第38話 私たち、離婚します③

「すごい楽しかったですね! 」

「そうでしょ! 」

 まさみと加代は劇場を出ると、近くのカフェで先程まで観劇していたミュージカルの感想を興奮しながら熱く語り合った。

「ミュージカルを初めて観ました。なんていうか魂が揺さぶられるってこういうことなんですね」

 まさみは目を閉じると、今にでも歌い踊るキャストたちの姿が浮かぶようだった。

「まさみさんも分かる? 本当にそうなのよ。一回友達に誘われて観てからハマっちゃって。でもね夫も息子も全く興味がなくて、チケットが一枚余った時は本当にどうしようって思ったの。まさみさんが喜んでくれてよかったわ」

「これはハマりますよ」

 まさみは力強く頷いた。

「よかった」

 加代は安心したように微笑んだ。

「えっ? 」

「最初まさみさんの顔を見た時、なんか元気ないなって思ったの。なにかあった? 」

「それは……」

 まさみは口ごもった。

「もしかして晴人と何かあった? 」

「えっ? 」

「図星ね。晴人と喧嘩でもした? 」

「まぁ……。そんな感じです」

 まさみはそう言うとコーヒーに口を付けた。

「結婚してもう一年経つから喧嘩の一つや二つはあるわよね。でもよかった。二人がなんだかんだ上手くやってるみたいで……。本当はね、二人が結婚するの少し不安だったの」

「そうなんですか? 」

「ええ。実は顔合わせの時に、私とお父さんはまさみさんのお義父さんとお義母さんが話している所を聞いちゃったのよ。まさみさんには本当は結婚するはずだった人がいたけど、色々あって破談になったって」

 加代の言葉にまさみの顔は青ざめた。

「黙っていて本当にすいませんでした! 」

 まさみは勢いよく頭を下げた。しかし加代はケロっとした表情をしていて、全く意に介していないようだった。

「いいのよ。どうせあの子のことだからまさみさんが破談になってショックを受けている時に、押して押して強引に結婚を決めたんでしょ」

「いや……」

「だから不安だったの。あの子がまさみさんの気持ちを考えないで、傷つけているんじゃないかって」

「そんなことないです。晴人さんは私の気持ちをいつも考えてくれています」

「そう。それならよかった」

 加代はまさみの言葉に微笑んだ。

「それに大人なんだからそういうことはあるでしょ。言いたくなかったらごめんなさいね。どうしてまさみさんはその人と結婚しなかったの? 」

 まさみは両親にも颯太との破談の理由を言えずにいたが、不思議なことに加代の前では素直に話すことができた。

「結婚の挨拶の時から彼のお母さんに好かれてないなとは思ってたんです。でも彼にも両親にも言えませんでした。彼が聞いたら傷つくと思ったし、両親は私の結婚を本当に喜んでいたから。だからお義母さんに意地悪を言われても我慢しました。でも私の病気が分かってお義母さんに伝えた時、息子のことを本当に思っているのなら彼とは別れてほしいと言われました。その時に心が折れちゃったんです」

「心が折れた? 」

「はい。彼に相談する方法もあったと思います。でもそれを言われた時、どうでもよくなっちゃったんです。私の方から彼に別れを切り出した時、彼は別れたくないと言ってくれました。でも私は彼にひどいことを言って無理やり別れたんです」

 加代は目を伏せた。

「そうだったの……。辛かったわね」

 まさみは首を横に振った。

「私、最低なんです。彼が一番傷つく言葉を知っていました。なのに彼をすごく傷つけて別れたんです」

「それなら私も似たようなものよ」

「えっ? 」

「私、バツイチなの」

 まさみは初めて聞いた事実に驚いた。

「そうなんですか? 」

「えぇ。前の夫とは私が働いていた会社で出会って、二年くらい付き合ってから結婚したの。夫はすごく優しい人だったけど、義理のお母さんがすごく厳しい人だった。彼の家族と同居してたから、毎日気を使わないといけなくて大変だったし、姑にはいろいろ意地悪されたわ。私ね、子供の時に母を病気で亡くしたの。それで私が何か間違える度に片親だからって嫌味を言われた。その度に夫は庇ってくれた。でも母が形見にくれた真珠のネックレスを捨てられた時にはもう駄目だと思った。この人と離婚しようって。夫は家を出て二人で一緒に暮らそうと言ってくれたけど、私もまさみさんと一緒で心が折れちゃったのよ。結婚を続ける内はあの姑がついて回るわけでしょ。そう考えると無理だった。多分もう限界だったのよね」

「分かります。その気持ち」

 まさみは真理子に颯太と別れて欲しいと言われた時のことを思い出して、心が苦しくなった。

「まさみさんは自分のことを最低って言ったけど、それを言うなら私も一緒よ。もしかしたらもっと酷いかもしれない。だってその人と別れなかったら、まさみさんは晴人と結婚してない訳でしょ。そしたら私たちもこうやって話せてなかったんだから」

