第14話 マレ質と誘拐犯

 一見便利とも思える〈転移〉にもいくつか欠点があった。

 一つは転移先の位置。それが近くであれ遠くであれ、正確な座標を定めなければ発動できない。故に発動までに時間がかかる上に、一度も訪れていない場所への転移は不可能だった。

 そしてもう一つはエネルギーだ。〈転移〉を発動させるには、最低でも五つの星が必要。そのため一度転移を行うとしばらくは占星術が使えなくなる。

 ミアの腕からジャックがすり抜ける。難なく着地すると威勢良く跳ね出した。

「マレ攫いーマレ攫いーぼくをどーするつもりだー!」

 と、ジャックに騒がれても、ミアは答えられなかった。全身にまとわりつくような倦怠感。視界までもが霞んでくる。

「誘拐犯ー! 拐かしー。人でなしー……」

 だんだんと勢いが削がれ、やがて沈黙。ジャックはおずおずとミアの顔を覗き込んできた。

「……大丈夫?」

 人質に心配される誘拐犯とは情けない。ミアは力無く頷いた。

「ちょっと、疲れた、だけ、だから」

 ミアが〈転移〉したのは、街道から少し外れた木の麓だった。星騎士イオとしてネメシスに向かう際に、途中休憩をした場所だった。ベルの手前、極星の姫ミアが足を踏み入れていないはずの場所に〈転移〉することはできなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。それにここから最寄の町へ向かえばレチクルはそのすぐ先。無理を通すだけの価値はあった。

「大将なら怪我を治したり元気にすることができるよー。だからかーえーろーよー」

 それはできない。ジャックを攫って逃げた意味がなくなる。

「ベルとオルフィが無事に解放されたら、そうしましょう」

 果たしてアトラスは取引に応じるだろうか。ミアの命を盾にするよりは有効だと踏んで攫ったものの、確証はなかった。もし、アトラスが既にオルフィを手に掛けていたとしたらーーミアは悪い考えを振り払った。

 ミア=リコ個人の命には興味がない、とアトラスは言った。しかし、極星の行方がわからなくなるのは困るはずだ。次の姫が選ばれるまで〈予言〉が成就されなくなる。だから、ミアが逃げ続けている限りベルとオルフィは大切な人質だ。傷つけたりはしない。たぶん。

「これからどーするー?」

「とりあえず、クルサに行くわ」

クルサを経由して港町レチクル。そして赤海を目指す。ジャックには悪いが、ミアはとことんアトラスを手こずらせるつもりだった。追いかけっこを続けていたら、いずれミアは極星を抱いたまま天星宮に連れ戻される。それはアトラスが最も避けなくてはならない事態だ。

〈予言〉の成就を目的とするなら、戦うにせよそうでないにせよ、ひとまずハストラングの城まで行かせるのが先決。最初にミアが提示した妥協案をアトラスに呑ませることができたら、ミアの勝ちだ。

「あなた、〈転移〉はできないのでしょう? アトラスとは違ってこちらの地理に詳しくもないみたいだし、今どこにいるのかもわからない」

「ぎくっ」

 ジャックは正直に身を竦ませた。

「あまり強要はしたくないけど、こうなったからには私と一緒に行くのはあなたにとってもいいことだと思うの。迷子になる心配もなくなるし、私をちゃんと見張っておかないと他のマレに攫われちゃうかもしれないわ」

 ジャックは「むむむぅ」と唸り声をあげて悩んだ末、探るような視線を送る。

「……スープにしない?」

「しないわ」

「カボチャパイには?」

「私、アップルパイの方が好きよ」

「じゃ、いーよー」

 利害が一致するなり、てむてむと跳ね寄るカボチャ。人質と誘拐犯にしては和やかな気がしないでもないが、ミアは深く考えないようにした。



 道に迷うこともなく、日が傾きかけた頃には目的の町クルサに辿り着いた。クルサの先にある関所を通れば港町レチクルだ。

入口に衛兵が立っているものの、誰かを探してる様子はない。ミアは堂々と正門からクルサに入った。着ている服は簡素だし、黒髪はそんなに珍しい髪でもない。王族の肖像画が出回っていたとしても極星の姫であるミアは例外だ。マレへの情報流出を防ぐために顔はおろか名ですら伏せられている。

