第35話 全て、ここから②

 ゼミ生たちとの飲み会から暫く経っても、晴人はまさみに対する思いが何なのか答えが出ないままだった。彼はただいつも通りにまさみと接して、普段通りに日々を過ごしていた。

 その日もゼミ生たちが集まって飲み会をすることになった。晴人はその日は夜遅くまでバイトだったので参加しなかった。彼はバイトが終わって家に帰り、一息ついているとスマートフォンが鳴った。晴人がスマートフォンを見ると、それは小春からの電話だった。晴人はこんな夜遅くに彼女からの電話に一瞬不思議に思ったが、電話に出た。

「もしもし」

「もしもし。戸山先輩ですか? 」

「そうだけどなに? 」

「実は高橋先輩が飲みすぎちゃって家まで送ろうと思ったんですけど、家がどこだか分からなくて……」

 小春は電話でもわかるくらい不安そうな声をしていた。晴人はデニムのジャケットを羽織った。

「分かった。店はいつもの場所だよな? 」

「はい。そうです」

「今行くからそこで待ってて」

 晴人は電話を切ると、すぐに家を出た。


 晴人がゼミ生たちが集まるいつもの居酒屋に入ると、テーブルに突っ伏しているまさみとおろおろとしている小春がいた。

「おい。高橋起きろ。そろそろ店も閉まるから」

 晴人はまさみの肩を掴んで軽く揺さぶったが、全く起きる気配がない。

「珍しいな。こいつがここまで飲むなんて」

 まさみはどんなことがあっても、酔いつぶれるまで酒を飲むことは今までなかったので、晴人は不思議に思った。

「すいません! 私のせいなんです」

 小春は頭を下げた。

「どういうこと? 」

「私が西条さんたちにお酒を飲まされそうになった時に、高橋先輩が三谷さんに飲ますなら私を潰してからにしてって言って、私の代わりにお酒を全部飲んでくれたんです」

「だからか……」

 晴人はまさみならしそうなことだと思った。彼はまさみを労わるように優しく頭を撫でた。

「本当にすいません」

 小春はまた頭を下げた。

「三谷は悪くないよ。それより西条たちは? 」

「帰っちゃいました」

 小春は気まずそうな表情を浮かべた。

「はぁ? どうして?」

 小春は言いづらそうな表情を浮かべた。

「ここまで酔っぱらったのは高橋先輩の自己責任だし、高橋先輩なら道端にほったらかしにしても襲われないだろって」

「はぁ? 」

 晴人は西条たちが調子に乗って、飲みきれないくらい酒を注文したり、めんどくさい絡み方をしてきても流してきた。しかしこれだけはどうしても許せなかった。まさみがこんなになっているのに、彼女をそのまま放ったらかしにする西条たちの神経が分からなかった。晴人は西条たちに怒りを覚えて、自分の眉間に自然としわが寄った。その顔を見た小春がおびえているのに晴人は気づいて、彼はいつもの表情に戻した。

「高橋は俺が送っていくから」

 晴人はまさみを背負うと、小春はまさみの荷物を手早くまとめると、晴人の空いている手に渡した。

「大丈夫ですか? 私も何か手伝います」

「大丈夫だから。もう夜も遅いし三谷も気をつけて帰れよ」

 晴人はそう言うとまさみをおんぶして店を出た。

 身長の高いまさみを背負って歩くのは、晴人にとってかなり重労働だったが、彼は休むことなく彼女の家に向かって歩き続けた。晴人がしばらく歩いていると、まさみがもぞもぞと動いた。

「起きたか? 」

「あれ? 私、居酒屋にいたはずじゃ……」

「居酒屋で酔い潰れたんだよ。大丈夫か? 気持ち悪くないか? 」

「頭がグラグラして気持ち悪い……。あれ? 」

 まさみは晴人におんぶされていることに気づくと驚いて大声を出した。晴人はその声に驚いてまさみを落としそうになった。

「危ねぇな。じっとしてろ」

「ちょっと何してるの? 下ろして! 」

 まさみはそう言うと晴人の背中から無理やり降りようとした。

「嫌だよ」

「重いでしょ? 私歩けるから平気だよ」

「あんなに飲んだんだから歩けないだろ。家まで送っていく」

「大丈夫だから下ろして! 」

「いいから! 重くないし平気だからおんぶされとけ」

 その言葉にまさみはようやくおとなしくなった。

「分かった……。でもどうして晴人が? 」

「三谷から電話があったんだよ。お前が酔いつぶれちゃったから助けて欲しいって。それでバイト終わりにいつもの居酒屋に行ったってわけ」

「なるほど……。バイト終わりなのにごめん」

 まさみは申し訳なさそうな声をしていた。

「別に……」

「三谷さんは大丈夫そうだった? 」

「あぁ。少し酔ってたけど大丈夫だったよ」

「よかった」

 まさみが小春だけ心配していることに晴人は少し苛立った。

「他人の心配してる場合か? 飲みすぎて救急車に運ばれてたかもしれないし、道端に放ったらかしにされてたら変なヤツに襲われてたかもしれないんだぞ」

「大丈夫。私、お酒は強いから。今回は飲みすぎちゃっただけだし、次からは気をつけるよ。それに私を襲おうとするそんな物好きいないよ」

 まさみがヘラヘラと笑いながら言っているのを聞いて、晴人は怒りを感じた。

「もうちょっと自分を大事にしろよ! 」

 晴人の大きな声にまさみは驚いた。

「心配してくれたのにごめん……」

「俺の方こそ急にデカい声出してごめん」

 晴人が本当に怒りたかったのはまさみでも西条たちでもなく、自分に対してだった。晴人はまさみのことを守りたいと思っていたのに、彼は彼女を守ることができなかった。そしてその苛立ちをまさみにぶつけてしまった。そのことを晴人はとても後悔した。それから二人はお互いに黙ったままだった。晴人はこの空気を変えるにはどうすればいいか頭を働かした。晴人は頭の中でふと思いついたことを口に出した。

