「そうですかそうですか。今日はアルバイトの日ですか」

 アリシアが残念そうに呟いて、わたしを見た。いつものように彼女の傍らには、飲みかけのコーラのペットボトルが置かれている。アリシアはそれを指先でつついていた。なんだかちょっと、恨みがましい感じで。

「仕方がないでしょ。わたしだって生活がかかっているんだから」

「……You were playing,weren`t you?」

「なっ、馬鹿じゃないのっ?」

 思わせぶりに唇に触れるアリシアに、わたしは耳まで真っ赤になりながら、床に置いてあった帆布の手提げを手に取った。

「じゃあ、行ってきます」

 玄関から振り返ると、アリシアは頬を膨らませていた。熱も下がり、帰省も終え、せっかく部活が休みなのだからどこかに遊びに行こう、という誘いを、わたしは無下に断ったのである。

 わたしは小さくため息をついて、履きかけていた靴を脱ぎ、部屋の中に戻った。

 アリシアは床で膝を抱えて座ったまま、わたしを上目遣いに見ていた。彼女が手にしたコーラのペットボトルが、やけに大きく見えた。

「あーちゃん」

「……なんですか」

 わたしは膝をついて、アリシアの頭を自分の胸に、そっと引き寄せた。

「機嫌直して。なるべく早く帰ってくるから。ね?」

「……うん」

 アリシアの頭皮からはお菓子のような匂いがした。わたしは甘い密に吸い寄せられる虫のように、彼女の頭頂部に鼻を埋めた。


 冷房の効いたバスから降りると、夏の陽射しが燦々と降り注いでいて、目が眩むようだった。アスファルトの焼ける匂いがした。土手の向こうの川の水が、きらきらと光っている。

 更衣室で着替え、棟に入ると、なぜか皆沈痛な面持ちで、肌がヒリヒリとするような空気が流れていた。

 いったい何があったのだろう。わたしは近くにいた看護師の薫さんに、どうかしたんですか、と訊ねた。

「うん、ちょっと」

 視線を逸らして言葉を濁されてしまう。ちょっと。そう言われても。わたしは仕方なく自分の仕事をするためにリネン庫に向かった。

 中には桃さんがいた。

 入り口に背を向けていたけれど、彼女の肩が小さく震えているのをわたしは見逃さなかった。

「……桃さん?」

「桜ちゃん? ごめん、あの」

 背を向けたまま、顔を拭っている。

「泣いている、んですか」

「……雪ちゃんが」

「え?」

「昨日の夜亡くなったの」

 雪ちゃん。

 レスピレーターに繋がれていた雪ちゃん。

 気管を切開されていて、喋ることができなかった雪ちゃん。

 自分の意思では指先すら動かせなかった雪ちゃん。

「まだ、3歳なのにね」

 わたしはうまく呼吸ができなくて、手足が痺れていた。そうだった。思い出した。


 人って、死ぬんだ。


 わたしはいつものように、桃さんの横で衣類の整理を始めた。桃さんがちらりとわたしを見た。

 そして、わたしの顔を見て、表情を凍りつかせていた。

 桃さんはわたしにいったい、何を見たんだろう。

 わからない。わからなかった。けれど、やがて桃さんも衣類の整理を始めた。


 仕事が終わり、着替えて外に出ると、ちょうど真っ赤な夕日が沈もうとしているところだった。蝉が鳴いていた。草いきれがむっと立ち込める、真夏の夕暮れだった。

「……ちょっといいかな」

 バス停に向かおうとするわたしに、桃さんが声をかけた。

「このあと少し……時間ある?」

 振り返り、首をかしげる。ええと……。

「良かったら付き合って欲しいの」

 ちらりとアリシアの顔が浮かんだ。少しむくれて、じっとわたしを見ていた。

「いいですけど」

 桃さんはほんのわずかに表情を崩して、小さく笑って見せた。良かった、ちょっと待っててね。そう言ってスマホを取り出し、どこかに電話をかけている。桃さんはしばらく喋り続けていた。