それに、極星の姫が天星宮を離れて町中を闊歩しているはずがない、という先入観がある。目立たないよう気をつければ大丈夫だというのがミアの見解だった。

危惧していた宿もあっさり見つかった。天星宮の星読師と名乗れば勝手に事情を察してくれる。見習いが先輩星読師のおつかいに駆り出されるのはよくあることだった。

「若い娘さん一人で旅だなんて大変だねえ」

「これも修行ですから」

愛想良く応じてミアは鍵を受け取った。笑顔が多少引きつったものになったのは致し方ないが。

階段をのぼるにも一歩ごとに痛みがはしる。ともすればしかめそうになるのを堪えて、ミアは二階の客室へたどり着いた。

充てがわれた部屋は天星宮の半分の広さもなかった。衣装部屋だってこれよりはもう少し広い。一番高い部屋を選んだにもかかわらず、だ。

「今、狭いって思ってなーい?」

背中に負った袋の口からジャックが顔を出す。

「お姫様の部屋を基準にしたら駄目だよー。みんな君ほど大切にはされていないんだからねー。個室に泊まれるだけいいものだよー」

思っていたよりも自分は恵まれているようだ。ジャックの言葉を裏付けるかのように足が痛みを訴える。

ミアは荷物を下ろすと寝台に腰掛けた。倒れ込んで寝てしまいたいところだが、やっておくことがある。慣れない長靴を外して靴下を慎重に脱げば「きゃー」とジャックが小さく悲鳴をあげた。

「痛くないの、これ」

皮がむけている上に血も滲んでいるのだから痛いに決まっている。

ミアは自分の足を見て固まった。マレと戦うどころか一日歩いただけで勝手に負傷するこの身体。予想以上の軟弱さだった。比較にならないとわかっていながらもイオを思い浮かべてしまう。星騎士イオならば、彼だったのなら、こんな擦り傷を負うことはなく、またこの程度の怪我に怯みもしなかった。

「大将なら治せるよー」

カボチャが空恐ろしいことを提案してくる。無論、却下だ。何のために怪我をおしてまで逃げてきたのかわかったものじゃない。

「治癒くらいなら私もできるわ」

ミアは湿らせた布で患部の血や汚れをぬぐってから、ホロスコープを起動させた。連続転移の疲労は肉体だけでなく、抱えている星にも及んでいた。一際輝いている星は念のため残しておいて、小さな星を対応するサインに納める。意識を足に集中させれば加速度的に増した自然治癒能力が擦過した皮膚を再生させた。

「おー」

新しい皮膚で覆われた足に歓声を上げるジャック。普段の生活では滅多に使わない術なので不安もあったが上手くいったようだ。

「これでひとまずはいいわね。でも明日もたくさん歩くから……」

いくら見事な占星術で再生させようと元は歩き慣れない柔肌である。港町に辿り着くまでにあと何回割けることやら。

「大丈夫だよー。そのうち皮膚が厚くなって強くなるからー」

「そうなの?」

「そうなのだー」

意外に博識なカボチャが跳ねながら「ふくらはぎも、よく揉んでおいた方がいいよー」とご親切にも忠告。ミアは足に手を伸ばした。思いのほか足の肉は張っていて、固かった。

自分の身体を自分で面倒見る。宮にいた時には考えもしなかったことだった。それをミアは嫌だとは思わなかった。

 食事は用心のため宿のものではなく、露天商から調達した。少なくとも毒を盛る暇はないはずだ。パンに野菜や炙った肉を挟んだもので腹ごしらえ。地図で赤海までの道のりを確認したり着替えたりすればもう夜だ。