「高橋はすごいよ」

「何急に? 」

 晴人の突拍子もない言葉にまさみが笑ったのが彼には分かった。

「高橋って空気を読むの得意だろ。だから空気が悪くなったら自分の身長をネタにしてみんなを笑わせようとする。それにさっきだって三谷のことを守りながら、飲み会の空気を壊さないためにあんなに酒を飲んだんだろ? マジですごいと思う。でも時々無理してる気がする」

「そんなことないよ……」

「でももう自虐ネタとか止めろよ。そんなことずっと続けてたら心が擦り切れるぞ。高橋がそこまでする必要なんてない」

「うん」

「大丈夫だよ。空気が悪くなったところで誰も死なない。もし空気がわるくなってアイツらが高橋のせいだって言っても、俺は高橋の味方だから。高橋はもっと自分を大事にしろよ」

「うん」

 晴人は背中が濡れていることに気づいた。

「おい。涎つけるなよ」

「つけてないし」

「本当かよ」

 晴人がそう言うと二人はふふっと笑った。

 晴人は自分が口下手でお世辞を全く言えない人間だということが分かっている。しかしまさみの良い所なら、お世辞や嘘ではなくいくらだって言える。それはまさみのことをずっと見てきたからだ。そしてこれからも彼女のことを見ていきたい。


 そうか、俺まさみのことが好きなんだ。


 晴人はそのことに気づいた時、まさみとはただの「友達」ではいたくないと彼女の体温を背中に感じながら思った。


 晴人はいつもゼミをする教室に入ると、既に西条たちが集まっていた。晴人が教室に入ると彼らはニヤニヤと表情を変えた。

「お前さぁ高橋のこと送ってやったんだろ? 」

「そうだけど」

「高橋とヤッた? 」

 晴人は眉を顰めた。

「はぁ? してないけど」

「嘘だ。家まで送って行ったんだからヤッたでしょ? 」

「それかホテルに連れ込んだとか? 」

「晴人って最低だな! 」

 西条たちは下卑た笑い声を上げた。その笑い声は晴人の癇に障った。

「ヤッてねぇしホテルにも連れ込んでねぇよ! 」

 晴人は語気を強めたが、彼らは話を止めない。

「嘘だ。男と女がやることって一つしかないじゃん」

「すぐにヤッたとかヤッてないとか言うの止めろよ」

「何怒ってるんだよ。それともビビって最後まで出来なかったとか? 」

 晴人はただ苛立たせるだけのこのやり取りを早く終わらせたかった。彼は西条たちがこれ以上言ってこないようにするには、どうしたらいいか考えた。晴人はふと頭の中で思いついた言葉を口にした。

「だからしてねぇって! あんなデカ女を抱けるわけねぇだろ! 」

 その言葉に西条たちは大声をあげて笑いだした。

「そうだよな! 抱けるわけないよな。この話は終了! 」

 西条たちは違う会話を始めた。その後、彼らはまさみとのことを聞いては来なかった。晴人はほっとしていたが、その日のゼミにまさみがいつまでたっても来ないことが気がかりだった。晴人が不思議に思っていると小春が声をかけてきた。

「今日は高橋先輩はお休みですよ」

「そうなんだ。あいつから連絡があったの? 」

「いいえ。さっき私が教室に入る時に高橋先輩がいたんです。でも教室に入らないからどうしたのかなって思ってたら、体調が悪くなったから帰るって」

 晴人はそれを聞いた時、体中から血の気が引いた気分がした。まさみに一番聞かれたくない事を聞かれてしまった。晴人はゼミが終わるとすぐに教室を飛び出して、まさみのことを大学中探し回ったが、彼女は見つからなかった。まさみが大学にいないことに気づいた晴人はまさみに何度も電話をしたが、全く繋がらなかった。晴人はまさみにメッセージを送ろうとして、文章を作って送信ボタンを押そうとしたときにふと指が止まった。晴人は急に怖くなった。もし自分が謝ればまさみに酷いことを言った事実を認めることになる。まさみには何があっても彼女の味方だって言ったのに、裏ではあんな酷いことを言うような人間だと、彼女に思われたくなかった。晴人はそんな自分勝手な思いを振り払い、意を決してもう一度送信ボタンを押そうとした。だが晴人は恐怖に勝てなかった。もしかしたらまさみは晴人と西条たちの会話を聞いていなかったかもしれない。彼女が教室に入ろうとした時に、本当に具合が悪くなったのかもしれない。彼は自分にとって都合のいい言い訳を幾通りも考えて、彼女に送るはずだった文面を消した。

 次のゼミでまさみと顔を合わすと彼女はいつもと変わらない様子だった。いつも通り自分の身長を使って人を笑わせたり、変な空気になりそうになったら自分を犠牲にしてでも空気を変えようとしていた。晴人はまさみが西条たちの会話を聞いていたことを悟った。晴人はまさみになんて酷いことをしてしまったのかと思った。何度もまさみに謝ろうと思った。しかし一度謝る機会を逃してしまった晴人は、いつどう彼女に謝ったらいいのか分からなかった。

 晴人はまさみを守りたいと思っていた。しかし実際はまさみをただ傷つけただけだった。晴人はこんな自分はまさみの恋人に似つかわしくないと思った。それならせめてまさみの「友達」でいようと思った。まさみの「友達」として、彼女になにかあれば全力で支えようと思った。それが自分にできる罪滅ぼしだ。晴人はまさみへの思いを閉じ込めた。





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