第37話 私たち、離婚します②
まさみは晴人と離婚することを決めた次の日の夜、彼女は自分の部屋にあるベッドに腰掛けていた。彼女の手にはスマートフォンがあり、緊張をほどくように何度も深呼吸をするとある人に電話を掛けた。
「もしもし。私だけど今大丈夫かな? 」
「うん。大丈夫だよ。今お風呂から出たところ。でも急に電話してくるなんてどうしたの? 」
電話の相手は颯太だった。
「あのね、この前の話なんだけど……」
「もしかして結婚のこと? 」
「うん。前向きに考えたいなって思って」
颯太はしばらく黙ったままだったので、まさみは不思議に思っていた。
「颯太? 」
「やったー!!! 」
まさみは突然の大きな声にスマートフォンを慌てて耳から話した。
「ちょっと声が大きいよ! 鼓膜が破れるかと思った」
「ごめんごめん。本当に嬉しくて。絶対にまさみを幸せにするから」
電話越しからでも颯太が喜んでいるのがまさみには分かった。彼女は颯太の喜んでいる声を聞きながら、これでいいのだと思った。
「ありがとう」
「これからのことを考えないとね」
「そうだね」
「明後日なら仕事が早く終わると思うから、会ってこれからのことを話そう」
「うん。分かった」
まさみは電話を切るとリビングへ向かった。リビングには一枚の紙を持った晴人が立っていた。
「これ」
晴人はその紙をまさみに渡した。
「なにこれ? 」
「俺のところは書いておいた。まさみの好きなタイミングで出していいから」
晴人はそう言うと自分の部屋に戻って行った。まさみがその紙を見ると、それは離婚届だった。既に晴人の箇所は書かれているので、あとはまさみが記入するだけになっていた。離婚を決めてから二人の会話はほとんどなくなった。まさみは晴人とちゃんとした会話をしないまま別れてしまうのかと、彼の部屋に繋がる扉を見ながらそう思った。
まさみが結婚について前向きに考えたいと颯太に話してから、二人は会えなかった時間を取り戻すかのように電話をしたり直接会ったりした。まさみは颯太と結婚するのだから早く離婚届を出さなければいけないことは分かっていた。しかし晴人に離婚届を渡されてからいつまで経っても出せずにいた。まさみは颯太と話している間、心がどこかに行ってしまっているかのようだった。その日も颯太は色々と二人の未来のことを話しているが、まさみは頭の中がふわふわしていた。
「籍はいつ入れる? 」
まさみは颯太に聞かれてふと我に返った。
「あぁ。どうしようかな……。そういえば女の人は離婚したらしばらく結婚できなかったんじゃなかった?」
「それ聞いたことある」
颯太はそう言うとスマートフォンを取り出して検索し始めた。
「前は離婚してから半年だったのが、今は百日後に変わったみたいだよ」
「そうなんだね」
「それじゃあまさみが離婚して百日経ってから、僕たちの婚姻届を出そう」
「でも……。そんなに早く再婚したらみんなどう思うかな」
まさみはためらいの表情を見せた。
「まさみが不安になるのは分かるよ。でも他人なんて気にしなくていいと思う」
「でももう少し時間を掛けない? せめて離婚してから一年くらい経ってからのほうがいいんじゃないかな? 」
「僕はまさみと一年以上離れたんだよ。これ以上時間はかけたくない」
まさみは颯太のその言葉に何も言えなくなってしまった。
「まさみは仕事はどうするの? 」
「続けようと思っているよ」
「そっか」
颯太が何か言いたげな顔をしていたが、まさみはただの気のせいだと思った。
「高橋さん。ちょっといいかな」
まさみは仕事中に上司の中田から声を掛けられた。中田は他の人間がいる前で話したくないらしく、まさみを誰もいない会議室に呼び出した。
「あの……。何でしょうか?」
まさみは自分が何かトラブルを起こしたのではないかと思い、表情が硬くなった。
「そんな緊張しないで。悪い知らせではないから。むしろ高橋さんにとっていい知らせだから」
「どういうことですか? 」
「高橋さん。突然なんだけど大阪支店に行ってみない? 」
中田の突然の提案にまさみは目を丸くさせた。
「えっ? 大阪支店ですか? 」
「うん。うちの会社は優秀な成績を修めると大阪、名古屋、札幌、福岡の支店に転勤して、さらにそこで実績を残すと本社で働けるかもしれないのは知ってるよね? 」
「はい」
「高橋さんにはぜひ大阪支店へ行って経験を積んできてほしい」
