心理 第三章

 なにもかんじなかった。

 なにもおもわなかった。

 はいじんとなった男性は医師にろうらくされ同意書に〈花輪光一〉とごうして造次てんぱいもなく退院した。かなしくもない。うれしくもない。そもそもしんほのおそくめつせしめられぼうぜんしつして自宅へとあるいていった。真昼にアパートにほうちやくしたがしよくよくもない。とうをかしげて室内をはるかすと本棚に勘付いた。おれは彼あそこになにかをわすれているぶんがする。こうかんの哲学書が網羅された本棚をへいげいしているとそこはかとなく脳髄がかいふくする感覚があった。感情は喪失したが論理ははくだつされていないようだ。ひやつりようらんの本棚を凝視すると様様な記憶がほうふつされた。プラトンの愛について。デカルトの方法的懐疑について。ヘーゲルの弁証法的止揚について。キルケゴールの有神論的実存主義とサルトルの無神論的実存主義について。キルケゴールとサルトルの書籍のはざこうかんの原稿がほうされている。みずかごうした哲学書『人間とはなにか』である。『人間とはなにか』にかんぼくした片言隻語が狂言におもわれる。ただ最後の一行をりゆうらんしたけんちようらいぶんになった。なにがしか大切なものをわすれている。大切な約束をわすれているとおもう。

 窓外は黄たそがれだった。

 はいじんほうふつした。かでだれか大切なひととわなければならなかったはずだ。何どこだっただろう。だれだっただろう。なにゆゑにわなければならなかったのだろう。無感情のまま自室をかんすると一葉の年賀状に勘付いた。〈花輪光一さまへ 大地幸子より〉とごうされている。大地さんになにか尋問しなければならないはずだ。そうしなければ自分はほんとうはいじんになってしまう。部屋からとんざんするとの精神で悠久山へとあるいていった。悠久山の公園に長椅子を発見するとちゆうしながら鎮座する。おうどきはちがいちようかんできる。なんでへきたんだろう。大地さんになにを尋問しなければならないんだろう。おれたちにはもうそんな権利はないんじゃないか。時間の感覚をがんぶつそうして数十分もみずからをさいしているとり女性もほうちやくした。はいじんたるこいびとはひとしなみに長椅子に着席する。しばらくふたりで沈黙しているとこいびとしようじゆした。〈なんにも感動しないの〉と。〈わたしは人間なのかな〉と。またしばらく沈黙したのちに男性はこたえた。〈感動する必要はないよ〉と。〈でもねぼくたちはもう人間じゃないんだ〉と。

 わたしはせきをおこした。

 いくばくか沈黙しているとしゆつこつとしてこいびとが落涙しはじめた。きよどうこくし号泣する。ひとしなみにはいじんであった男性もこいびとひようへんに怪顛して落涙しきよどうこくする。ふたりともみずからがぬえてきであることに勘付いていた。また人間とは本質的に異常であることをほうふつした。女性はうるんだ世界をはるかしながらこうしようする。いわく〈あれなみだがでてきた〉と。〈世界がれいにみえるよ〉と。〈あのときもそうだったの〉と。長椅子からしようりつしてけんらんごうにみえる世界をへいげいしながらほうこうする。〈わたし人間にもどったみたい〉と。いんこいびとじよかいに男性もおもいだす。あのときだ。おれが求婚したときおれたちはたしかに人間だった。男性も長椅子からきつりつしていう。〈ぼくも世界がれいにみえる〉と。〈ぼくも人間にもどったみたいだ〉と。しばらくふたりで人間であることにきんじやくやくしたのちに男性はいった。〈あらためていうよ〉と。〈ぼくと結婚してくれませんか〉と。女性はとうしなれた。女性のそうぼうから二筋の水滴がこぼれおちる。とうをもたげた女性はあなにやしの世界にむかってこたえる。〈もちろん〉と。

 しあわせはながくなかった。

 数分間ふたりでていきゆうしているとまたふたりはきつきようすることになった。女性はけいれんする片手で男性のしんとうする片手を掌握しながらいう。〈またなんにもわからなくなりそう〉と。口唇をふるわせながら男性はこたえる。〈せきはあっというまだったね〉と。ふたりの意識はまたもうろうとしてゆく。といえども時間はのこされている。女性はたんする。〈また世界がよどんでゆく〉と。男性が沈黙していると女性はけつしていった。〈おねがい人間であるうちにわたしをころして〉と。きつきようする男性につづける。〈花輪さんならかまわないよ〉と。男性はちゆうしながらおもう。人間だったらころせない。否人間じゃなかったらころせないじゃないか。男性はかつそうようしながらいった。〈ぼくたちは人間だよね〉と。女性が首肯すると男性はこいびとの首もとに両手をふれた。両手で首もとを掌握し十指を首もとてんじようさせる。女性は男性の背中に両腕をからめて抱擁する。女性はいう。〈人間てなんだろうね〉と。男性はこたえられない。男性が女性をやくさつすると男性を抱擁する女性の両腕は沈滞してしなれた。

 男性は自首する。

 ふたりが人間であった証明のために。

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