第36話 私たち、離婚します①
まさみは環奈との話し合いを終えると、カフェを飛び出して家へ急いだ。彼女は家の前まで来ると勢いよく玄関の扉を開けた。
「ただいま! 」
「おかえり」
晴人は先ほどまで颯太と話していたとは思えないくらい普段と変わらない態度で、まさみを出迎えた。
「颯太は? 」
まさみは息を切らせながら晴人に尋ねた。
「さっき来た」
「嘘! 本当にごめん。環奈が颯太に全部話しちゃったみたいで……」
「ううん。大丈夫」
「本当? それなら良かった」
まさみは晴人が落ち着いている様子なのでほっとしていた。彼女は走って帰ってきたのでクタクタだった。彼女はダイニングテーブルの椅子に座って呼吸を整えている。晴人はまさみと向かい合うように座った。
「まさみ」
「なに? 」
「俺たち離婚しよう」
「えっ? 」
まさみは突然のことに驚いて頭が真っ白になった。
「冗談だよね? 」
「本気だよ」
晴人の顔には茶化すような雰囲気が全く見られなかった。
「どうして? もしかして環奈のこと心配してる? 安心して。環奈は誰にも言わないって。晴人が環奈を説得してくれたお陰だよ」
「環奈は関係ないよ」
晴人は首を横に振った。
「それじゃあどうして? 」
「俺たち結婚して一年以上経つだろ。もうこんなこと続けなくていいんじゃないか? 」
「何それ? 意味わかんないよ」
「そもそも契約結婚なんて意味がわかんないだろ? こんなこと続ける意味なんてある? 」
晴人は淡々とした口調で話を続ける。
「晴人が先に言い出したんでしょ? 何で離婚したいって言うの? 」
「別に大した理由なんてない。とりあえず俺と別れて」
晴人はそう言うと席から立ち上がり、自分の部屋に入ってしまった。まさみは混乱して椅子から立ち上がれなかった。
晴人が離婚を申し出た時から、二人の間で会話が極端に減っていった。まさみが何か声を掛けようとすると、晴人は席を外してしまう。最初はだんまりを決め込む晴人にまさみは怒りを抱いたが、途中から不安を感じ始めた。晴人が離婚を切り出す理由が彼女には全く分からなかった。彼女は晴人から肝臓を移植してもらう代わりに三百万円を彼に渡すという約束をしているが、まだ彼に全額払えていない。もし離婚するなら金を全額もらってから離婚したほうがいいはずだ。それなら晴人が離婚を言い出したのは、もしかして好きな人が出来たからではないかとまさみは思った。しかし晴人に好きな人が出来たような素振りは全くなかった。まさみは晴人の考えていることが全く分からなかった。
まさみは仕事で外回りをしていると彼女のスマートフォンが鳴った。彼女は電話の相手を確認した時、息が止まりそうになった。それは颯太からだった。晴人と結婚してもう掛けることはないと分かっていても、ずっと消せずにいた番号だった。彼女は彼の電話に出ることに躊躇したが、意を決して電話に出た。
「まさみ? 久しぶり」
晴人とは違う不愛想ではない話し方に懐かしさを覚えた。
「久しぶり。元気だった? 」
まさみは颯太との久しぶりの電話にかなり緊張していた。
「僕は元気だよ。まさみは? 」
「私も元気だよ。どうしたの急に? 」
「まさみに会って話したいことがあるんだ。悪いけど時間を作ってほしい」
まさみは晴人のことを思うと、すぐには答えが出せなかった。
「お願い。直接会って話したいんだ」
「分かった……」
颯太の真剣な声にまさみはようやく頷いた。
まさみは仕事終わりに颯太と約束したカフェへ向かっていた。
「ここって……」
そのカフェはまさみが颯太に結婚できないと言って彼と別れた場所だった。まさみはカフェを見た時、颯太に別れを告げた場面が一瞬にして蘇った。まさみは颯太と別れたくなかった。しかし颯太の母である真理子に言われた言葉が、ずっとまさみの頭の中を占めていた。彼女は颯太と結婚したら彼を不幸にさせる。だからまさみは颯太と絶対に別れなければいけないと思った。
