第三階層

Assassin in the dark.

Scene.53

 Assassin in the dark.


 地下街の第三階層、そこは立ち入りが許可されているこの街の最深部。

 鉄と埃の濃い匂いが充満する、錆び付いた地下街。

 広い通路の両脇に薄汚れた店々が並ぶこの場所を“旧文明の遺産”と呼ぶ者も居れば、“前時代の公害”と呼ぶ者も居る。華やかだった頃の面影は、ネオンの灯らない看板の、埃にくすんだ鮮やかさから見て取れた。しかし、今は忘れ去られた過去の街。不気味なくらい、静かな場所。

 水銀灯の光が届かない暗がりから突如として異形の怪物が溢れ出たとしても、誰も不思議には思わないだろう。

 この地下街に一軒だけネオンの灯ったリキッド・ルージュというクラブの看板があった。

 真っ赤なネオンの光を見上げて、溜息をひとつ。イルゼがエントランスのドアを引く。僅かな光に照らされた、客も音楽も喧騒も居ない無人のダンスホール。砕け散った無残なミラーボールの下に、ビールの空き缶や、ウィスキーのボトルなど、お祭り騒ぎの痕跡がそこら中で虚しく散らかっている。

 その沈黙の中央、オレンジのモードコートを着た少女が佇んでいた。何も言わず、白兎に背を向けたまま。

「イルゼさん」

「何の用?」

「殺し屋が用があるって言ったら、そういうことじゃないですか」

「理由は?」

「復讐ですよ。個人的な。ブラックエイプリルが起きたのが三年前。それってマッド・バニー誕生の頃ですよね」

 ――当時、勢力を伸ばしていた地下街出身のギャングがあった。名前はワイバーン。彼らは混沌とした地下街で抗争を繰り返し、多くのストリート・ギャングを捻じ伏せ、その傘下に置いた。

「その抗争の中で、ワイバーンの戦闘部隊の先頭に立っていたのがイルゼさんですよね?」

「そうだよ」

 ――そして、私たちは不相応にも地上へと這い出ようとした。浅はかな考えだった。ずっと地下に居ればよかったんだ。地上は巨大な檻で囲まれていた。羽ばたくことなんてできなかった。

「でも、抜けた。何もかも嫌になって」

「ブラック・エイプリルの時は、まだいましたよね?」

「……いたよ」

「何で、……嘘、吐いてたんですか?」

 振り向いた顔は冷たく、無表情だった。静かに、メリッサはイルゼの元へ歩み寄る。白兎の目の前に来た時、少女は右手を振り上げ、イルゼの左頬を平手打ちした。

 乾いた音がホールに響く。

 メリッサが涙の滲んだ青い瞳で、白兎を睨んだ。

「あなたが、私の両親を殺したんですか!?」

 彼女の青い瞳を、真っ赤な瞳が睨み返す。 

「知らねェーよ」

「騙してたわけですよね。力で押さえつけて。都合の良い言葉で自分を正当化して。全部知ってて!」

「くだらないだろン? 復讐なんて」

「そんなの自分勝手すぎる」

「知ったところでさ、お前に私をどうにかできんのか?」

「黙って!」

 足元に転がっていたジンの空き瓶を拾い上げて、メリッサは力任せにイルゼの頭を殴る。砕け散った透明のガラス片が、涙みたく、キラキラと輝いた。左頬を赤い血が伝う。

 怒りも、悲しみも、憎しみさえも、すべて撃ち抜いてきた。そうやって見えない場所に撥ね退けてきた。けれど、それらを受け止めることは彼女とって難しいことなのかもしれない。イルゼの真っ赤な瞳が、泣きじゃくるメリッサをただ映していた。

 そして、その向こうの、蛇の姿も。

 その女は不敵に笑って、歩み始めた。黒いハイヒールの靴音が響く。彼女に駆け寄って、啜り泣く少女を抱き留める。或いは、絡め取る。獲物を絞め殺す蛇の様に。

「久しぶりね、マッド・バニー」

「……やっぱり、あんたが絡んでたか、蛇女」

「ごめんね。全部話しちゃった。私の可愛いメリッサに」

 少し屈んで、黒衣の女はメリッサの額にそっとキスをする。

「大人しく地下で女王様気取ってればよかったのにさ。何で今更出てくるかな」

「戻りたいと思わない? あの頃に」

「そんなの忘れたよ」

「あなたの答えはいつもそうね。何もかも自分勝手に壊して、殺して、その繰り返し。空しいとは思わない?」

「自分勝手なのは、あんたもだろン?」

「だから、鷲鼻に私を焚き付けたのよね。そうして、私は椅子と金と兵隊を失った。ついでに可愛い兎ちゃんも」

「天罰ってとこじゃん」

「でも、ヒドラの首は再生するのよ。何度斬り落とされてもね。神でさえ、私を殺せない」

「大した信仰心だね。だったら私が殺してやるよ」

 クリス・ヴェクターの銃口が蛇を捉える。その瞬間、リボルバーの撃鉄が動いた。銃声と同時に、スコフィールド・リボルバーから放たれた弾丸は、イルゼの胸を撃ち抜く。血の染みが広がってゆく左胸を気にすることなく、白兎はクリス・ヴェクターのトリガーを黒衣の女に向けて絞った。その弾丸を避けるように、黒い蛇がしなやかに身を屈める。

 そして、黒いミンクのロングコートの中から、銀色のデルタエリートとヴェルディ・ピストルを抜いた。イルゼがヘブンアームズで見た、あの二丁だった。ニーナとスヴェトラが同時に吠える。一発の弾丸がイルゼの右肩に命中した。衝撃で彼女の右腕からショッキングピンクのマシンガンが転がり落ちる。マシンガンは床を滑って、黒いブーツの爪先に当たった。

 イルゼが振り返る。

 そこら中で、棹桿を引く音がした。

 沸点を迎えたダンボールには、軽快なロックナンバーが掛かり、様々な火器を手にした物騒な者たちがイルゼを取り囲む。

「さようなら、イルゼさん」

「また逢いましょう、マッド・バニー。今度はもっと素敵なパーティーを開くわ」

 黒衣の女に手を引かれて、メリッサがダンスホールのエントランスを抜ける。その後ろ姿を、兵隊たちの肩越しに見ながら、狂ったように白兎は笑った。

 吹っ切れたように口元の血を拭い、白いコートのフードを目深に被る。

 右手に悪趣味なピンク色のマシンガンを構えて。彼女の顔を流れる血と同じ緋色の瞳は、爛々と輝いていた。

「最高じゃん。絶対殺してやるよ、蛇女」


 氷の都トロイカ。

 この街は狭い。故に渦巻く因縁も濃く、複雑に絡み合っている。その縁は時に絶対に交わらない水と油でさえ、結びつけてしまうのだった。

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