明日も

@niinashinjou

第1話



「――もし、まだあなたに」



 その日。

 あたしは、自分の心はもうとっくに死んでいて、この身体も、じきに死ぬことになるのだろうと思っていた。



「まだ生きる意志があるというなら。

 私は、あなたの命を買おうと思ってる」

「……は?」



 だけど今、あたしの人生に、やたら背の高い女がやってきた。

 目の前まで来てちょこんとしゃがみこみ、頬杖をついて、ゆっくりとこう聞いてくる。



「私の代わりに『森の魔女』になってほしい。

 私はもう、長くないから」



 それは、あまりにもめちゃくちゃな頼みだった。

 だから思わず笑ってしまったのに、女はいたって真顔だった。



「……どうしよっかなぁ?」



 なのでますます冗談のように感じられてしまい、あたしは半笑いで返すしかなかった。

 それが、あたしとヴァレリーとの――あと少しで命が尽きる魔女との出会いだった。



***



 『森の魔女』というものは、『森』の『魔女』とは名乗りつつ、別に森以外の場所で生まれた女性でも、生まれつき魔法の才能のない女性でもなれるものらしい。

 しかし、正式に森の魔女となったあとは基本的に森の中でのみ生き、最期は必ず森の養分となって死ぬさだめなのだという。

 ……にもかかわらず、ヴァレリーは森の魔女らしく木々と戯れるよりも、水にぷかぷか浮いていることの方が、よほど好きなようである。

 この季節、どう考えてもまだ相当冷たいであろう水に、当然のように全身を乗せて暮らしている。



「……あのさぁ。

 そーやって浮かんでんの。

 死んでるのかと思って、ビビるからやめてよね?」

「私は死なないわ……水じゃあね」

「それは知ってるけどさぁ……」



 水の中で眠るように目を閉じ、そのままピクリとも動かなくなっているヴァレリーを見ると、あたしはついに彼女が死んだのかと思い、死ぬほどドキっとする。

 だけどその次の瞬間、こいつはこの通り何事もなかったかのようにパチっと目を開け、えらく無表情にこっちを見るわけで。

 要するにあたしは毎回、心配して損した気分になるのだった。


 今からつい一週間ほど前。

 もうすぐ十七歳から十八歳になろうとしていたあたしは、どうしようもない悪人に誘拐され、奴隷として売られる運命にあった。

 つまり、突如襲った不幸により、心を殺されたまま生きていくはずだったのである。

 だけど十八歳の誕生日と春が近づく今日、あたしはこの通り大変元気に、イキイキと暮らしている。

 そしてこいつ、ヴァレリーと共に、人間の寄り付かない『夜の森』で生活しているわけだ。


 一週間前のあの日。

 ヴァレリーは、奴隷市へ向かう荷馬車……つまり、あたしが乗っていた馬車を、たまたま通りがかったような様子で、気まぐれに破壊した。

 もちろん、その中に乗っている人間のことなんかお構いなしである。

 当然、そんなことをされたあたしは、突如外へ投げ出される。それから、わけもわからず、手錠がはまったまま地面に倒れ、這って逃げることも満足にできずにいた。

 そして、そこへ現れたヴァレリーに、先ほどのような非常に気の抜けた感じの声で話しかけられ、今日にいたるというわけだ。



「……で。

 水に浮かんだままでいいんで、もう一回確認させてもらっていいですかね。

 あんたの目的は二つ。

 一つ目は『森の魔女』であるあんたが独自に開発した魔法を、次世代の魔女に伝えること。

 二つ目は、その魔法を伝えた相手を、次代の『森の魔女』にすること。

 ……だよね?

 だったら、別にあたしじゃなくてもよかったんじゃない?

 どうですか。考え直さない?

