最終話

峯野は雨の中、一人作業を再開することを決意する。雨合羽をきて、地上から頂上まで一人で椅子を運ぶ。頂上の付近は雲に覆われて見えない。鉛色の空から降り注ぐ矢のような雨。

椅子を運ぶ峯野を待ち構えるのは世界を隔てる白銀の壁。その壁を突っ切り、椅子を運ぶ。

この時、峯野の中に何か覚醒しだすのが分かる。雨水で濡れ、いつもとは違う足場、重心をかける位置を探るこの感覚、次第に研ぎ澄まされていく。いつしか、適切な足場の位置は瞬時に理解できるようになった。ここにきて父の持つロッククライマーとしての素質が、自身に受け継がれているのに気付き、今それが覚醒している。

 しばらく運んだ後、次の椅子を取りに戻った時、傘を差し、手にはビニール袋を持ち、セーラー服を着た少女がいることに気付く。合羽のフードを取りその少女を確認する。

「峯野くん!」

そこには心配そうな顔をした浅岡の姿があった。

よく見ると、スカートの色が二色に分かれているのに気付く。水っ気を孕んだ濃い紺色。長い黒髪は濡れていて、頬に張り付いている。走ってきたのかもしれない。峯野を見つめる目は赤みを含み、潤んでいるように思える。どうしてこんな顔をするのだろう。その疑問は直ぐに晴れた。

「なんで作業する事あたしに伝えてくれなかったの? 急用があって電話したのに出ないし、連絡網で峯野くんのお母さんに聞いたら学校行ったっていうから、あたしそこからまた何回も電話したのに出ないから、心配になって、ほんとに心配で――」

 そう言う浅岡の声は鼻声で掠れていた。

「ごめん――」

「でも、無事でよかった」

 浅岡はホッと胸を撫でおろす。そして持っていたビニール袋からペットボトルのお茶とおにぎりを取り出し、峯野に手渡す。

「差し入れ。よかったらどうぞ」

「ありがとう」

 峯野のお腹が唸り声をあげる。集中していてご飯を食べるのを忘れていたらしい。浅岡からおにぎりを受け取ると、包みを剥がして思いっきり口の中に頬張った。いっきに食べたせいか、喉を通ったおにぎりが変なところに入って咽る。浅岡は手にあるペットボトルのキャップを外し峯野に渡す。

「大丈夫? そんなに慌てなくもおにぎりは逃げないわよ」

「おめん、おめん」

「何言ってるか分からない」

 浅岡の顔が綻び、峯野は少し安心する。浅岡の悲しそうな顔は見たくない。峯野は父の言っていたことを思い出していた。好きな人を悲しませてはいけない。

「作業はあとどのくらい?」

 峯野は残っている椅子の数を数えようと辺りを見る。気付いたらあと椅子は一脚だった。

「これでラスト――」

「遂に完成するのね」

「うん」

「あたし、頂上の景色楽しみにしてる――」

 峯野はお茶をゴクリと飲むと、最後の椅子を持ち、そびえる椅子の岩壁に手をかける。覚醒した神経を研ぎ澄まし、岩壁を登り始める。浅岡は指を交互に組み、祈るようにして心配そうに峯野を見つめる。その眼差しは、薄暗い灰色の世界を照らす一筋の陽光のように――。

 峯野はまた白銀の世界の入り口に対峙する。薄くなった空気を思いっきり吸い込み、白銀の世界に入っていった。

 白銀の世界は視界が白銀に覆われていて椅子を持つ手すりしか覗えない。次の手すりに手をかけた刹那、閃光が走り、間も開かずして雷鳴が轟く。足が震える。峯野は自分を叱咤し、下でこの展望台の完成を待つ浅岡のために歩を進める。自分がどこまで積んだか分からない、それほど先が見えない。見える手すりを頼りに上へ、上へと進む。どのくらい白銀の世界を進んだだろうか、ある時、次の手すりを持とうと手を伸ばした時、その手は何かを抜け、空を掴んだ。一瞬焦り、バランスを崩しそうになる。峯野はその上に持っていた椅子を積む。そして、積んだ椅子まで体を運ぶ。

「眩しい――」

青色の空に真っ赤に燃える太陽の姿があった。その椅子は白銀の世界を抜け、別世界に入っていたのだ。

 峯野は椅子に座ってその世界をまじまじと見まわす。頭上の太陽が、その世界を照らし、白銀だと思った雲は、光を浴びてクリーム色に輝き、絨毯となってこの世界に敷かれている。

