放課後、私は彼に告白される。
(1)
土曜日。
岳とラーメン屋の前で別れた後、真琴は一人で家路につく。
浴衣姿に似合わない学生鞄を手に持ちながら、駅の中を進んでいく。
駅は彼女と同じように夏を思わせるような服装の人も大勢いて、別段、浮くという事は無かった。
そんな人の賑わっている駅から少し離れただけで、辺りは途端に静かになって、彼女の気持ちも落ち着いてくる。
見知らぬ男性が周りにいるだけで、彼女の心はざわざわしていた。
落ち着いたところで、彼女は今日の出来事を振り返って、自分に問いかける。
――なんで、あんなことを彼に、言ってしまったんだろう?
自らの、岳に向けた言動について考えながら、カランという音と共に、慣れない下駄で歩く。
彼女の言う「あんなこと」というのは、花火が上がる前、駅の屋上で岳と話していた時に口走ってしまった事だった。
『それに、私は――――少しだけ、ツバキくんに救われてるよ……』
肝心な部分は花火の音によって掻き消されて、岳には伝わらなかったようだ。
改めて、彼に「なんて言っていたのか」と尋ねられた時、彼女は、「忘れてしまった」と言った。
本当は憶えていたが、嘘を吐いた。
聞こえていなかったのなら、無かった事にした方が、彼女にとって都合が良いと思ったから。
岳に対して、過度な期待をさせずに済むのと、自分を守る為に、彼女は彼にそう言った。
要らぬ希望を彼に押し付け、それが叶わなかった時に、絶望してしまわないように。
彼によって、少し救われたという彼女の言葉。
それに偽りは無かったが、これ以上、救われる事は絶対にあり得ないと、彼女は思っていた。
今でも夢に見るあの日の出来事と、そこから変わってしまった自分自身を、完全に消し去る事などできるはずがない。
だから、彼に求めるのは、自分に殺される事。他に余計な事をする必要は無い。
彼女自身もそう思っているし、分かっているつもりだった。
でも、彼女の心はもやもやしている。
それも全部、彼が彼女を救うと宣言してきたせいだ。
――ツバキくんは、分かってない。
二年前のあの日と変わらない、生ぬるい風が吹く、息もしづらい暑苦しい夜。
――私は、救われない。
脳裏に焼き付いた嫌な記憶を無理やり、引き出される。
そして、そんな彼女に追い打ちをかけるように、不審な人影が浴衣姿の彼女へと近づきつつあった。
中学三年生の夏。
受験生なので、真琴も塾に通っていた。
放課後、学校が終わり、家に帰るとすぐに、塾に向かった。
行きはまだ、日が落ちていない時間帯で、一人で塾に向かう事が多かったが、帰りは親に迎えに来てもらう事が普通だった。
そんな塾からの帰り道での出来事だった。
真っ暗で何も見えない道を、真琴は一人で歩いていた。
いつも迎えに来てくれる親だったが、その日に限っては、急に行けなくなったと連絡があった。
徒歩でニ十分くらいの距離ではあるが、行きは歩いて行っているのだから、大丈夫だろうと、彼女も、彼女の親もそう思っていた。
「はっ……はっ……!」
彼女は今、明かりのない夜道を必死になって、息も切らしながら走っていた。
自分を追いかけてきている誰かから逃げるように、何度も何度も、繰り返し、後ろを振り返りながら。
ただひたすらに、彼女は走り続けて、体力もとうの昔に限界を迎えている。
追ってくる何者かも分からない人物との距離も縮まる一方だった。
「たすけ……! だれか……!」
必死に助けを求めたが、それが届くほどの大きな声も出なかった。
後ろを何度も振り返っていたのと、暗くて地面の様子を窺えなかったせいで、地面の凹凸に足を取られ、彼女はこけてしまった。
その後、逃げていた相手との距離は、虚しくも数秒ほどでゼロになった。
――こわいこわい怖い怖い怖い怖い怖怖怖怖怖怖怖怖……――――!!!
真琴は、恐怖以外の一切の感情を失っていた。
加えて、足はガクガクで、息も荒い。先ほどまで走っていた影響だろう。
立ち上がれない。走り過ぎたのか、気分も悪い。
それでも彼女は、地面を這って、逃げようと試みる。
しかし、それらの行動も空しく、彼女は知らない人に腕を掴まれて、引きずられ、無理やり仰向けにされる。
上から圧し掛かられ、両手で彼女のそれぞれの手を掴んで、抵抗できないようにする。
「いやっ……! はなして……!」
無造作に顎鬚を生やした人相の悪い男と目が合った瞬間に、男は彼女の細い両腕を片手だけで押さえつける。
空いたもう片方の手を自らのポケットに突っ込んだ男は、ナイフを一本取り出して、彼女の頬に突きつける。
そのまま、極限まで彼女に顔を近づけていって、呟いた。
「おとなしくしねえと、殺すぞ」
馬乗りになった男はそう言って彼女を脅し、慣れた手つきでもって、少女の制服を切り、白い肌を月夜の下に晒す。
バタつかせていた足も男の脅しとともに、動きをなくした。
抵抗したところで、男の力に少女が敵うはずもなく、それに気づいた彼女は、全身の力を抜いてしまった。
――私、このまま犯されるんだ。
男は彼女の身体を自由に舐め回していたが、彼女は気持ち悪いとは思いつつも、全てを諦めていたために、無反応だった。
そんな彼女を面白く思わなかったのか、男は笑みを浮かべながら、持っていたナイフを地面に置く。
「大人しくなるのはいいんだけどよ。もっと苦しそうにしてくれねえか? なぁ!? そうじゃねえと、こっちもやりがいがねえんだよ!」
自分が気持ち良くなる事しか考えていない男は、そんな自分勝手な要求をしてくるが、彼女はそれに応えようとはしない。
男もそれを察したのか、掴んでいた少女の手を放して、自由になった両手で、少女の首元を押さえる。
そのまま、彼女の首をがっしり掴むと、男は笑いながら、思いっきり力を込めて、彼女を殺すつもりで細い首を絞めた。
「かっ……はっ……!」
顔を真っ赤にしながら苦しそうな表情を浮かべる少女。
彼女の様子に満足した男は、手を放すと、自らのズボンを脱ぎ始める。
逃げる事も、助けを呼ぶ事もできず、どうしようもなく、ただ、真琴は絶望するしかなかった。
希望なんてどこにもありはしないと、そう思っていた。
そんな時に、彼女の手は地面のアスファルトではない、冷たいナニカに触れた。
ひんやりとした、薄い形をしたナニカ。
――これは……
それが、男の手放したナイフの刃の部分であると気がついた。
彼女が凶器を手に取ろうとしている事に、男は気づいていない。
男は自分の欲望を満たす事に夢中になっているようだ。
こんなに近くに希望が落ちているとは、彼女も思っていなかった。
驚きはしたが、冷静にこれからやる事を思い浮かべる。
――私の手って、結構長かったんだ。
ナイフを男に突き刺す。この状況を変えるにはそれしかない。
それを逃避するかのように、どうでもいい事が彼女の頭の中に浮かんできた。
この男に対して、慈悲など必要ないと、彼女は男の首元にナイフを突き刺した。
鮮やかな『赤』が視界を包み込んで、生温かいそれらは、全て彼女に降りかかる。
男から噴き出した液体の色を彼女が認識できていたのかと問われれば、答えはノーだ。
その時は、月明かりはあれど、真っ赤な色を認識できるほどの光はなかった。
それでも、目に焼き付いて離れなくなった、その『赤』は、彼女の頭の中にだけ、確かに存在していた。
彼女の罪を認識させるように。
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