「だからってあんな言い方なかったよね……」
まさみはそう呟くとカフェのドアノブを回した。彼女が店の中に入って辺りを見渡すと、既に颯太が席についていた。彼女は彼の向かいの席に座った。お互いに緊張した面持ちで向かい合っていた。二人は少しの間、黙ったままだったが颯太が口火を切った。
「久しぶりだね」
「うん」
「本当にごめん」
颯太は言い終わるや否や頭を深く下げた。
「どうしたの? お願いだから頭を上げて」
颯太はゆっくり頭を上げた。
「全部聞いたよ。僕との結婚を止めたのはお母さんが原因だって」
「誰に聞いたの? 」
「戸山さん」
「そっか……。聞いちゃったか」
「本当にごめん! 」
颯太はもう一度深く頭を下げた。
「謝らないで。颯太は悪くないよ」
颯太は頭を上げると真剣な顔でまさみの顔を見上げた。
「僕はあの家を出るよ」
「それって? 」
「あの家と縁を切る。病院は継がない」
まさみは颯太の発言に驚いて言葉を一瞬失った。
「えっ? どうして? 」
颯太は怒りをこらえるように両手の拳を強く握った。
「お母さんはおばあちゃんにいじめられていたんだ」
「そうなの? 」
まさみはあんな気の強そうな真理子がいじめられているイメージが浮かばず、彼女は驚いた。
「あの家にお父さんとお母さんとおばあちゃんと僕で一緒に暮らしてた。僕にとってはすごくやさしいおばあちゃんだったんだけど、お母さんには意地悪だった。僕、小さい頃は体が弱かったんだ。そうしたらおばあちゃんはお母さんにどうしてこんなに体が弱い子に産んだんだとか、颯太に悪いと思わないのかって責めていた」
「そうなんだ……」
「僕が幼稚園生の時に将来の夢を絵に描いたんだ。僕はパン屋で働く大人になった自分を絵に描いた。その絵を見たおばあちゃんは今までに見たことないくらい怖い顔をした。そしておばあちゃんはお母さんに怒鳴り出した。颯太は病院の跡取りなのに、将来はパン屋になりたいってどういうことって。僕はお母さんがおばあちゃんに怒られている所を見たくなかった。だから幼稚園で描いた絵をゴミ箱に捨てて、自分が医者になった絵を描いたよ」
子供の颯太はどんな気持ちでせっかく描いた絵をゴミ箱に捨てて、自分が医者になった絵を描いたのか。まさみは母親と祖母の顔色を窺う子供の颯太を想像すると胸が苦しくなった。
「そんな……。お義父さんは知らなかったの? 」
「知ってたよ。知ってたけど仕事が忙しいとか言い訳をして、お母さんに寄り添おうとしなかった」
颯太は顔を歪めた。まさみは颯太の家庭はとても幸せだと思っていた。しかし実際はそうではなかった。颯太の家は微妙なバランスでギリギリのところを保っていたが、真理子のまさみへの仕打ちが明らかになったことで一気に崩れてしまった。
「お母さんはおばあちゃんにそういうことをされてたから、まさみにそんなことをするとは思わなかった。だから僕は気づかなかったんだ……。本当にごめん」
「そんなことない。むしろ私のせいだよね。颯太の家をめちゃくちゃにしちゃった。本当にごめんなさい……」
颯太は優しい表情でまさみを見つめた。
「そんなことない。僕はずっとあの家から出たいと思ってたんだ。まさみのお陰で勇気を出すことが出来た。本当にありがとう」
颯太はまさみにそう言ったが、彼女の気持ちは晴れなかった。
「仕事は? どうするの? 」
「大学時代の先輩が長野の大学病院で働いてるんだけど、医者が足らなくて困ってるって言うからそこで働こうと思う」
「そうなんだ……」
「まさみ」
颯太は改まった表情でまさみの顔を見据えた。