 今からでも間に合う……そんな気がするんだけど」



 この質問を浴びせるのは、実はこれで二回目だ。

 ここに来てすぐの日にも、あたしは同じ質問をしたことがあったのだ。



"確かに全く、あなたの言う通りだわ″



 一回目に聞いた日、ヴァレリーは気だるげにそう答えた。

 ヴァレリーはとびきりの美女だが、あたしが見るに、あまり自分の美貌に関心がない。

 彼女は、世の中の多くの人が『美形を描いて』と言われたら、まずは目をこんな風に描くだろうと思われる、理想的に切れ長の瞳をぼんやりこっちに向け、それから、やはり美形を描くなら髪の毛はこんな感じに塗るだろうという、つやつやの長い黒髪をだらんと垂らして……実に残念なことを言ったのである。



"でも私、この通り友達がいなくて。

 だからもう、知らない人、しかもたまたまそこを通りがかったような人に頼るしかなくて……。

 ……自分が魔法を使えて、そしてお金を持っていてよかったと思っているわ。

 人脈はないけれど、それらがあったから、こうしてあなたを勧誘することができた"

"……あれ、勧誘っていうんですかね。

 とてもこちらに選択肢はなかったように思えるんですけどね"



 つまり友達のいないヴァレリーは、知り合いも少なければ人脈もないので、まともに後継者候補を選出するすべがなかった。

 しかし『森の魔女』としての才能は溢れに溢れていたので、魔法という暴力と、これまで魔法を使って得てきたお金を使って、強硬手段に出ることはできたのである。

 その結果、捕まえられたのがあたしである。

 奴隷になるくらいなら、魔女をやりましょう。生活の保障はしてくれるみたいだし……。と、あたしは渋々こいつの相談に応じることにしたのだ。



"まぁ、あたしも友達いないから似たようなもんか。

 かわいそーだね。あんたも、あたしも"

"全くだわ……"

"……あの。言い過ぎたならごめん"

"なぜ?"

"なんか、悲しい顔してるから……"



 なので当初、あたしはこの魔女を少々哀れにも思った。

 ヴァレリーの目的は、じきに死ぬことが確定している自分の功績を、後継者に引き継ぐことだ。

 であればその後継者は、できるだけ魔法の才能がある人間の方がいいに決まっている。

 にもかかわらず、ヴァレリーはそれを選べる環境にない。

 結果『魔女の存在は知っているが、魔法なんて見たこともなければ、当然使ったこともない』という田舎の小娘、つまりあたしに頼らざるを得なくなったのである。

 だからあたしは、一度目の質問を浴びせたその日、一応助けてもらったからには、せめてよい後継者になろうと思った。

 思った……のだが、思った矢先に、ヴァレリーはこう言ったのであった。



"だって哀れで……貴方が。だからつい悲しい顔に……"

"あたしかよ!"


 

