第31話 夕刻の女風呂

 一方その頃。

 隣の女風呂の方でも、生徒たちがかしましくお喋りしていた。かと思えば声を潜め、巨大モンスターの噂について語り合う娘もいた。


 明依は浴場の隅っこで、口元まで湯船に付けてぶくぶくとしていた。彼女の周りには穂乃羽しかいない。

「はぁ……」

 ぶくぶくを止め、天井に向かってため息を漏らす。緊張がほぐれたとも、憂鬱ゆうつ》が漏れたとも聞こえる声だった。


「五十万なんてウチに払える金じゃないよ。あれ、立派な脅迫だよ」

「ええ……」

「自分勝手すぎるでしょ重政。なにが『下位の者の犠牲によってすすぐ』よ。いつの時代の話だってーの」

「ええ……」

「今回の騒ぎでしばらくエリュシオンには入れそうにないし。ホント、入部したばかりなのに踏んだり蹴ったりだわ。とりあえず、おと……永慈君が払うって言っちゃったから、どうにかして切り抜ける方法を考えないと」

「ええ……」

「タマネギを切るときは割り箸をくわえるといいわよ」

「ええ……」

 明らかにうわの空の親友を、明依は心配そうに見た。


 穂乃羽は先ほどからずっと、壁に寄りかかってうつむいていた。大和撫子と皆が口を揃える美しい顔と艶やかな黒髪から、水滴がぽたりぽたりと落ちている。同性がうらやむ細身の身体が半透明の湯の中で揺らめき、物憂げな表情、仕草と相まって、近寄りがたい色気をかもし出している。実際、彼女の横顔に魅了されたECEメンバーの何人かがうっとりと遠巻きに眺めていた。

 明依は、親友の憂鬱に心当たりがあった。


「ねえ、穂乃羽。もしかして、慧と会ってた?」

「……!」


 穂乃羽の肩が緊張する。明依は彼女のすぐ隣に寄り添い、声を潜めた。

「時間はきっちり守る穂乃羽が、どうして私たちよりも遅れたか気になってたの。お父さんから聞いたよ。あのあと、焦ったみたいにどこかへ駆け出したって」

「……ごめんなさい。明依ちゃん」

「気にしないで。むしろ私の方が謝りたいくらい。あの不良弟を心配してくれたんでしょ? ホント、あいつには勿体ないわ。まあ、姉としては穂乃羽が弟とくっついてくれたら安心は安心だけど」

 あけすけな物言いに、穂乃羽はさらに深くうつむいた。湯あたりしたように頬と耳先が赤くなっている。


「偶然、だったんです」

 ぽつりと彼女はつぶやいた。

「林の中を進むあの人たちの一行を見つけて。一番後ろに慧君が歩いていて。そのときの彼の表情がいつもと違って見えたから、居ても立ってもいられなくて」

「それで、話はできたの?」

「いいえ。私に気付いてはくれたのですが、『付いてくるな』と言われて……」

「あの野郎」

「明依ちゃん。違うんですよ。慧君は、きっとあの戦いに巻き込まれないように気を遣ってくれたんです。だから」

「もう。まったく穂乃羽は、昔から慧には甘いんだから――ん?」


 そこで明依がふと気付く。


「あの戦いって、もしかして見てたの?」

「はい。対岸から」

 どうしても気になって後を追いかけたのだ、と穂乃羽は言った。

「遠目でしたけど、慧君も戦っているのが見えました。その、こう表現してよいのかわからないのですが……とても、生き生きしているように見えました」

「あのバカ野郎」

「……。明依ちゃん。昔からいつも思うのですが、明依ちゃんは慧君に当たりが強くないですか?」

「そう? 姉弟きょうだいってこんなものじゃないの?」

「少し羨ましいです」

「穂乃羽が『バカ野郎』とか言ってる姿なんて想像できないよ」


 そこで明依はにんまりとした。

「まあ、小さい頃は穂乃羽、めっちゃお転婆だったけどね。叔父様がワタワタしてたの覚えてる?」

 穂乃羽は頬を膨らませた。

「それを言うなら明依ちゃんだってお転婆だったじゃないですか」

「私は自覚があるからいいの。昔から変わってなくてもいいじゃない」

「いいえ。明依ちゃんは変わりましたよ」

 目を瞬かせる明依。穂乃羽の細い指が明依の顔を指し、そこからすうっと指先を下げた。


「胸が浮いてます」

「おい」

 明依はツッコんだ。


「変わったってソコかい」

「まったくいつ見ても壮観ですわ」

 うっとりと祈りのポーズを取る穂乃羽。

「この前も一緒にお風呂に入ったときは眼福で眼福で。時の流れに感謝せざるを得ません」

「穂乃羽。時々、あんたの年齢を疑わしく思うわ」

「ふふふ」

 穂乃羽が朗らかに笑った。いつも通りの様子に戻ってきたと感じ、明依も肩の力を抜く。


 穂乃羽が明依の手を握った。

「ありがとう明依ちゃん。ちょっと気が楽になりました」

「ううん。お礼を言うのはこっちの方だよ」

 首を振る。実際、明依は穂乃羽に頭が上がらないほど世話になっている。そんな親友が弟を気遣ってくれているのは心強かった。


 表情を引き締める。声を潜めた。

「とにかく、このままにはしておけない。借金を引き受けちゃったお父さんが心配だし、ついでにバカ弟のことも放っては置けなくなった。不本意だけど、重政に探りを入れていく必要があるね」

「しかし、私たちだけでは限界があります。さすがに学校内のことにまでお父様に助力を頼むわけにはいきません」

「となると、相談できるのは……あの人か。不本意だけど、背に腹は代えられないわね」

 明依と穂乃羽はうなずきあった。

「二人で大事な人を助けようね。穂乃羽」

「はい。明依ちゃん」

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