 まさみは加代の言葉に目を見開いた。彼女はなぜ加代がこんなにも懐が深くいられるのか不思議だった。その優しさにまさみは泣きそうになった。

「どうしてそんなに優しいんですか? ︎︎」

 加代はその言葉にふふっと笑った。

「私は優しくなんかないわよ。まさみさんがいい人だからよ」

「私、いい人なんかじゃないです」

「いいえ。だってまさみさんと一緒にいる時の晴人は本当に幸せそうなのよ。晴人を幸せにしてくれる人は絶対にいい人だと思う」

 加代はふいに改まった表情を見せた。

「まさみさん」

「はい」

 まさみは姿勢を正した。

「ふつつかな息子ですが、これからもよろしくお願いします」

 加代はそう言うと深々と頭を下げた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 まさみも同じように頭を下げた。加代はこんなにも自分たちのことを大事に思ってくれているのに、それに応えられないことにまさみは歯がゆさを感じた。


 まさみは加代と別れて家に帰ると、晴人がリビングで映画を見ていた。それは外国の映画のようだ。

「珍しいね。映画見るなんて」

「見るもん特になかったから」

 映画はちょうどラストを迎えようとしていた。映画の中で男性は女性にプロポーズをしている。男性はどうやら海外に行かなければならず、恋人の女性に一緒について来てほしいと言っている。女性はあなたと一緒にいられるなら全てを捨てても構わないと彼を強く抱きしめた。まさみは全てを捨てたとしても、好きな人についていくのが本当の幸せなのではないかとふと思った。それならばまさみも全てを捨てて颯太に着いていくべきなのか。しかし彼女にはそう思えなかった。

「ねぇ。晴人。もし晴人がこの男の人の立場ならどうする? 」

 彼はテレビの画面を見たまま黙っていた。

「ごめん。今の話忘れて」

「俺なら……」

「えっ? 」

「俺ならついて来てほしいとは言わない。だって彼女は色んなものを置いていかなきゃいけないだろ? 仕事を辞めないといけなくなるだろうし。家族や友達とも離れ離れになるかもしれない。俺なら俺は向こうで頑張るから、お前もこっちに残って頑張れって言う」

 まさみは思い出した。晴人はいつだってまさみが辛そうにしていると、彼女にだけ負担を背負わせなかった。二人で負担を分け合ってきたのだ。そして彼女が心を閉ざしそうになった時は、晴人から歩み寄ってくれた。今度は私が歩み寄る番だとまさみは思った。

「晴人、私たちもう一回話し合おう」

「もう話すことなんてないだろ」

 晴人は顔を背けてまさみと顔を合わせないようにした。

「あるよ。私はどうして晴人が離婚したいのか理由が知りたい」

「理由なんてないよ」

「私、まだ離婚届出してない」

「えっ? 」

 晴人は信じられないといった様子だった。

「ちゃんと理由を教えてくれないなら、私このまま離婚届出さないよ」

「何でだよ……。俺と結婚続けても幸せになれねぇのに、何で離婚届出さないんだよ」

「どういうこと? 」

「俺は大した稼ぎもないし、まさみのことを傷つけてばっかりだし、あの人の方がまさみを幸せにしてくれるだろ」

「私の幸せを勝手に決めないでよ! 」

 まさみの言葉に晴人は肩を震わせた。

「私の幸せは三つある。一つは今の仕事を続けること。二つ目は美味しいご飯を食べたり、美味しいお酒を飲んだりすること。三つ目は私の隣には晴人がいることだよ」

 晴人はまさみに背中を向けたまま黙っていた。

「私、晴人のことが好き」

 晴人はまさみの告白を聞いて、ようやく振り返って彼女の顔を見た。まさみはとうとう言ってしまったと思った。しかし後悔はなかった。むしろ清々しさがあった。彼女は晴人が何を言うのか待っていた。

「どうして俺なんだよ……。俺は最低なヤツなんだ」

「知ってる。私のことを影で『デカ女』って馬鹿にしてたのも知ってる」

「本当にごめん! 」

 晴人はまさみに向かって頭を下げた。

「私のことをそういう風に思ってたの? 」

「違う」

 晴人は勢いよく首を横に振った。

「ならどうして? 」

「それは西条たちにお前らヤッたのかって言われて、違うって言い返してもしつこく言ってくるから……」

「だからあんなこと言ったんだ? 」

「ごめん。謝らないととは思ってた。でもタイミングを失ったら言えなくて……。本当にごめん」

 晴人はそう言うと再び頭を下げた。

「俺、最低だよな……」

 まさみは晴人の姿がいつもより小さく見えた。まさみは晴人がこんなにも弱気な所を見たことがなかった。彼女はその姿を見て、彼女の心にずっと重く冷たくのしかかっていた物が溶けていくのを感じた。まさみは晴人の隣に座ると彼と目を合わせようとした。

「うん。最低だと思う。でもそれと同じくらいに晴人のいい所も知ってる。私はいい所も悪い所もひっくるめて晴人のことが好きなの」

 晴人はその言葉を聞いてようやくまさみと目を合わせた。

「俺も……好きだ。まさみのことが好きだ」

 その言葉を聞いてまさみはゆっくり微笑んだ。

「私も好き」

 まさみが言い終わると否や晴人は強く彼女のことを抱きしめた。まさみも同じように彼の背中に腕を回した。二人はそうやって長い間、お互いを抱きしめ合っていた。

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