 腹の立つ女である。

 かくして、あたしはこの実にむかつく女と一緒に一週間を過ごしたのち、もう一度同じ質問をしていた。

 その理由は明確である。



「だって、ひらたく言って魔法の才能ないでしょ? あたし」



 そう。ヴァレリーが適当に見繕ったあたしという女には、魔女としての資質が全くなかったのである。


 森の魔女が使い、次代に伝えるのは『育てる』魔法だ。

 たとえばその初歩のものは、手をかざすだけで、土に植えた草花の種を開花させる……といったものらしい。

 しかしあたしは、魔法を習い始めて一週間が経っても、それを成功させることができなかった。

 試しに今も目の前の土に手をかざしてみたが、その中にあるであろう大量の草花は、どれも一切反応を示さない。

 こんなあたしを、短期間で『森の魔女』として完成させるのは、極めて難しいことのように思えた。



「……ほら。またダメだった。

 ほんと、なんであたしなんか選んじゃったんだか。

 確実に、探せばもっとマシなのいたよね……。

 だからさ、今からでも一緒に他の候補を」

「仕方ないわ。私、あなたのこと顔で選んだもの」

「それは聞いたけど。

 マジ、その選定基準はダメなやつだと思うよ……」



 田舎娘にしては器量が良い。

 という理由で一週間前誘拐されたあたしは、一週間後、同じ理由で魔女をやらされることになったが、魔法の才能にはさっぱり恵まれていないことに気づかされていた。

 このままでは、ヴァレリーは目的を果たせない。

 せめて、時間があと数年でもあれば違ったのだが、ヴァレリーにはすでにほとんど命が残されていなかったのだ。

 にもかかわらず、ヴァレリーはあたしを諦める気がないらしい。

 ……そんなにいいのだろうか、この顔。

 顔がいいからと言って、別に魔法が得意になるというわけではないこと、この一週間で、ヴァレリーは存分に理解したしたと思うのだが。



「確かに……あなたの魔女としての才能は淡いかもしれない。

 ただこの通り、私はあなたを才能で選んだわけじゃない」

「そうですねぇ。

 襲った馬車の中にいた奴隷で、あたしが一番自分好みの顔で。

 かつ、一番むかつく態度を取ってたから!

 あたしを選んだんですもんねぇ」

「むかつく態度を取っていたとは言っていないわ……。

 むしろ気に入ったの。

 あなたはあの局面でも、ずいぶん元気だった。

 『もう自分は死んだようなものだ』と言う割には、生きる意志に満ち溢れていた。

 だから私は『いい顔をしてる』と思ったの。

 あなたなら、多少素質に欠けていようとも、何とかなるのではと思って」

「……もっともらしいこと言ってるけど。

 どうせ、一番派手で最初に目についたから、あたしにしたんでしょ」

「まあ、そうとも言うわ」

「そこは否定してよ!」



 ヴァレリーはいつもつかみどころがなく、あたしたちの呼吸は、いつまでたっても合う気がしなかった。

 結局この日も、あたしはヴァレリーの言うこと成すことすべて適当、あるいは冗談のような態度に振り回され『自分を魔女にするのはやめて、他の候補を探そう』と提案することができずに終わってしまったのだった。

 であれば、腹をくくるしかないのだろうか。

 いや、すでにくくっているつもりなのに、それでも一切成功しないというのが、今の問題なのだけれど……。

 そんなことを思いながら、その夜あたしが手元にあった数少ない荷物を燃やしていると、匂いを嗅ぎつけたらしい。

 のそのそとヴァレリーがやってきた。



「レン。燃やしているの? 荷物を?」

「おっしゃる通りですよ。

 いいの。別に、とっておきたい思い出なんかなかったし」



 荷物を燃やそうと考えたのは、自分がいつまでたっても昔の生活に執着しているから、魔女としての一歩を踏み出せないのではないか。と考えた身体。

 ただし、ある日突然『いい仕事がある』と騙されて連れて来られた馬鹿者に、自分の持ち物などはほぼない。

 せいぜい悪人どもから取り返した、数日分の旅行セット程度の荷物である。

 それを無理やり一か所に集め、森の隅っこでささやかな焚火をしているあたしを、ヴァレリーは不思議そうに見下ろしている。


 それからやがてゆっくりと近づくと、土の上に転がっていた、燃やしたくても燃えなかったおもちゃの指輪を拾い上げる。

 そして、こう聞いてきた。



「これも燃やしてしまうの?」



 ガラクタを見つめるヴァレリーの瞳は、真っ暗な夜の色そのものだった。

 そんな美しい目が、二つ揃ってボロボロの指輪をジッと見つめ、興味ありげに静かに光っている。

 それだけで、魔女様が関心を持つには安物すぎる指輪が、急にとても価値のあるものに見えた。



「欲しいならあげるよ。

 まぁ、あたしでも買える粗悪品ですけど」



 その時、もう少しましな言い方をすればよかったと、後で思った。

 多少顔がいいこと以外何も取り柄がなく、魔法の才能もない、つまり何も持っていないあたしは、ヴァレリーにあげられるものも当然なかった。

 しかも、この通り口も悪い。

 本当はヴァレリーに恩を感じているのに、それをうまく伝えることすらできないのだ。



「嬉しいわ……。ありがとう。いただきます。

 そうだ。私、あなたに伝えることがあって来たんだった」

「何々? だからこんな夜中に、外まで探しに来てくれたわけだ」

「そう。こんな夜中に、外まで探して伝える必要のある情報だから。

 ……ついに見えたの。占いで」

「……何が?」


 