 明日に向けて他にやるべきことはないか。ベッドに腰掛けて考えていたら、やけに協力的な人質が寄って来た。ジャックは頭に乗せた果実を誇示するように大きく跳ねる。

「リンゴはお好きー?」

 頭、つまりヘタの部分に乗っていたのは、赤々とよく熟れたリンゴだった。

「好きよ」

「どーぞ」

「でも皮が剥いてないわ。リンゴって赤いのね」

「えっ……っ!」

 がびーん、と。あまりにもわかりやすく衝撃を受けた反応を示すジャックに、ミアは小さく吹き出した。

「冗談よ。それくらいなら私も知ってるわ」

 礼を言ってリンゴを受け取る。

「……城下町に行って、最初にしたのはリンゴを丸かじりすることだったから」

 深窓の姫君だなんてとんでもない。ミアは歴代の中でも群を抜いてお転婆な極星の姫だ。自由に動ける身体を手に入れて大人しく閉じこもっていられるわけがなかった。

「やってみたかったの。普通の人は皮ごと食べるって、知ってはいたけど、やらせてはもらえなかったから」

「美味しかったー?」

 それはどうだろう。初めての王宮の外、初めてのリンゴ丸かじり。全てが美しく、優しく、甘ければ、どんなに絵になることか。ミアは苦笑した。

「楽しかったけれど、酸っぱかったわ。エヴァが作ってくれるアップルパイの方がずっと美味しかった」

 リンゴも外の世界も、思い描いていたほど、甘くはなかった。

 何を得るにしたって代価がいる。普通の人は大して甘くもないリンゴを得るためにも、汗水垂らして働かなくてはならないのだ。それに比べて自分は、何をしたわけでもないのにいつも最良のものが用意されていた。

「だからきっと、私は特別なんだって思ってた」

 売値と買値が同じ価値を持つことぐらい、世間知らずなミアでも知っていた。天星宮での何不自由ない暮らしの代償は、自由だ。幼い頃はまだ良かった。外に出られないことに対する不満を露わにして、好き勝手に駄々をこねることができた。しかし、自らの宿命を知ってからは不満を口にすることさえできなくなってしまった。そのために、自分は姫として扱われているのだと、悟ってしまえば。

「お父様は今頃お怒りでしょうね。マレに攫われておめおめ帰ってきたと思ったら、今度は脱走ですもの。追手からも逃げ切ってしまったわ」

 ミアは手の中のリンゴを弄んだ。あの時は誰にも気づかれなかったし、子供の冒険心で済んだ。だが、今は違う。王国を危機にさらし振り回してでもミアは我を通そうとしている。

「極星を抱く者として、いついかなる時も誇り高くあるように言われてきたのに」

「うわー。酷い父親だねー」

「立派な国王陛下よ」やや憮然としてミアは言った「悪く言わないで」

「でも父親としては立派じゃないよー」

 跳ねているだけの人畜無害なカボチャかと思いきや、ジャックはその愉快な姿とは裏腹に毒舌だった。

「マレでも自分の子供を殺しちゃう奴はいるけど、他人任せにはしないよー。ましてや、殺される側に納得して死んでもらおうなんて、都合のいいことは考えないねー」

 恨まれるのならとことんまで。他者を蹴落とし、ねじ伏せーーそうした戦乱の果てに派閥を築いてきたマレだからこその思考だ。

 名誉だの大義だのは殺す側の言い分に過ぎない。殺される側は、そんなこと関係ないのだ。

「……納得」

 ミアは呟いた。今まで考えもしなかったことだった。果たして自分はこの宿命を納得して受け入れているのか。

「あれ? 納得してないのー?」

 ミアは小さく首を横に振った。理解し納得する間もなく極星の姫になった。極星を第一に考えるのが生まれた時から当然で、疑いもしなかった。しかしそれは必ずしも納得とは限らない。むしろそれは、あきらめだ。

「無理やり極星を守らせてんだー。やっぱり酷い奴だー」

「違うわ。無理やりなんて、されてない」

 ただ、他に選択肢がないだけだった。

 刺客を放たれた時、ベルは目を剥いたが、ミアはさほど驚かなかった。

 ああやっぱり、と思った。カイン陛下はどこまでも公正で厳格な国王だった。彼は優劣をつけない。大勢のむこの民が苦しむのなら、一人の人間を切り捨てることをいとわない。たとえそれが、自分の妻や娘であっても。

「立場があるもの、仕方ないわ」

 自分に言い聞かせるように、ミアは口にした。

「仕方ないことなのかなー」

「ええ、そうよ。いくら国王陛下だとしても、極星にいつまでも北の大陸にとどまるように命令することはできないもの」

 でも、極星を宿した娘を天星宮に押し込めて、守護者に仕立て上げることはできるのだ。

 頭に浮かんだ考えをミアは振り払った。恐ろしい考えのような気がした。目を逸らしたミアを、ジャックは覗き込んだ。

「小さなお姫様は、それでいいの?」

 ジャックのくりぬかれた目の中は真っ暗。眼球も意思の光も見いだせないはずの目にしかし、ミアは既視感を覚えた。

 よくなかった。全く。

「……私一人が逃げ出すわけにはいかないわ」

 ミアが望んで極星の姫になったわけではないのと同じように、父もまた生まれながら定められた国王の座に縛られている。自由にできないことは、わかっていた。国よりも娘である自分を優先してほしいとは言えなかった。代々の姫は命をとして極星を守ってきた。マレに攫われたら自ら命を絶たなければならないことも、救い出してくれる王子様などいないことも、ミアは理解していた。もう、ずっと前から。