「暑いから、コンビニ行かない? すぐに来てくれるって」

 星川の郷のすぐ近くのニアマートに向かう。そういえばこのコンビニも天寿傘下の一つだったはずだ。他の街ではあまり見かけない。

 わたしは桃さんの背中を見つめながら、いったいどこに電話をかけていて、誰が迎えに来るのだろう、と考えていた。

 雑誌コーナーでペラペラと情報誌を眺めていると、桃さんが飲み物は何がいい、と訊ねた。

「コーラがいいです」

「桜ちゃんはいつもコーラね」

 ……そうだろうか。わたしにとっては、コーラといえばアリシアなんだけど。人によっては違うのだろうか。とは言ってもそもそも桃さんは、アリシアとは面識がないのだ。

 桃さんは再び飲料水売り場に戻ると、コーラのペットボトルを籠の中に入れた。籠の中にはお菓子がいくつかと、ミルクティー、そしてスポーツドリンクが入っていた。

 スポーツドリンク。

 それはきっと、これから来る誰かのためのもの。そう思うと、心の中に何か嫌なモヤモヤが広がっていく。それは腐敗した汚泥のように、ゆっくりと、そして確実にわたしを腐らせていった。

 桃さんはわたしの視線には気づかずに、カバンからスマホを取り出して、耳に当てている。何か喋っている。

「もう着くって。お金払って来ちゃうね」

 コンビニの駐車場にはSUVの白い車が止まっていた。わたしたちが出てくると、車から一人の男がおりてきた。

「紹介するね。こっちはとおる。わたしの恋人で、消防士さんです。ごめんね、夜勤明けだったのに」

「ううん。大丈夫。仮眠はとったから」

「で、こちらが松木桜ちゃん」

「はじめまして」

 わたしは小さく頭を下げた。

「どうも、宮部融です。よろしくね。じゃあ、行こうか」

 融さんが運転席に、桃さんが助手席に乗り込んだ。わたしは少しためらってから後部座席に乗った。窓を小さく開けて、気づかれないようにため息をついた。

 車は星川沿いの道を遡っていく。あたりはどんどん薄暗くなっていく。わたしはコーラのペットボトルを両手で持ちながら、アリシアのことを考えていた。桃さんに誘われてのこのことついてきたけれど、こんなことなら断って帰ればよかった。

 桃さんは車内でずっと喋り続けていた。無理をしているのが丸わかりで、痛々しいくらいだった。融さんも何かを感じたのだろう、ときどきバックミラー越しにわたしを見た。わたしは何も言わなかった。桃さんに声をかけられてもあまり返事をしなかった。

 車が山道にさしかかる。ずいぶん遠くまで来てしまった。街灯もまばらで、すでにここがどこなのか、わたしにはわからなくなっていた。いったいどこまでいくつもりなのだろう。段々心細くなってきた、そのときだった。

 不意に林の中で車が止まった。外は真っ暗だった。

「融、悪いけど……わたしと桜ちゃんの二人で行ってきていいかな」

「え? なんで?」

「なんででも。留守番お願いね。行こう、桜ちゃん」

 わたしは桃さんに手を引かれて砂利道を歩き出した。光源は桃さんが手にした懐中電灯の明かりだけだった。少し先の地面が丸く照らされている。ただそれだけだった。林の中の闇から、誰かがじっと見つめている気がした。わたしはその視線を確かに感じていた。怖かった。心臓がドキドキした。きっと手には汗をかいていたと思うけれど、それを気にする余裕もわたしにはなかった。

「ねえ、桃さん……どこに行くの?」

「いいところ。大丈夫。わたしが一緒にいるから」

 どのくらい歩いただろう。小さく水の流れる音が聞こえていた。そして、


 桃さんが懐中電灯の明かりを消した。


「きゃっ」

 わたしは驚いて、桃さんの背中にしがみついた。

「大丈夫よ。だから、静かにしててね」

 桃さんがわたしの手を引く。

 わたしは思いの外強いその手に、戸惑いながら、それでも抗えなくて。ゆっくりと手を引かれて歩いた。一歩。……一歩。足先で地面を確かめるように。

 不意に林が途切れた。

 目の前に沢が広がっていた。満天の星空と、そして、小川の上には、

「……蛍」

 無数の蛍が飛び交っていた。

「ごめんね。怖かった?」

 桃さんが、優しい声で囁く。

「座ろうか」

 沢辺の大きな石に並んで腰を掛ける。青白い光が明滅しながら、空に浮かんでいる。それが星なのか、蛍の火なのか、よくわからなくなってくる。それは幻想的で、どこかもの悲しい光景だった。

「今日ね、あなたの顔を見たとき、驚いたの」

 桃さんは蛍の光を見つめていた。

「あなたがあんな顔をするなんて、思ってなかった。覚えてる? あなた」

 桃さんが視線をわたしに向けた。


「笑ったのよ」

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