 何が見えたのかはなんとなく理解できたが、わざと質問した。

 自分の予想が、見当違いであると思いたかったからだ。

 しかし、ヴァレリーは眉一つ動かさずにこう言った。

 一番伝えてほしくない情報だった。



「私が死ぬ日。

 あときっかり三週間後ですって。よろしくね」



***



「……そっち、行ってもいい?」



 ヴァレリーが亡くなるとされる二日前。

 あたしは、二日後にはたった一人残されるヴァレリーの弟子として、ついに勇気を出すことにした。

 ヴァレリーと過ごした時間は、たった一か月にも満たないと言えばそれまでだ。

 だけどあたしは、結構楽しかった。『はい、さよなら』では終わらせたくなかった。

 だから最後くらいは、できるだけ長い時間を一緒に過ごしたいと思ったのだ。



「どうしたの……? 薄気味悪い……」

「薄気味悪くても! 明日もこうするから!」



 なのであたしは、これまで一度も入ったことのなかったヴァレリーの部屋に無理やり入ると、そのベッドに、むんずと自分の枕を勝手に置く。

 ヴァレリーはそれをいつものように気だるげに見つめていたが、かといって拒絶はしなかった。

 それを承認とみなしたあたしは、さも当然のようにベッドに入ると、今まさに寝ようとしていたヴァレリーに、添い寝をしてやることにした。


 ヴァレリーや、ヴァレリーの持ち物からは、いつもふんわりと花の匂いがする。

 少し前『これって何の花?』と聞いたら『あなたが本日、ついに咲かせる事に成功した花』と言うから、つくづくいちいちむかつく女だ……。と思いながらも、教えてもらえたことに少し感謝した。



「そうだ。明後日以降の話をしてもいい?」

「……ああ、いいよ。

 約束通りこの森で生きていくよ。後は任せなさい」



 ヴァレリーの花占い曰く、明後日、ヴァレリーは死ぬらしい。

 結局あたしは初歩の魔法程度しか使えるようにならず、ヴァレリーの一つ目の目的である魔法の継承は、彼女の死後に延期された。

 明後日からのあたしは、ヴァレリーが残した魔法書と勉強する事で、その達成を目指すことになったのだ。

 一方、二つ目の目的の方は何ら問題ない。

 ヴァレリーの死後も、あたしがここを出ずに暮らせば済むだけの話だ。

 一つ目の目的を満足に果たせなかったあたしは、せめてそちらだけでも死守するつもりだ。

 これでも義理堅い方なのである。

 一生ここで一人で暮らすというのは恐ろしいが、ヴァレリーが亡くなり、あたしの生活をチェックするものがいなくなったからと言って、約束を破る気はなかった。

 だが、ヴァレリーが気にしているのはどうやらそこではないらしい。



「そうじゃない。あなたの未来の話」

「あたしの未来の話?」



 ヴァレリーは、なぜかあたし自身のことを気にしているようだった。



「レン。あなたにはきっと、正直な人が似合う。

 明後日から先は、そういう人を探せばいいと思う」

「……正直な人ならここにいんじゃん?