「僕にもう一度チャンスをくれないかな? 二度とまさみを傷つけたり苦しめたりしない。まさみのことを幸せにする。だから僕と結婚してください」
颯太はそう言うと小さな紺色の箱を開いた。その中にはダイヤモンドがあしらわれた婚約指輪が入っていた。
「これって……」
「そう。まさみに初めてプロポーズした時の指輪。まさみに返されたときから、捨てられなくてずっと持ってた。未練がましいよね」
「そんなことない」
まさみは首を横に振った。
「僕はずっとまさみのことが忘れられなかった」
まさみは颯太からのプロポーズに本当なら嬉しいはずなのに、なぜか戸惑いを感じた。
「ごめん。いきなりだからびっくりしちゃって」
「そうだよね。急だからびっくりしちゃうよね。返事はすぐじゃなくていいから」
颯太はそう言うと指輪の入った箱を置いて帰った。まさみをその箱を鞄に入れて家へ帰った。
「ただいま」
まさみは靴を脱ぐと家に上がり、リビングへ向かった。
「おかえり」
晴人はテレビを見ていたが、立ち上がってまさみを出迎えた。
「颯太さんと会ってきたの? 」
「えっ? 」
まさみは颯太と会っていたことを当てられ、驚いて固まってしまった。
「図星か。プロポーズでもされた? 」
「いや……」
「良かったじゃん。おめでとう。これで結婚を続ける意味はなくなったな」
晴人の棘のある言い方に思わず、まさみはムッとした表情になった。
「なにそれ? なんでそんなに私と離婚したがるの? 」
「別に理由はないけど。むしろ今までがおかしかったんだろ? 好きでもない二人がお互いのメリットのために結婚するっておかしいだろ」
「そうかもしれないけど。でも急すぎるよ。それにお金は? 私、まだ晴人にお金を全部渡してないよ」
「あぁそれ。いらない。貰ったお金は返すから俺と別れてよ」
晴人はそう言うと自分の部屋に入った。数分後、彼は部屋から通帳と印鑑を持って出てきた。それは彼女が晴人に渡す金を貯めていた銀行口座の通帳だった。彼はまさみに突き返した。
「何で最初と話が全然違うじゃん」
「一緒に過ごしていたら色々変わるだろ」
「もしかして好きな人でもできたの? 」
「そうだよ」
晴人は髪を撫でながらめんどくさそうに答えた。まさみはそれを見た時に確信した。
「違う」
「何が? 」
「好きな人が出来たから離婚したいというのは嘘だ。私、晴人が嘘ついているかどうかぐらい分かるよ。晴人は気づいてないだろうけど、晴人は嘘をつく時、髪の毛を撫でるんだよ。遊園地に行ったときだってそうだよ。本当は色々調べてくれたんでしょ? なんでそんなに私と離婚したいの? そんな嘘をついてまで私と離婚したいの? 」
晴人はまさみに目を合わせないまま何も言わなかった。まさみはいつかこの関係を終わらせる時が来るかもしれないとは思っていた。もし晴人が別れたいと切り出したら彼はちゃんと理由を教えてくれる。そしてまさみはどんな理由だったとしても受け止めようと思っていた。しかしそうではなかった。晴人が本当の気持ちを教えてくれないことがまさみにとって一番悲しかった。
「まさみ? 」
晴人は驚きの表情を浮かべた。まさみの目から涙が流れていた。まさみは泣いている顔を隠すように、晴人に顔をそむけた。
「もういい。離婚しよ」
まさみはそう言うと歩き出した。晴人はまさみを追いかけるように腕を伸ばしたが、彼女はそのまま自分の部屋に入ってしまった。彼は伸ばした腕をゆっくり下ろした。
「これでいい。これでいいんだ」
晴人はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。
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