まさみは中田の言葉が信じられなかった。
「本当ですか? 」
「本当だよ。おめでとう! 」
「ありがとうございます! すごく嬉しいです」
「高橋さんが本社で働きたいのは知ってたから、僕も本当に嬉しいよ」
本社で働けるようになれば給料が増えるだけではなく、任せられる仕事もかなり増える。まさみにとって本社で働くことはかねてからの希望だった。
「ただ最低でも二年間は大阪に行ったきりになる。高橋さんは大きな手術をしたばかりだから、そこは大丈夫かな? 」
「主治医の先生に聞いてみないと分からないですけど、たぶん大丈夫だと思います。今度、定期健診があるのでその時に聞いてみます」
まさみの言葉に中田の顔がほころんだ。
「そっか。それならよかった。会社は高橋さんのことをしっかりサポートするから、何かあったら相談して欲しい。後は旦那さんだね。新婚さんだから二年も一緒にいれないのは寂しいんじゃないの? 」
「どうですかね? 」
まさみは曖昧な笑みを浮かべた。颯太がどんな反応をするかまさみには分からなかった。しかし颯太なら必ず賛成してくれるとまさみは思っていた。
中田から転勤の話をされてから一週間ほど経った頃、まさみは仕事終わりに颯太とカフェで待ち合わせをしていた。まさみは突然舞い込んだ嬉しいニュースに顔をほころばせていた。颯太はまさみの幸せそうな顔に気づいた。
「なんだか嬉しそうだね」
「分かる? 実はね、大阪に転勤するんだ」
「大阪? 」
「うん。大阪支店で実績を出せば本社に行ける可能性が高くなるの。私、行きたいと思ってる」
「それって期間はどのくらい? 」
「二年」
「二年も? 」
まさみの嬉しそうな表情とは対照的に颯太は硬い表情をしていた。
「僕は反対だ」
まさみは颯太が賛成してくれると思っていたので大変驚いた。
「どうして? 」
「大きな手術をしたばっかりなんだよ」
「大丈夫だよ。松岡先生に確認をとってOKをもらったから」
まさみは颯太に話す前に定期健診へ行き、担当医の松岡に転勤について相談していた。松岡からは検査の値も落ち着いており、定期健診を必ず受けるのであれば転勤しても大丈夫だと言われていた。
「もし何かあったらどうするの? 僕は長野にいるからすぐには駆けつけられないんだよ。ご両親だってすぐには駆けつけられないだろうし」
「手術してから一年経ったけど元気だから大丈夫だよ」
「僕はまさみのことを心配してるんだよ! 」
颯太は声を荒らげた。まさみはその声に驚いて体を竦ませた。彼女は颯太に分かってもらえるように、自分の思いを言葉にした。
「心配してくれてありがとう。でも本社で働くことが私の夢なの。病気を言い訳にしてたらいつまで経っても何も出来ない。私は大阪に行きたい。大阪で実績を出していつかは本社で働きたい」
しかし颯太は相変わらず硬い表情のままだ。
「まさみは本社に行って何をしたいの? お金を稼ぎたいの? 」
颯太は責めるような口調だった。
「確かにそれもあるよ。でもそれよりも自分の努力を認められたい」
「僕は長野に着いてきてほしいと思ってる」
まさみにとって想像していなかったことだった。
「それは仕事を辞めろってこと? 」
「まさみの会社なら長野にも支店があるんじゃない? そこに異動願いを出せばいいと思う」
「確かに長野支店はあるよ。でもそんなことしたら本社で働く可能性が低くなる。颯太は私のキャリアを捨てさせたいの? 」
まさみは悲痛な思いで訴えかけた。
「僕はキャリアだけじゃない。家族も捨てたんだよ」
まさみは颯太の言葉に何も言えなくなった。颯太は追い打ちをかけた。
「僕はまさみと一年以上離れることになった。もうこれ以上離れたくないんだよ」
「分かった……」
まさみは頷くことしか出来なかった。その言葉に颯太は安心したように微笑んでいた。
まさみは颯太と別れると沈んだ様子で家へ帰った。彼女は家にいる晴人を気にかける様子もなく、そのまま自分の部屋に入った。まさみは晴人や颯太のことを誰かに話したかった。彼女はスマートフォンを手に取ると、誰かに電話を掛けた。
「もしもし」
「お姉ちゃん? 」
その相手は環奈だった。
「急にごめんね」
環奈はまさみが普段と違う様子に気づいた。
「ううん。どうしたの? 何かあった? 」
「ちょっと相談したいことがあって。実はね……」