 超嫌味で、歯に衣着せなすぎる、あんたがさ」

「確かにそうかもしれない……。

 でも、明後日から私はもう生きていられないから。

 私以外の人を探してもらう必要がある」



 天気の話でもするかのようにさらりと言われて、言葉に詰まった。

 『本当は死んでほしくなんかない』

 『ずっと一緒に居たい』

 こいつが死ぬことを前提にここにやってきたあたしは、そんな当たり前のことを口にできない。

 ヴァレリーが跡継ぎを必要としていなかったら、死ぬ予定がなかったら、あたしたちは出会うことすらもなかった。

 それをわかっていて、あたしはヴァレリーに死んでほしくないと願っているのだ。

 どうして、こんな残酷なことがあるんだろう?



「そんな必要、ないよ。

 だって約束したじゃない。

 あたしは森の魔女になって、ずっとここで一人で暮らすって。

 だからいらない。他の人なんて。

 探しにもいかない」

「じゃあ、約束を破る。

 私の二つの目的のうち、あなたに森の魔女になってもらいたいというお願いは破棄する。

 それなら、探す?」 

「それでも探さない……!」



 悔しくて、悲しくて、頭がズキズキと痛む。

 この期に及んでこんなことを言い出すヴァレリーを怒鳴りつけたくなったが、これ以上何かを口にしたら、言葉はそのまま涙に変わってしまいそうだった。



「もうやめてよ、そういうの。

 あんたは、自分のことだけ考えててよ……」



 だからあたしは、それだけ言って、背を向けて目を閉じる。

 その後もヴァレリーは何度かあたしに話しかけてきたが、すべて無視して、眠ったふりをした。

 ヴァレリーは、それに気づいていたのだろうか。

 最後に小さくこうつぶやくと、ベッド脇の明かりを静かに消した。



「うまくやってね。私の弟子さん」



***



 翌日目を覚ました時、ヴァレリーはもういなかった。

 寝起きの頭でぼんやり部屋を見渡しながら、あたしはあの優しい花の匂いを嗅ぐ。

 それから一瞬『また水の上にでもいるのかな』と思った後、ベッドの上に一通の手紙があることに気づいて、もう、どれだけ探しても、二度と彼女には会えないことを悟った。



「……なんで、急に敬語?」



 封筒の中には、花の種と、地図と、ぼろぼろのおもちゃと。

 そして、今まで聞けなかったことが詰まっていた。



"レンへ。



 正直に言います。

 嘘をついてごめんなさい。

 一日、亡くなる日をごまかしてしまいました。


 あなたは約一か月前、私の勝手な都合で選ばれて、ここへ来ました。

 そして一緒に過ごすことになり、今日に至ります。

 だから、私が一方的に振り回したために、涙を流すことになるかもしれないあなたが不憫で。

 どうしてもそれを見るのがつらくて。

 嘘をついてしまいました。

 最後までこんな私で御免なさい。


 レン。

 いつかあなたは『残しておきたい思い出なんかない』と言いましたね。


 それを聞いたとき、私は、本当は、あなたの残しておきたい思い出になりたいと思いました。

 でも、それはあまりに勝手な気がして。

 『死後も覚えていてほしい』とか『そばにいたい』と言うことが、どうしてもできなかった。


 だからこうして嘘をついたことも、あなたを想っていることも、すべては私のわがままです。

 となると、私の思う愛とは、ずいぶん勝手なものになりますね。


 だから、勝手には勝手で返してください。

 それができないのなら、私の命令を聞いてください。

 『森の魔女』は孤独すぎる。

 私との約束を忘れて、森を出て、新しく誰かを愛してください。

 あなたにはきっと、その才能が有るでしょう。

 あなたは私の誰よりも大切な人。

 なんて、友達のいない私に言われても何の感慨も沸かないでしょうけれど……。


 だけど、あなたが私をどう思っていたとしても。

 こうしたことで今、関係が壊れても。

 この通り、二度と会えなくなっても。

 あなたと過ごした記憶は、私の心を何よりも温めてくれています。


 友達のいない私に、最後まで付き合ってくれて有難う。

 あなたの幸せな人生を祈っています。



 ヴァレリー




 最後に。私の遺産を送ります。

 私の一番大切なものを、と思ったら、これになってしまった。

 ぜひ持って行ってください"