「でも」

 いや、だからこそ。ミアは俯いた。閉ざした瞼の裏にじわじわと溜まっていたものが、頬を伝い落ちる。一度溢れてしまえば止まらなかった。涙も、嗚咽も、痛みも。

「助かった時くらい、喜んでくれたって……っ!」

 本当は、ミアは悲しかった。切なかった。寂しかった。

 極星よりも大切にしてほしいとは言わない。たった一言でいい、安堵の表情を見せて「良かった」と言ってほしかった。微笑みかけてほしかった。

 しかし、カイン国王が真っ先に迎え、労ったのはミアではなくイオだった。自分の娘が無事に帰ってきたことよりも、極星が奪回されたことを喜んだのだ。

 あの夜会でイオが国王に問いかけたのは、最後の賭けだった。無論、一番はもちろん極星だろうと予想はしていた。でも、一番とまではいかなくても、付随として、自分のことも挙げてくださるのではないか、と期待していた。極星の姫が生きて帰った例は非常に稀だ。よくぞ生かして連れ戻した、と。

 そんな淡い期待は、あっけなく退けられた。

 賛辞を贈られる星騎士イオの中で、ミアは悲鳴をあげた。一体何のために、赤海を越えてハストラングを倒したのか。イオの片腕を犠牲にしてまで望まれない姫を救い出した意味は、一体何だったのだろう。

(陛下、私はそんなに至らない娘でしょうか?)

 たしかに歴代の極星の姫と比べたら優秀ではない方かもしれない。それでも、ミアは生まれた時から定めに従い、極星に一生を捧げてきた。いざという時に死ぬ覚悟もあった。なのに無事帰ってきた娘に、会いにすら来てくれないとはあんまりだ。

 ミアは顔を覆った。絞り出すように呻いた。

「イオに、会いたい」

 眠れる騎士の覚醒が、極星の姫の死を意味していても構わない。マレに捕らえられてもいい。イオにもう一度会えるなら、何でもよかった。

 ミアに、宿命に挑む力として星騎士を託したのは『イオ』だ。彼だけがミアの存在を肯定してくれた。七年前に一度会っただけの、本当の名前すら知らない星騎士。それがミアにとって、唯一の希望であり、生きる力だった。そんな『イオ』の忘れ形見である星騎士すら奪われてしまった。ミアは一人だった。

 不安と寂しさと、こんなに求めているのに来てくれないことへの恨めしさで胸がいっぱいになる。嗚咽混じりに、ミアはか細い声で呼んだ。

「……い、お……っ!」

 どうして消えてしまったのだろう。自分を置いて。



「はい、どーぞ」

 散々泣いて、嗚咽も納まってきた頃にジャックは布を差し出した。受け取った布を目に当てて、ミアは急に恥ずかしくなってきた。まるで子供のように泣き喚いてしまった。人前では弱さを見せないよう重々教えられてきたというのに。極星の姫としても王家の者としてもあるまじき失態だ。

