(2)
男が息絶えるまでにそう時間は掛からなかった。
真琴がナイフを突き刺して、数秒ほどで終わりを迎えたはずだ。
彼女にはその何倍もの長い時間に感じられたが、それも男が死んだ瞬間に終わりを告げる。
男が絶命するのと同時に、彼女と男を取り巻く景色は一変した。
血によって真っ赤に染まっていた制服も真っ白で、彼女に降りかかっていた血液の存在が無かった事になっている。
それもそのはずで、男の首にはナイフによる傷など付いておらず、血が噴き出してもいない。
男の首はナイフを突き刺す前の状態に戻っていた。
それを理解できるほどの脳みそは備えていない。それは男の方も同じだった。
理解はしていないが、彼女の手によって殺された記憶は存在していたようで、怯えるようにその場から逃げ出していった。
――なにが……おきたの……?
男を追う事無く、自分の身に起きた出来事を振り返る彼女。
絶望して、何もかも諦めていた自分を思い出す。
そこから希望を見出して、それにしがみついた彼女は今、一人、空を見上げて倒れている。
体を起こして、自分が無事である事を確認すると、自らの両手で体を抱える。
涙が頬を伝い、それを皮切りに溢れ出す。
その後、彼女は警察によって保護されたが、男が使っていたナイフは消えていた。
それから、真琴にとっての地獄のような日々が始まった。
翌日は警察に事情を聴かれ、病院にも連れていかれたが、大きな怪我はなく、次の日には学校に行けるようになった。
どちらの施設でも男性と話す機会はあって、その時、違和感はあったが、それが何であるかまでは分からなかった。
男性に対する抑えきれない殺意。
違和感の正体がそれであると気が付いたのは、当時好きだった男子を目にした時だった。
朝、教室に入ってきた彼を見た瞬間に、真琴は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
同時に、男の首にナイフを突き刺した時の光景が目に浮かんだ。
彼の姿を見る事に耐えられなくなった彼女は、教室を出て、廊下を走った。
咄嗟にトイレへと駆け込むと、個室へと入って、カギを閉めた。
――今のは、なに……?
彼を見た途端に湧き上がってきた感情の正体に、彼女は最初、気づいていなかった。
よくわからないまま、教室を出て、トイレに入ったが、その判断は最善だったかもしれない。
あのまま、彼女が教室にいて、好きだった彼と対峙していたら、どうなっていたのか。
自分の中から湧いて出てきたものを確認する作業を彼女は、その場でしていた。
――私は、彼の事が好き……なんだよね?
そう自問するが、彼女は首を振る。
彼女は、彼を傷つけたかった。
彼の肌を切り裂いて、傷口から溢れ出した血液を床や壁、天井に撒き散らし、それでも足りないと、何度も何度も、彼に向かって刃を振り下ろしたい。
奥深くまで刃物を差し込んで、彼の内臓を取り出し、愛撫してあげたい。
四肢をもいで、バラバラにした彼をミキサーにかけて、その液体を樹脂に混ぜて固め、アクセサリーにして持ち運びたい。
自分でも恐ろしいと思うような願望を頭の中で羅列する。その度に、彼女は興奮する。
好きという気持ちが、彼を殺したいという残虐な行為にすり替わっていた。
――私は
彼の事が好きなのに、殺したいという矛盾に、彼女の頭は益々、混乱状態に陥っていく。
このまま学校を休む事もできるだろうが、これ以上、親に心配をかけたくはなかった。
トイレに籠って考えていても、意味がないと思った彼女は、トイレを出て、教室に戻った。
その日は、彼を見ないようにすれば、支障はない事に気がついて、難を逃れた。
親もまだ不安なようで、塾は休んで、代わりに家で勉強をしていた。
夕食を食べ、リビングでテレビを見たり、携帯電話を見たりしながら休憩して、お風呂に入る。
一人、湯船に浸かっていると、思い出される真っ赤な光景。
自らの顔にお湯をかけて掻き消して、お風呂から上がって、自分の部屋に戻る。
寝る前に少しだけ勉強しようと机に向かった時、机上に置いてあったあるものに目を見開いた。
――どうして……!?
