンに誘われる度に断るようになった。しかし颯太がいないと女性たちの食いつきが悪いという理由で、無理やり連れて行かれた。颯太は嫌々ながらも何度も合コンに顔を出している内にある女性と出会った。彼女は颯太が父親の跡を継いで院長になると聞いても、変わらない態度で接してくれていたので、彼はそこに惹かれて彼女と付き合うようになった。

 颯太はその日は彼女の誕生日だったので、彼女が欲しがっていたブランドのネックレスを買って、彼女からもらった合鍵で内緒で家に入った。彼はサプライズで彼女を喜ばせようとする計画だった。すると部屋から彼女が誰かと電話しているのが聞こえた。

「なんかイメージと違ったわ。もっと高級なお店とかに連れていってくれると思ってたのに全然そんなことないんだよ。元カレの方がお金使ってくれたのに……。どんな人かって? 背が高くてイケメンだけどマジでつまんない。つまんない上にお金使ってくれないとか最悪じゃない? 」

 会話の内容は颯太に対しての悪口だった。颯太はようやく本当の自分自身を見てくれる存在に出会ったと思っていたが間違っていた。彼女もほかの女性たちと同じで颯太が院長の息子だから近づいてきたのだ。颯太は彼女が電話を終えたのを見計らい、プレゼントだけ渡して別れを告げた。それから彼は誰に合コンを誘われても全く参加しなかった。颯太は大学にいる間は恋人を一人も作ることなく卒業した。研修医になると彼女を作れないと忠告されていたが、その言葉の通りだった。忙しすぎてあっという間に一日が終わっているなんてことがざらで、休みの日であっても呼び出されれば必ず病院に駆けつけなければならなかった。

 ようやく仕事を終えて病院を出て、帰路を急いでいると香ばしい臭いが鼻腔をくすぐった。颯太がその臭いの正体を探していると、それは一軒の焼き鳥屋だった。その焼き鳥屋は赤提灯が店の軒先にぶら下がり、もくもくと煙が上がっていた。普段の颯太だったら入らないような店であったが、ちょうど小腹がすいて疲れ切った体はその店に吸い込まれるかのように入っていった。颯太が案内された席はカウンター席で、隣には長身な女性が既に席についていた。颯太がメニューを見ていると、彼女の前にビールが置かれた。彼女はビールジョッキを掴むと、勢いよくビールを飲んでいく。颯太は彼女がすごい勢いでビールを飲んでいくので、思わずその姿に釘付けになってしまっていた。すると颯太は彼女と目が合った。彼女はビールジョッキをカウンターに置いた。

「すいません。すごく美味しそうに飲まれてるなと思って」

「いえいえ。今日暑かったじゃないですか。だからビールが美味しくて」

 そう言うと彼女は恥ずかしそうに笑った。

「このお店にはよく来られるんですか? 」

「はい。仕事終わりに来るんですよ」

 それがまさみとの最初の出会いだった。まさみは明るくて気取らない性格で、颯太は彼女と少し話をしただけで彼女に好感を持った。

「すいません。明日も仕事なので……」

 二時間ほど二人で話していると、まさみはそう言って席を立った。颯太はまさみと別れることに名残惜しさを感じた。

「そうなんですね。このお店のこと色々教えてくれてありがとうございました」

「いえいえ。それじゃあ」

 まさみが歩き出した瞬間、颯太は無意識に彼女に声を掛けていた。

「あの! この店に来たらまた会えますか? 」

「はい」

 まさみは笑顔で頷いた。

「僕、また来ます。だからまた会えたら一緒に飲んでくれますか? 」

「もちろん」

 まさみはそう言うと店員にごちそうさまでしたと言って店を出た。

 それから颯太は仕事が早めに終わると、この店に顔を出すようになった。そしてまさみを見つけると彼は彼女の隣の席に座って、会話をするようになり、少しずつ距離を縮めていった。まさみは颯太が医者で院長の息子だと聞いても、まさみはあっけらかんとした様子で全く気にしていない態度だった。颯太が合コンで出会った女性たちは颯太が院長の息子だと聞くと分かりやすく態度を変えた。また彼女たちは付き合う前からブランド品をねだるような態度を取ったり、高級な店に行きたがったりしていたが、まさみはそんな素振りが一切なかった。むしろ彼女はそういうことを嫌がった。颯太はまさみは自分の肩書きやレッテルなどを気にせず、自分自身を見てくれていると感じた。彼はそんな風に接してくれる人間が初めてでそれが居心地がよかった。それは今までに感じたことのない感情だった。颯太はそんなまさみに惹かれていった。


「まさみだけだったんだ。僕のことを医者でも院長の息子だからという理由でも近づかなったのは」

「颯太は私が仕事のことやお義父さんのことを聞いても態度を変えなかったことが嬉しかったって何度も言ってくれたね。私は颯太の穏やかで優しい所が好きになったの。颯太の家族とか仕事とか全然関係なくて颯太のことが好きだった」

「ありがとう。ありのままの僕のことを好きになってくれて」

 まさみは颯太と付き合っていた頃のことが自然と思い出されて、彼女の目には涙が浮かんだ。

「本当にごめんなさい」

 まさみは深く頭を下げた。

「謝らないで。まさみをそこまで追い詰めたのは僕と母さんだよ。気づけなくてごめんね」

「私が颯太にちゃんと相談すればよかったの。でも怖かった。相談しても私の話を信じてもらえなかったらどうしようって。それで勝手に自分で抱え込んで、抱えきれなくなったら颯太のことをすごく傷つけて」

 まさみの目からは堪えきれなかった涙がこぼれた。彼女は手で何度も涙を拭ったが、涙は止まらなかった。

「もういいよ。あの言葉がまさみの本当の気持ちじゃないって聞けただけで満足したよ。僕と付き合ってくれてありがとう」

「こちらこそありがとう」

「幸せになってね」

 まさみも颯太に幸せになってねと言いかけて止めた。その言葉は自分が言っていい言葉ではないと思ったからだ。

「ありがとう……。それじゃあさようなら」

 まさみは席を立った。颯太はまさみが店から出ていくのを見届けた。そして彼はまさみが置いていった婚約指輪が入った箱に優しく触れた。







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