第32話 私たち、妊活します?③


 まさみは環奈に事情を説明するために彼女を家へ招いた。

「お父さんたちには言わないでくれたんだね。ありがとう」

 まさみは環奈の前にコーヒーを出した。

「言えるわけないでしょ。お姉ちゃんが契約結婚だなんて。そんなこと言ってお父さんが倒れたらどうするの? 」

 環奈の声は鋭く尖っていてまさみは何とも言えない息苦しさを感じた。

「ごめん」

「どうして私が病院に行かなかったか分かる? お姉ちゃんたちの顔を見たらブチ切れそうだったから。本当は私だってお父さんのことを迎えに行きたかったんだよ」

「本当にごめん」

 環奈は腕を組んで背もたれに寄り掛かった。

「で? そもそも二人は契約結婚することになったの? 」

 晴人が口を開いた。

「まさみの病気を治すには移植しかないって知って、俺も適合できるか検査したんだ。そしたら移植できるって分かって。でも生きている人間から移植するには親族じゃないとできないって話だったから、それで結婚することにした」

「なるほどね……。それで晴人さんにとってどういうメリットがあったの? 」

「メリットって? 」

「だってメリットがなければ結婚して移植までしようとは思わないでしょ? 」

「それは……。まさみがお金を払うって言ってくれて」

 晴人の言葉に環奈は勢いよく立ち上がった。

「はぁ? 肝臓をやるから金をくれだなんて本当に最低! 」

「本当にごめん……」

 晴人は環奈に向かって深く頭を下げたが、環奈はまだ怒りが収まらない。

「晴人さん。お姉ちゃんの命を助けてくれたのは感謝してます。でも私はあなたのことを許せません」

 環奈はテーブルに一枚の紙を差し出した。それは離婚届だった。

「お姉ちゃんと離婚してください」

「ちょっと何言ってるの? 」

「当たり前でしょ。助かりたかったらお金を寄こせって言う男だよ! 」

「別に晴人がお金が欲しいって言ったわけじゃないよ。私が晴人にお礼がしたいから渡しただけで」

「お金じゃないなら何ですか? お姉ちゃんの体が目的ですか? 」

「晴人はそんな人間じゃないよ! 」

「大体お姉ちゃんは男を見る目がないんだよ。私、前に言ったよね? 彼氏が出来たら私に会わせろって」

「止めてよ」

「中学校の卒業式の後に、好きな人に告白したら自分より背が大きい女は好きになれないって言われたっけ。あとは高校生の時はお姉ちゃん彼氏が出来たって言うから会わせてもらったけど、結局私に一目ぼれして振られちゃったもんね」

「それとこれは関係ないじゃん」

「関係あるよ。そんなんだからこんな人と結婚しちゃうんでしょ。大学生の時は好きな人にあんなデカ女抱けないって言われたんだよね」

 その言葉にまさみは顔色が変わり、彼女は机を叩いて立ち上がった。

「いい加減にしてよ! 環奈と一緒にいるときの私がどんな気持ちだったか分かる?  本当に惨めだった。好きな人が出来ても環奈を好きになったり、環奈に近づくために私と付き合ったりするような人ばっか! そんな私を見てて環奈は心の中で馬鹿にしてたんでしょ!! 」

 まさみの勢いに環奈は驚いて一瞬たじろいだ。

「はぁ? そんな訳ないじゃん! 私はお姉ちゃんのことを心配して言ってるんだよ」

「私がどんな気持ちで契約結婚しようと思ったのか知らないくせに、そんなこと言わないでよ! あんたなんか妹じゃなきゃよかった! 」

 その言葉に環奈は唇を噛んで、目には涙を浮かべた。

「そんなに言わなくたっていいじゃん! お姉ちゃんの馬鹿!! 」

 環奈は鞄を持って家を飛び出した。


 環奈が家を飛び出した後、まさみはソファーに座り込んで一言も喋らなかった。そんなまさみに晴人はアイスとスプーンを渡した。

「これやるよ」

「これ晴人のでしょ。いいよ」

 アイスの蓋には丸の中に晴人と書いてあった。

「いいよ。このアイス好きだろ」

「うん。ありがとう……」

 まさみはアイスの蓋を剥がした。

「さっきはごめんね」

「別に」

 晴人はまさみの隣に座った。

「環奈の言ってることは本当。好きな人が出来たり付き合ったりしても、みんな環奈のことが好きになっちゃうの。そもそも私と付き合ったのは環奈と近づきたかったとかね。だけど環奈が思わせぶりな態度をとったとかそういうことじゃないの」