 ふと誰かが自分を呼ぶ声がした。一瞬、幻聴だとおもったが、耳を澄ませて聞くと、聞き覚えのある声が、白銀の世界から自分を呼んでいる。峯野は一旦、黄金に煌く世界から白銀の世界へと戻る。少し、椅子を下ったところで浅岡の声がハッキリ聞こえた。

「峯野くん、どこー?」

 その声はだんだん近くなる。

「もう少し上だ!」

「視界が悪くてよく見えない」

「まっすぐそのまま上に――」

 そう言ったところで足が掴まれる。ビックっとし、足元を見ると、そこには薄っすらながらハニカム浅岡の顔が見えた。

「捕まえた!」

「危ないじゃないか! どうして登ってきたんだ?」

「だって――」

 一瞬、言い淀む浅岡。そこで稲妻が走り、轟音が響く。

「きゃっ――」

「とにかく話は登ってからにしよう」

「うん」


「うわぁ、綺麗」

 浅岡は椅子の背もたれの部分に手を掴みながら、太陽が照りつけるこの世界を眺めながら呟く。椅子に腰かけている峯野は、暑さに耐え切れなくなって、来ていた合羽を脱ぎ、クリーム色の絨毯に脱ぎ捨てる。合羽は絨毯に飲み込まれ、この世界からなくなる。制服のシャツは汗と湿気を吸って気持ち悪い。

「あ、ポイ捨てはいけないんだ」

「つい、無意識に――」

少しの間、二人は景色に見入っていて無言になる。峯野はふと思う。この世界にはもしかしたら自分たちしか存在しないのではないか。この幻想的な世界で浅岡と二人というのは悪くない。そう考えると、口元が緩みだらしない顔になる。

「横半分、座ってもいい?」

「う、うん」

 浅岡はスカートを抑え、よいしょと言って峯野の横に座る。何気なく椅子に置いていた峯野の手と、手の置き場に困っていた浅岡の手が重なり、刹那、ごめんといって自分の膝に置く。峯野は何となく恥ずかしくなって、正面を向いていた体を横に向ける。峯野はかつてないほどの心臓の鼓動の速さを感じていた。

「ごめんね。本当は晴れた日に登るつもりだったんだけど、峯野くんの姿見てたらどうしても今すぐ見たくて――」

「無事にここまでこれたんだし、もいいよ」

 峯野は照れ臭そうに頭を掻く。あの時は本気で心配し、ついカッとなってしまい強い口調で行ってしまったが、今となってはそんな事よりも、浅岡の顔がすぐ近くにあり、雨のにおいに混じったシャンプーの匂いと柔軟剤の匂いにドキドキしていた。

「天竺って珍しい名前だよね」

 不意に言った浅岡の言葉に、峯野の顔が少し翳る。言われ慣れた言葉だが、自分はこの名前が好きだし、この名前をくれた父も尊敬してたので大丈夫だと思ったが、その次に悪口を言われるのではないかと一瞬、身構える。しかし、浅岡の言葉から放たれたのは思いもよらない言葉だった。

「あたし、好きだな天竺って名前」

 峯野の目の端から見える彼女の横顔は微笑んでいて、左頬はほのかに朱かった。

「だってあたしの名前と峯野くんの名前足すとね、ダリアになるんだよ? 凄くない?」

 インドなど遠くの国から伝わった花には天竺の名前が付けられ、代表的なので言うと、天竺葵のゼラニウム、天竺牡丹のダリア、天竺豆のソラマメがある。峯野の父も、ゼラニウムのテンジクアオイから子供たちに名前を付けた。

「あたしね、花言葉調べるの趣味なんだ」

 浅岡は峯野の肩にもたれかかり、煌く世界を見つめながら続ける。

「こういう時の気持ちなんて言うんだろう、幻想的な雲の上の世界で好きな人と二人っきりでいられて――」

 峯野は浅岡の方を振り返る。浅岡は、背もたれが消えたことに一瞬、身体をびくつかせるが、峯野の様子に気付き、浅岡も峯野の方を向く。

 峯野の目にあるのは赤いゼラニウムのように可憐な少女。名前は牡丹なのにゼラニウムとはいかにと思ったが、牡丹の花言葉を思い出す。その言葉はまさに今の彼女を表現していた。

「俺はこの気持ちなんだか分かるよ」

 峯野はかつて父に言われた宿題を思い出す。その花言葉は今この気持ちを表すのにぴったりだと思えた。

「「君ありて幸せ」」

 重なった言葉は風に乗ってこの世界を浮遊し、その空に輝く赤いダリアの花の輝きは、顔を重ねる二人の姿を照らすのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天竺葵 結城 佐和 @yuki_sawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