第6話

 渋谷。日曜日。時刻は午後三時。

 スクランブル交差点の一角に、黒いリムジンが停車している。

 リムジンのリアハッチに巨大なスピーカーが設えられており、そこから、ワン・ツー・スリー・フォー、ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー・フォー、ワン・ツー・スリーと、決して踊れないような、しかし催眠にも似た変則的でヘヴィなビートが、エンドレスで流れている。

 皆一様にサングラスを着用した、数百から数千の人だかりが、俯きながらそのビートに合わせて、静かに身体を揺らしている。パトカーや機動車も相当数やってきているのだが、それらの群衆に防御されて、立ち入ることが出来ない。

 うねるようなベースラインが一段と複雑さを増し、群衆への催眠効果に拍車をかけ、辺り一帯は爆発寸前の可燃物のように、不穏な空気を醸し出している。

 やがてリムジンの後部座席から、屈強そうなボディガードに先導されて男が現れると、群衆のボルテージはクライマックスに達した。

 男の頭は複雑な曼荼羅模様に刈り込まれ、頭頂部はコーンロウのように編み込まれていた。爬虫類を思わせる大きなサングラスをかけ、カンフースーツのように見える白の上下を着た、その男こそ、飯塚新であった。

 年齢も、学歴も、出身地も不詳。マスコミが血眼になってありとあらゆる方面を探ったにも関わらず、飯塚の過去を知るものは誰もいなかった。まさに彗星の如く現れたと言って、過言ではなかった。

 飯塚は黒く太いマイクを手にして、静かに、だが太く通る声で、群衆に問いかけた。

「最高の夜・・・。」

 湧き上がっていた群衆が一斉に静かになり、飯塚の声に耳を傾けた。

「昨日、今週、今月。誰か最高の夜を過ごしたぜ、って奴は、いるか?」

 飯塚から50メートルくらい離れたところに立っていた、ラッパー風のファッションをした若い男が、飯塚に両手を振って「昨日サイコーだったっすよー!」と叫んだ。飯塚は声のした方に向きを変え、言葉を続けた。

「そうか。うまいもんでも食べたのか?いい女でも抱いたのか?仕事で最高の契約でも取り付けたのか?」

 男はニコニコしながら、飯塚に向かって「ガチでいい女ゲットした-!」と返答し、全身で大きく頷いた。

「そうか。残念だが、それは最高、じゃないんだ。いいか。最高なんてものは、もう無いんだ。神様が、本当の色と一緒に、奪い去ってしまったんだよ。」

 遠くの方で誰かが「そうだ!」と声をあげた。反対側からも数名が「そうだ」「そうだ」と同じように声を上げて、やがて声は全体に広まり、怒号の様に轟いた。遮るように、飯塚が話し出す。

「いいか。俺たちは突然、色を奪われたと思っている。色だけ、を奪われた、と思っている。色だけを奪われ、だが他の全ては同じで、変わらず同じ暮らしが続けられると思っている。そしてお前らは相変わらず、電車に乗り、仕事をして、メシを食って、何も変わってないフリを続けている。けどな、いいか、これは神様からのサインなんだ。今までの世界、俺たちのやってきたこと、全てやり直せ、っていう、サインなんだよ。」

 群衆は水を打ったように静かになり、視覚障害者向けの信号機のメロディだけが遠くから聞こえてくる。静寂を切り裂くように飯塚が声を張り上げる。

「俺たちの知っていること、俺たちが経験してきたこと、お前たちの目に映る世界、その中に最高なんてものは、もう無いんだ!鏡に映る己の姿、隣の芝生付きのデカい家、道端に寝っ転がってる浮浪者、水着姿で誘惑してくる女たち、全てまやかしだ!人類が誕生してから何億年経ったか、そんなの知らないけどな、俺たちは今、全部ゼロに戻されたんだよ!目を覚ませよ!」

 飯塚が言い放つと群衆たちは熱狂した。皆、地が割れんばかりに叫びだし、あちこちでサッカーのサポーターを思わせるコールが沸いた。群衆の端の方では警察と群衆の小競り合いも起きていた。激しい騒乱の中、飯塚が再び言葉を続けた。

「いいか、今までの価値観はまやかし、ゼロだ。何が最高なのか、俺たちはまだ何もわかってないんだ。今のお前らは全部、過去の遺物だ!見えるものを信じるな!世界を再定義しろ!自分自身を再定義しろ!」

 言い放って飯塚はマイクを地面に叩きつけた。スピーカーから酷いハウリングとノイズが響き渡り、再び呪術的なビートが重低音で響き渡り、群衆は完全な集団ヒステリー状態に陥った。通りかかった車を無理矢理止め、車をひっくり返す者、誰彼構わず殴りかかる者、目に入るショーウィンドウを全て叩き割る者、そして自らナイフで目をくりぬく者までいた。そんな群衆を置き去りにするかのように、黒のリムジンが走り出し、代々木方面へと消えていった。


 リムジンの車内。飯塚は彫刻刀で、15センチ四方にカットされた木材に、何やら彫刻を施していた。木材を刻んでは、彫刻刀を置き、指先で仕上がりを確認しながら、満足げな笑みを口元に浮かべていた。

 飯塚には視力がなかった。それが生まれつきなのか、後天的な事故などによるものか、誰も、その理由を知らなかったが、とにかく、飯塚には、今現在の色というものが、最初から見えていなかった。全てが闇に閉ざされ、色のない世界。それが、飯塚の世界であった。

(続く)

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空の記憶 東京ギャンゴ @tokyogyango

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