「うん。分かってるよ。環奈はそういうのしない」

「環奈を一目見ただけでみんな好きになっちゃうの。環奈は悪くない。悪いのはそういう人を好きになる私だから。でも環奈に昔の話をされたとき、なんか気持ちが爆発しちゃってあんな酷いこと言っちゃった……。私、本当に最低だ」

 まさみはそう言うと俯いてしまった。晴人はまさみの頭を黙って撫でていた。


 環奈はまさみたちと話してから怒りの感情が心の中で渦巻いていた。彼女は晴人よりも姉のまさみに対しての怒りが強かった。環奈はまさみのことを思ってしたことなのにまさみは晴人を庇おうとした上に、彼女に向かって妹じゃなきゃよかったとまで言ったのだ。環奈は確かに過去のことを引っ張り出したのはやり過ぎたかもしれないが、だとしてもそこまで言われる筋合いは無いはずだと思った。家では事情を知らない剛志と妙子が能天気に晴人のことを褒めちぎるので、環奈はその光景を見たくなくて家を出て歩き回っていた。環奈は子供たちのはしゃぐ声が聞こえたので辺りを見渡すと公園があった。彼女は荒れた気分を落ち着かせるために公園で遊んでいる子供たちを眺めていると環奈の足元にボールが当たった。一人の男性が小走りで近づいた来た。

「ごめんなさい! ボールを取ってもらっていいですか? 」

 子供が投げたボールが環奈の足元まで転がってしまったようだ。環奈はボールを拾ってその男性に投げようとした。

「はーい。あれ信ちゃん? 」

 近づいてきた男性は信五だった。


「信ちゃんって結婚してたんだね。それに子供まで。かわいいね」

「ありがとう。奥さんがほのかで息子が廉っていうんだ」

 環奈と信五は公園のベンチに座っている。二人はほのかと廉がボール遊びをしているのを見ながら話している。

「廉くんっていくつなの? 」

「ちょうど五歳だよ」

「来年で小学生だね。でもなんで結婚してたこと教えてくれなかったの? 」

「それは……。うちはちょっと普通じゃないから」

 信五は困ったように笑っていた。

「普通じゃない? 」

「俺たち一緒に住んでないんだよね」

「それって単身赴任ってこと? 」

「違う」

「もしかしてもう二人は離婚してるってこと」

「離婚はしてないよ」

 環奈の中で謎は深まるばかりだった。

「それじゃあ何で? 」

「二人を殴らないために」

 想像もしていなかった言葉に環奈は困惑した。

「何を言ってるの? 」

「俺さ、父親に虐待されてたんだよね」

「えっ? 」

「ごめん。急にこんなこと言われても困るよね。元々は普通の家だったらしいんだけど、急に母親が男を作って出て行っちゃったんだよ。父親はいろんなストレスが重なったんだろうね。俺を怒鳴りつけたり殴ったりするようになった。いつからか父親は家に帰らなくなって、時々家に帰って来てもコンビニの弁当を置いて帰るみたいなことをしてた。近所の人が俺が虐待されているかもしれないって児相に相談してくれて保護されたんだ。その後は父親とは離されて親戚の家で暮らすようになった」

 信五の衝撃の過去に環奈は中々言葉が出てこなかった。

「そうだったんだ……。お父さんとお母さんは? 」

「知らない。でもどっちも生きてるはずだよ」

 信五は心底興味がないといった口調だった。

「そうなんだ……。どうやってほのかさんと出会ったの? 」

「俺はイタリアンのレストランで働いていて、ほのかはバイトで新しく入ってきた。いい子だなって思って付き合い始めたんだよね。付き合って三年くらい経った時に赤ちゃんが出来たってほのかに言われた。俺はその時ようやく夢だった自分の店が出来て仕事が忙しかったし、何より父親になるのが怖かった。だからほのかに言ったんだ。頼むから中絶してくれって。俺って最低だろ……」