「だからって……」



 言葉の代わりに涙が伝い、今更遅いのに、伝えられなかった想いが溢れてくる。

 どうして言えなかったんだろう。

 『楽しかった』って。

 『あの日助けてくれてありがとう』って。

 『あんたがいるから、今のあたしがあるんだ』って。



「おもちゃじゃん、こんなの……」



 小さな花の種と、いつか自分が捨てた指輪を握りしめて、いつまでもあたしは泣き続けた。

 『幸せな人生を送ってほしい』なんて言われたら死ぬこともできやしなくて、一晩経ってから、一緒に入っていた地図を初めて見た。




***



「――先生。なんですかそれは?」

「うん。昔好きだった人の形見」



 それから七年後。

 正確な事実を伝えた途端、弟子のアイリスは、手に持っていた本を派手な音を立てて落とした。

 ヴァレリーの願い通り、勝手に生きることにしたあたしは、現在『夜の森』で魔法を教えて暮らしている。

 まあ、いたのだ。物好きが。

 原則、森から出る気もない、弟子を取る気もない。

 次代に魔法を伝える際は、先代の数少ない知人に魔法書を託して死ぬと決めていたあたしに、どうしても魔法を教わりたいという変人が、一人いたのである。



「……衝撃を隠しきれません。有り体に言って妬いています。

 先生の最愛の人とは、わたしであるとばかり思っていました」

「こればっかりはどーしよーもできないわ。

 ていうか、そんなの初耳なんだけど。

 何がどうしてそうなったアイリス。

 あんたの言うことはいつも荒唐無稽だな」

「誠実だと言ってください!

 わたしは先生に嘘をつきません。

 わたしたちはうまく行っている、おおむね愛し合っているといえると認識しています。

 ……で、実際はどうなのでしょうか。

 先生のお気持ちをお答えください。

 このままでは悲嘆に暮れて死にます」

「うん、うん。知ってる、知ってる。

 あんたが正直者なのはよぉく知ってるよ」



 とる気のなかった弟子をとったのは、まず、このアイリスが、異常にしつこかったというのがある。

 だけど、それと同じくらい、ヴァレリーの言葉を思いだしたから……というのもあった。

 アイリスは、思わずこっちが引くほど正直である。

 確かにこいつが相手であれば、あたしも思ったままを伝えることができている。



「……悲嘆に暮れて死ぬのもいーけどさ。

 今日ってあんたの誕生日だよね。

 もしもあんたに生きる意志があるなら、これからご飯でも行こうよ。

 たまには森を出ましょうか。

 そのつもりで準備してあるんだけど」

「えっ!?」



 師匠と弟子は似るものだと思う。

 あたしはアイリスを、才能の有無よりも、自分に合いそうだから、という理由で選んだ。

 アイリスはそれを『運命だ』とか『愛だ』とか言ってくれるけれど……それならいよいよあいつの言った通り、愛とは勝手なものだということになる。

 誰かに『そんなの愛じゃない』と言われたら『まったくだ』と笑うしかないものである。



「死ぬのやめました!

 生きます! 命ある限り」

「よし元気でよろしいことだ。じゃあ早く課題終わらせて」

「はい! 頑張ります!」



 だけど、もし、アイリスがそれを大切に想ってくれるなら、あたしも、あいつがくれたこの命を、明日へ続けようと思う。

 いつか心の小指に結んだ縁は、あいつの死後も、そうやって繋げて行ける。

 そう思うくらい、許される気がするからだ。



「先生出来ました! もう課題できちゃいました!」

「いやそれ嘘でしょー」



 大切だった人によく似ている、すぐにばれる嘘を聞きながら。

 あたしはいつか彼女に贈ってもらった指輪を、右手でそっと握りしめた。

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