「いいんじゃないのー?」ジャックは身体を左右に傾けた「ぼく、人間じゃないもーん」

「……一理あるわね」

 ミアは小さく笑った。異変が起きたのはその時だった。

「あ、大将」

 ジャックが小さく呟いた。彼の身体の中──空洞と思しき闇に赤い光が宿る。

「どうしたの?」

『よう、極星の姫』

 ミアの手からリンゴが零れ落ちる。低く抑揚のない声はアトラスのものだった。

『落ち着け。ジャックを中継点にしただけだ。こうでもしないとお前、話に応じねえだろうが』

 鼓動が早まる。しかしアトラスとの交渉を避けては通れないことは重々承知している。賽を投げたのは自分だ。ミアは意を決して口を開いた。

「話って、どんな?」

『考えたんだが、やはりカボチャ一つに対してベネ二人は正当な取引とは言い難い』

「交渉をするつもりなら、ベルとオルフィの無事を確認させて。話はそれからよ」

 ミアはベッドに座り直した。精一杯ふてぶてしい態度を取ったつもりだった。

『姫様!』

 途端、切羽詰まったベルの声が、ジャックから飛び出た。

「ベル、大丈夫なの? 怪我してない?」

『私は平気ですが……姫様こそ、一体何があったんです? どうしてオルフィが』

『状況説明を求めている場合じゃありません』

 オルフィの声が遮る。相変わらず冷めたトーンだった。

『とにかく姫様、こいつの要求を呑んではいけません。ハストラングと戦うなんて無茶です』

「でも、ベル……」

『私達なら大丈夫です。これでも星読師ですから。それよりも姫様は星騎士奪回に全力をそそ、』

『不本意ながら僕も同意見です。自分の不始末は自分で解決します』

 オルフィは突き放すような物言いだが、言わんとしていることはベルと変わりない。自分を見捨てて進め、と。困惑するミアにアトラスが先を促す。

『納得したのなら、交渉に入りたいんだが?』

「声だけ変えている可能性もあるわ」

『お前、』

『ちょっと、話している最中に邪魔しないでよ!』

 呆れを多分に含んだアトラスを押しのけ、ベルの声が響く。

『あなたの話が無駄に長いだけです。前から思っていたのですが、聞いていて疲れます。少しは要点を簡潔に言うように心掛けたらどうです?』

『私と姫様の会話に割り込んでおいて、何を言っているの? だいたい、あなたがあっさり捕まるからこんな面倒なことになったんでしょう。まったく、情けない。姉弟子として恥ずかしいわ』

『言いそびれていましたがもう一つ、その耳障りな金切り声を出すのも控えてほしいですね。僕の姉弟子を自称するなら』

 際限なく続く嫌みの応酬を伴奏にミアとジャックは閉口して顔を見合わせた。アトラスのため息が、やけに大きく聞こえた。

『こんな間抜けな会話をか?』

「…………そうね」

 アトラスが何か操作をしたのだろう。二人の口論が途切れ、聞こえなくなった。

『さっきも言ったが、マレ一人にベネ一人の交換が妥当かと』

「二人を無傷で解放して。そうしたらカボチャさんは無事に返すし、ハストラングにも会うわ」

 アトラスの提案をミアはにべもなく突っぱねた。

「私、他人から奪ったものを平然と利用する人は嫌いよ。だから極星欲しさに私達を攫うマレは嫌い。あなたなんて特に嫌い」

『話させてやったのにもう人質がいることを忘れたのか? 取引に個人的感情を挟むな』

「脅しても無駄よ。こっちにだって人質がいるんですから」

「いるのだー」

 後押しするかのようにジャックがベッドの上で跳ねた。

『……ジャック、人質が誘拐犯と一緒になってはしゃぐな』

 内側からの指摘に、ジャックは大人しくなった。今になって自分の立場を思い出したらしい。

「大嫌いなあなたと一緒に、嫌いなマレで私を攫ったハストラングに会おうって言うの。これはかなりの譲歩よ」

『大公より嫌われるとはな』

「不服?」

『いや、光栄だ』

 アトラスが微かに笑う気配がした。

『つまり毛嫌いする俺と一緒に行動しなくてはならない精神的苦痛も加味しろ、ということか』

「そういうことよ」

 本人に向かって酷い言い種だが、アトラスが気にする素振りはなかった。むしろ愉しげだった。互いが気に食わないという点で両者は見事に一致していた。

「あなたの返答は?」

『呑んでやってもいいが、条件がある』

 ミアは身構えた。ハストラングと戦う約束はできない。向こうが望んでいたとしても、応じる気はなかった。

『俺が押さえている人質二人を解放するのは構わないが、同行は認めない。天星宮に帰せ』

 ミアは首を傾げた。わざわざ念を押さなくても、ベルとオルフィをネメシスに連れて行く気はなかった。できない、と言った方が正しい。

 マレフィックの沈む赤海には呪いがあり、その影響を最も受けているのが、かの島だ。 天星宮に張り巡らせた結界とは違い、ベネの力を弱らせる効果はない。しかしマレフィックの光を浴び続けた星は赤く染まり、マレと化すのだ。マレフィックを胸に抱くことができない人間にとってそれは、死を意味する。

 だから、アトラスに言われずともミアは赤海の手前でベルとは別れるつもりだった。天星宮の追っ手も赤海を越えることはできない。一人なのは非常に心細いが、背後を気にしなくてすむ分ずっと動きやすくはなる。

「どうして?」

『荷物はできるだけ軽くしておきたい。一刻も早く』

 遠巻きに誰かの金切り声が聞こえた。たぶん、ベルが文句を言ったのだろう。しかしアトラスはそんなことはおくびにも出さずに後ろの声を遮断した。

『これ以上の譲歩はしない。今、選べ』

「確認したいことがいくつかあるわ。天星宮に帰せと言うけど、具体的にはどうやって? その様子だとベルは納得していないようだけど。あとハストラングの城に行くまで──」