まさみは環奈に晴人から離婚したいと言われたこと、そのタイミングで颯太から結婚してほしいと言われたこと、そして結婚するなら長野までついてきてほしいと言われたことを話した。
「お姉ちゃんは仕事を続けたいの? 」
「続けたいよ。でも颯太に『僕はキャリアだけじゃない。家族も捨てたんだよ』って言われたら何にも言えなくて……」
「颯太さんズルくない? 確かにお姉ちゃんがきっかけで颯太さんは家と縁を切って、病院も辞めることになったかもしれないよ。でも決めたのは颯太さんでしょ? 全部お姉ちゃんのせいにするのはおかしくない? 」
環奈らしい忌憚のない意見だ。
「そうかな? 颯太は私のせいにしてるわけじゃないと思うけど」
「してるよ。そんな言い方されたら何にも言えなくなるよ」
「でも私のせいなのは本当だから」
しかし環奈にそう言われても颯太に対する罪悪感が拭えなかった。
「お姉ちゃんは責任を取るために颯太さんと結婚するの? 違うでしょ。颯太さんとこれからも一緒に生きていたいから結婚するんじゃないの? 」
「そうだけど……」
まさみのはっきりしない態度に環奈はヒートアップしてきた。
「お姉ちゃんはどうしたいの? 」
「それは……」
「本当はどうしたいかわかってるんじゃないの? 本当は晴人さんと一緒にいたいんじゃないの? 」
環奈の言葉にまさみは何も言い返せなかった。なぜなら環奈の言う通りだったからだ。前にまさみは環奈に晴人のことが好きかどうか分からないと言った。しかし本当はずっと前から晴人への思いに気づいていた。だが、まさみはその思いにずっと蓋をして気づかないようにしていた。
「自分の気持ちはちゃんと伝えたの? 伝えないと駄目だよ」
環奈は畳みかけるように言葉を続けた。
「分かってるよ。分かってるけどまた晴人に拒絶されたくない……」
「どういうこと? 」
まさみは暫く口を閉ざしていたが、意を決して口を開いた。
「私、大学生の時に好きな人にあんなデカ女を抱けるわけないって言われたって話したことあるでしょ。あれね、晴人なの。それを聞いた時すごくショックだった。そう思われてるんだと思ったら、好きだなんて言えなかった。だから『友達』っていうポジションを選んだの。もし晴人に本当の気持ちを言って、お前みたいなデカ女と結婚を続けられる訳ないだろって言われたら? そんなこと言われたらもう無理。私、立ち直れない……」
環奈は少しの間、黙っていたがふっと笑った。
「お姉ちゃんは本当に恋愛だけは駄目だね」
「そうかもしれないね……」
環奈の言葉にまさみも少し表情が和らいだ。
「お姉ちゃんは私が知っている人の中で、一番かっこいいんだからもっと自信を持ってよ」
「ありがとう」
「それにきっと晴人さんは何か事情があって、そういうことを言ったのかもしれないよ」
「事情って? 」
「それは分からないけど……。でも晴人さんはそうことを言う人じゃないと思う。お姉ちゃん、ちゃんと晴人さんとも颯太さんとも話した方がいいよ」
「うん。分かった……。ありがとう」
まさみは電話を切ると、晴人が誰かと話しているのが聞こえた。彼女は部屋を出て声のする方へ行くと、晴人が電話で誰かと話していた。
「急にそんなこと言われたって無理だって」
まさみは晴人に近づいてそっと声を掛けた。
「どうしたの?」
「母さんが……」
晴人は渋い顔でスマートフォンをまさみに寄こした。電話の相手は彼の母親である加代からのようだ。
「もしもし。お久しぶりです。まさみです」
「まさみさん! 久しぶり。ごめんね。急に電話しちゃって」
「いえいえ。どうかされたんですか? 」
「今度そっちで舞台を観るんだけど、一緒に来るはずだった友達が来れなくなっちゃってチケットが一枚余っちゃうの。もしよかったら一緒に観に行かない? 」
「嫌だったら断っていいから」
晴人は小声でまさみの耳に呟いた。
「行きます。ぜひ行かせてください」
「本当? 空席を作りたくなかったからよかったわ」
それからまさみは加代と待ち合わせの場所と時間を決めてから電話を切った。
「無理しなくていいから」
「無理なんかしてないよ」
「それならいいけど」
晴人はそう言うと自分の部屋に入った。まさみはこれが加代と会う最後になるかもしれないと思った。だからこそ彼女は温かく見守ってくれていた加代にちゃんとした最後の挨拶をしたかった。
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