第二十一回 警部は語る・その十二

   

「……別に、残業とかじゃなかったんです。普通に六時頃に会社を出て、最初は真っ直ぐ帰宅するつもりだったのが、何となく気が変わって。しばらく、駅前の喫茶店で時間をつぶしていました」

 渋々といった口調で、ただしが話し始めた。

 理恵りえが顔をしかめながら、私に向かって、補足する。

「主人は基本、寂しがり屋です。でも時々、無性に一人になりたくなるんですって。それで、帰りに寄り道して……。主人はカッコつけて『無為に時を過ごす』なんて言ってるんですけど、よりによって、問題となる日に……」

 山田原やまだわら安壱やすいちの屋敷は、正の通勤ルートからは大きく外れている。もし真っ直ぐ帰宅していれば、犯行は不可能だったと判断されただろう。

 だが帰宅が三時間遅れたわけだから、それだけの時間、喫茶店にいたことになる。そして店の者が正を覚えていなければ、それは正がそう言い張っているだけ、つまり空白の三時間となる。当然、安壱殺害も可能だったとみなされるわけだ。

 そうした意味で、理恵は『よりによって、問題となる日に』と嘆いたのだろう。

 しかし理恵は、ただ嘆くだけの女ではなかった。

「正君。ほら、財布出して」

「え?」

 戸惑いながらも妻の言葉に従った正から、理恵は、ひったくるようにして財布を取り上げて、

「主人は、お釣りの小銭と一緒に、レシートを財布にしまいこむ癖があるんです。要らないレシートまで入れっ放しにするんで、いつも注意するんですけど。今回は、怪我の功名みたい」

 説明しながら彼女が取り出したのは、しわくちゃのレシートだった。正が三時間を過ごしたという喫茶店のレシートだ。清算した時刻、つまり店を出た時間も印字されていた。

「ほら、時間も書いてありますよ。あとは喫茶店の店員さんに確認すれば、主人のアリバイになりますわ」

 理恵は胸を張って、言い放ったが……。

 レシートに記されているのは、あくまでも店を出た時刻だ。可能性としては、安壱殺害のアリバイ工作として喫茶店に入り、実際以上の時間そこに居たと主張しているだけかもしれない。普通、店の者は、客の顔などいちいち覚えていないだろうから、店に入った時間は誤魔化せるだろう。

 しかし私は、理恵に対して、口では全く逆のことを言っておいた。

「良かったですね。これでアリバイ成立でしょう」

 それくらいで、私たちは正の家をおいとましたのだが……。


 後で裏付けを取りに行った私たちは、驚かされた。まさか理恵に対する言葉が、真実になろうとは。

 喫茶店の者は、山田原正を覚えていたのだ。

 私たちが見せた写真を確認して、複数の店員が証言した。

「コーヒー一杯で粘る、貧乏ったらしいお客さんも、珍しくはありませんが……」

「本を読むわけでもなく、新聞を読むわけでもない。少し前に流行ったウォークマンで、音楽を聴いているわけでもない。ただボーッと虚空の一点を見つめる……」

「いや、そんな『虚空の一点を』みたいな、カッコいいもんじゃありません。何もないところに視線を向けてるんだから、むしろ気持ち悪かったですわ」

「ええ、だから店員たちの間でも軽く噂になってましたし、出て行った時は、一同ホッとしたくらいです」

「忘れやしません。三時間くらい、あの席にいたんですよ」

 店員たちは、まるで示し合わせたかのように一斉に、一番奥の席を指差したのだった。

   

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