彼女が困惑するのも無理はない。
銀色に光り輝く鋭い刃物が、置いてあった。
恐る恐るだが、彼女はそれに引き寄せられるように、手に取ってみせる。
触れて、握って、構えて、彼女は確信する。
そのナイフは、男が自分に向けてきたもの。そして、彼女が男の首を突き刺したものだった。
あの時、現場から紛失してしまった刃物。
男が自分の手から持ち出したのだろうと彼女は思っていたのだが、何故かそのナイフは目の前に存在している。
不気味という表現以外しようのない現象だった。
彼女が部屋を出て、夕食を食べ、リビングで過ごし、お風呂に入っていた間に、誰かが家に侵入して置きに来た。
それとも、元々家にいた誰かが、置いたのか。
かと言って疑心暗鬼や不安になるような事はなく、彼女はすんなりとナイフが自分の手元にある事を受け入れていた。
――『殺せ』。
ナイフがそう言っているように、彼女には聞こえた。
翌日。
そのナイフを持って、彼女は登校していた。
彼を殺したいという気持ちは、明らかに昨日よりも増している。
昨日の時点では、彼を見なければ耐えられていたものが、今日では、特に気があるわけでもない男性と話しているだけで、頭の中が「殺したい」という気持ちに浸食されていく。
それを食い止めようと、彼女の理性は必死に働いていた。
殺したいという衝動と、人を殺してはいけないという倫理観。
どちらが自分の本当の意思なのかの判断もつかなくなった彼女は、彼を放課後に呼び出した。
放課後、好きだった人と二人きりで対面する。
――ごめんなさい。でも、もう無理だよ……
彼女の心は、限界を迎えていた。
殺人衝動を抑えきれなくなった彼女は、彼を殺した後、自分も死んでやろうとそう思っていた。
「ちょっと待ってくれ。俺から言わせてくれ」
そう彼に止められて、真琴は首を傾げる。
どうやら、彼の方はこの状況を勘違いしているらしかった。
「俺、お前のこと、一年の頃からずっと好きだったんだ!」
「良かった……私も――――」
――
彼女は、彼の脇腹にナイフを突き刺した。
体勢を崩す彼を無理やり押し倒し、馬乗りになって何度も、繰り返しナイフを彼に向けて振り下ろす。
返り血を浴びて真っ赤になった自分の手と、血の海に沈む彼の姿を見て、彼女は満足げに嗤った。
彼が息を引き取ったその瞬間に、彼女が彼の告白に応答してからの残酷な光景の全てが無かったものになる。
真琴は気がつくと、死んだはずの彼と対峙している場面にいた。
それは、あの男の首をナイフで突き刺し、殺した時と同じ現象だった。
殺した感触は手の中に残っていて、憶えているのに、彼は死んでおらず、目の前で元気そうに立っている。
困惑しているのは、真琴だけじゃなく、彼も同じだった。
告白した直後に自分を殺してきた女子が目の前にいる。
それはとてつもない恐怖で、彼はすぐさま、彼女から逃げ出すように走り出した。
「待――――」
彼を引き留めたところで、どうしようというのか。
あれは夢で間違いだったと、言い訳をするのか。それともまた、彼を殺すのか。
自分を殺した相手から必死に逃げる彼を止める事などできるはずもなかった。
――ああ……私は彼に、なんてことを……!
殺す事しか頭に無かったのに、それを満たした瞬間、自責の念に駆られる。
憎むべき男と同じように、自分の欲望を満たす行為を、今まさに、してしまったのだ。自分が好きだった人に対して。
膝から崩れ落ちる彼女は、絶望するのと同時に、自らの首元にナイフを向けた。
当初思っていた通り、自分も死のうと覚悟を決めていた。
結果、彼女は死ぬ事ができなかった。
自らの首を切って、死んでしまった彼女は、ナイフで首を切りつける前の状態に戻っていた。
――死ねない……
それこそ、彼女にとっての最大の絶望だった。
そして彼女は、その日以来、好きだった人の名前と顔を忘れてしまった。
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