 部屋の扉を叩く音に、ミアは言葉を途中で切った。

『……来客か』

「そのようね。宿代はちゃんと払ったはずだけど、足りなかったのかしら?」

『夜中に押しかけて追加料金催促する宿屋があるか』

 言われてみればたしかにそうだ。ミアはホロスコープを起動した。

『待て』

「いきなり攻撃したりしないわ」

『状況の把握が先だ。それまで動くな』ミアに釘を差し『ジャック、探索範囲を拡大しろ。宿屋周辺に反応はあるか?』

 忠実な部下の行動は早かった。威勢良く返事して規則的に跳ね出した。

「ただ今調査中。しばらくお待ちくださーい」

『早くしろ』

「あったよー」

 のん気な声で恐ろしいことを告げる。

「どのくらい……?」

「部屋の前にひとりー、外にふたりーの、全部でさーんにーん」

 少ない。それ以前に三人が追っ手なのかも怪しかった。ここは町中だ。外の二人はただの通りすがり。部屋の前の一人は宿屋に泊まる客かもしれない。甘い考えはアトラスに打ち砕かれた。

『追っ手だな』

「でも、偶然かも」

『偶然夜中に起きて不意に散歩したくなって町中を徘徊していたら思いがけず宿屋付近でたまたまもう一人この夜中に歩き回っていた不審者と遭遇したのか』

「うっ……」

『ないとは言い切れねえが、俺なら天文学的な確率にすがるより脱出の方法を探す』

 扉を再びノックする音。ミアはベッドの脇に置いた荷物を自分のそばに寄せた。

『転移でどこかに飛べるか?』

「天星宮になら」

 アトラスは押し黙った。失望されてもミアにはどうすることもできない。転移には座標の設定が必須。しかし座標をいくつも正確に覚え続けることは熟練の星導師でさえ難しいことだ。数値化できない上に記録することもできないから感覚で覚える他ない。それは夜空で一度見つけた星を目隠しした状態で再び指差すようなものだった。

『よりにもよってそこか』

「一番安全な場所を覚えたつもりだけど」

 今となっては向かうにも覚悟を伴う場所だ。天星宮に戻るのは最後の手段。そして今はまだ、その時ではない。

『お前、今どこにいる』

 反射的に町名を言いそうになった口をミアは押さえた。マレに助けを求めようとした自分が信じられない。

「これ以上、あなたの取引の材料にはさせないわ」

『マレかもしれねえ。むしろそっちの可能性の方が高い』

 脅しだとすれば陳腐だ。ミアは余計に腹が立った。自分はたしかに弱虫だが、マレに怯えて天星宮に閉じこもるような姫ではない。

「あら、じゃあ案内してもらえるわね。好都合だわ」

『正気で言ってるのか』

「私にとっては、あなたも外にいる得体の知れない人も一緒よ」

 啖呵を切ったミア。しかし内心は今すぐにでも逃げ出したかった。イオを返せと悲劇の姫よろしくただ泣いていたかった。アトラスへの意地が、今のミアを辛うじて支えていた。

『ジャック、お前は今どこにいる』

「卑怯よ、そんなの」

『知るか』ミアの抗議もものともせずに『ジャック、答えろ』

 ミアはジャックを睨んだ。主と誘拐犯の間に入る羽目になった哀れなカボチャは、ミアを見つめることしばし。意外に決断は早かった。

「クルサの宿屋だよー」

「裏切りものっ」

 そもそも味方ではないのだが、ミアは恨みがましげに言った。

『わかった。そっちへ行く』

「なるべく早くねー」

「来ないで。あなたに助けてもらう義理は」

『勘違いするな。俺はマレ、お前はベネで極星の姫。お互いの目的達成のために一時的に手を組むだけで、敵同士であることは変わりない』

 また、だ。ミアは自分の中にある怒りを知覚した。まるで師であるかのようにたしなめてくるアトラスに反発を覚える。

 何度目かもわからないノックがせかしてきた。乱暴ではないが執拗に。アトラスにすがるか、逃げるか、それとも──ミアは半ば開き直った。

「どなた?」

『馬鹿っ』

 アトラスの舌打ちを最後にジャックの中から光が消える。鍵を掛けていたはずの扉が開かれたのはちょうどその時だった。

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