第30話 夕刻の男風呂

 ――夕刻。

 エリュシオンでの活動を終えた至誠館中央ECEのメンバーは、近接する深津浜研究所に向かった。

『風呂』に入るためである。

 もちろん、ただの入浴ではない。腐界化を防ぐため、専用のマテリアルを使った溶液で全身を洗浄するのが、エリュシオン入境者にとって必須の作業なのである。

 この『風呂』に入るのと入らないのとでは、翌日の疲労度がまるで違う。ECEなどのアマチュアから、エリュシオン探索を職業とするプロまで、「エリュシオンから帰ったらまず風呂」は常識であった。


「はぁ……」

 緊張がほぐれた声とも、憂鬱ゆううつを吐き出した声とも言えるつぶやきを漏らし、永慈は顔を拭った。かすかに青みがかった浴槽の水が頬を伝う。

 ホテル並の広さがある大浴場では、生徒たちが談笑しながらくつろいでいた。

 永慈の隣には亜人の生徒が一人座っている。さっきまで晶翔もいたが、「窓がないのは味気ないッスよねえ色々と。今まさに隣はヤベェ世界になってるのに」と青少年らしい良からぬ台詞を吐いたばかりに、静希に連行されてしまった。


 亜人の生徒が、遠慮がちに話しかけてくる。

「あの。お疲れ様でした」

「うん。お疲れ。君も大変だったね、穂垣ほがき君」

 いえ――と亜人生徒ははにかんだ。


 穂垣博也はくや

 以前、永慈を呼び出しにきた亜人であった。


「利羌さんに申し出たのは自分ですから。気にしないでください」

 穂垣は丁寧な口調で言った。

 ――申し出。

 その中身を思い出し、永慈は再びため息をついた。


 利羌のグループである穂垣がこうして肩を並べて入浴しているのは、有り体に言って『監視』のためであった。

 二週間以内に五十万円を用意できるかどうかチェックするのが、彼に課せられた役割。そして仮に金が払われなかった場合は、穂垣が肩代わりをするよう利羌は言い放った。

 普通なら自分に被害が及ばないよう必死になるシチュエーションだ。だが、穂垣に返済を催促する気配はなかった。監視を始めてからずっと、彼は諦めたような表情をしている。

(よくわかっているんだろうな。自分が置かれた立場を)

 永慈は思った。


 利羌は信用していないのだ。永慈のことも、自分の取り巻きだった穂垣のことも。おそらく金は穂垣から回収し、その後彼を切り捨てるつもりなのだろう。「与えられた仕事をこなせない無能は要らない」とでも言って。

 そうでなければ、パーティから穂垣だけを外し、徒歩で深津浜研究所へ行かせるような真似はしない。


「それにしても、永慈さんが五十万を払うと言ったときは驚きました」

 物思いから戻ってきた永慈は、苦笑を浮かべた。

「ま、『払わない』と断ってもよかったんだがな。重政の要求は言いがかりで、立派な脅迫だ」

「やはり後が怖いから……」

「それは違う」

 静かに、しかし強く否定する。

 怪訝そうにこちらを見る穂垣に向け、言葉を重ねる。

「俺は今後も重政と繋がりを持っていくつもりだ。彼が何をしようとしているのか見届ける」

「どうして、そこまで」

 永慈は口を閉ざした。

 心の中だけで、答えを言う。


(重政利羌と接点を持つ。それは慧との接点を持つことでもある。そのための金ならいとわない)


 控え目な穂垣は、それ以上尋ねてはこなかった。代わりに決意を込めて言う。

「永慈さん。お金のことは、俺に任せてください。親に頼めば、何とか」

「それで重政との縁が切れるから?」

 穂垣からすれば、それは意地の悪い質問であっただろう。だが永慈は敢えてその質問をぶつけた。

 彼自身に踏ん切りを付けさせるために。

 一瞬、表情を強ばらせた穂垣は、しばらくしてひとつ、うなずいた。


 永慈は穂垣の肩を優しく叩いた。

「若い時分から金でトラブルを解決しようなんて、おじさん感心しないな」

「え……?」

「払うと言った以上、金は工面するさ。なぁに、何とかなるだろ。おじさんに任せなさい。君は自分が解放された後のことを考えればよろしい。まだ若いんだから、もっと明るい未来を見据えようぜ」

「あの」

 遠慮がちながら、顔には微かな笑みを浮かべる穂垣。

「永慈さん、いったい何歳いくつなんですか」

「三十九歳――って言ったらどうする?」

「あはは」

「そうそう。そうやって笑ってれば、大抵のことは何とかなるもんさ」

 永慈は湯船から手を差し出した。


「しばらくよろしくな。利羌のこと、いろいろ教えてもらえると嬉しい」

「わかりました。俺で役に立てることがあれば」

 二人は固く握手を交わした。

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