 信五は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「でもほのかは絶対に中絶しないって言った。どんなことがあってもこの子は産むって。ほのかの両親も俺の親戚も中絶したほうがいいんじゃないかって言ったけど、でも産みたいって。それで俺たちは何度も話し合って、籍は入れるけど一緒には住まないってことになったんだ」

「そうなんだね……」

「俺が古着屋をやりたいと思ったのはほのかがきっかけなんだよ」

「そうなの? 」

「うん。ほのかが古着が好きでその影響で俺も古着が好きになったんだ」

「ほのかさんの影響なんだ」

「古着屋を始めたのは古着が好きだっていうのもあるけど、一番はほのかの考えてることを知りたかったから。だって俺みたいな結婚不適合者と結婚したいって不思議だろ? 」

 環奈はずっと気になっていたことを信五に聞いた。

「ねぇ。廉くんが産まれた時ってどんな気持ちだった? 」

「すげぇかわいいって思った。顔はしわくちゃだし猿みたいだなとは思ったけど、愛おしいってこんな感情なんだって思った。それにあんな痛い思いをして産んでくれたほのかをもっと大事にしたいって思った」

 先ほどの自嘲めいた笑みと打って変わって二人のことを話す信五は見たことがないくらいに顔が綻んでいた。環奈は信五が二人を大事に思っていることが伝わった。

「普段はほのかさんがお世話をしてるの? 」

「いや。交代で世話してるよ。月曜から水曜までは俺で、木曜から日曜はほのかって感じ。時々、家族三人で一日中一緒に過ごすこともあるよ。家が遠いと行き来しづらいから、同じマンションの三階と四階に住んでる。俺が四階でほのかは三階で」

「一緒に暮らせばいいじゃん。私、信ちゃんは二人に手を上げたりしないと思う」

「そう言ってくれてありがとう。でも親戚が言ってた。俺の父親も母親も本当に幸せそうで、そんなことをするような人間には見えなかったって。そっち側にいくのはちょっとしたきっかけなんだよ。俺ももしかしたらあの二人を傷つけるかもしれない。俺はそうなりたくない」

「でも両親が揃った方がいいと思うよ。廉くんも来年には小学校に入るんでしょ? だったら……」

「心配してくれてありがとう。でも俺たちは今は一緒に暮らさないって決めたんだ」

 信五の言葉に強い意志を感じた環奈は何も言えなくなった。

「俺たちが普通の家庭じゃないのは分かってる。時々俺も間違ってるんじゃないかって思うよ。本当ならほのかは旦那と子供と一緒に暮らせるはずだったし、廉も両親が二人そろった状態で育てるのが一番いいって。でもほのかが言うんだよ。『これが私たちにとって一番いい形』だって」

「そっか……。二人で決めたことなんだね」

「うん。晴人のとこもそうだと思うよ」

「もしかしてお姉ちゃんたちのこと知ってたの? 」

 環奈は驚きの表情を浮かべた。

「うん。晴人から相談された。まさみさんをどうしても助けたいけど、助けるには結婚するしかない。どうしたらいいかって」

「でも……。そんなの普通じゃないよ。お姉ちゃんを助けるために結婚するって」

 信五は頷いた。

「普通じゃないね。でもこの世には普通を選べない人間もいるんだよ。だからといって普通じゃないから不幸になるかって言ったらそうじゃない。普通じゃなくても幸せになれると思うよ」

 環奈は楽しそうに遊んでいるほのかと廉の姿が目に入った。その光景は不幸とはかけ離れていた。彼女は晴人と一緒にいるまさみを思い浮かべた。晴人と一緒にいるまさみはいつも笑っていた。それが答えなのかもしれない。


 晴人は家で事務作業をしているとインターホンが鳴ったので、ドアを開くとそこには神妙な顔で立っている環奈がいた。

「環奈? どうした? 今日はまさみは仕事だけど」

「聞きたいことがあって」

「分かった。入って」

 晴人はそう言うと環奈を部屋に入れた。








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