第5話

 デスクでボーッとしていた昌也のもとへ、上司の藤井が現れた。

「月形、今いいかな。」

「何でしょう。」

「来月の特集だけど、『青』をテーマにしようと思ってるんだ。」

 藤井が担当している月刊誌では先月、『緑』をテーマに特集が組まれ、読者の反響がなかなか良かったようであった。それを受けての『青』なのだろう。『緑』の特集の時は、今、目に見える緑のものではなく、かつて我々に緑に見えたもの、山の木々であったり、草原であったり、そういうものをテーマにしたものであった。今回もそのように、かつて我々に青く見えたもの、海や空、そういうものを取り上げたいのだろう。

 正直まったく、昌也は気乗りがしなかったが、人の企画を否定したところで、自分自身が取り組みたい何かもなかった。全く何ひとつ、取り上げたい話題がなかった。

「いいんじゃないですか。わかりました。」

「月形さ、ここんとこ、全然元気ないよな。」

「すみません。特集の内容にケチをつけたいとかではなくて、個人的にちょっと疲れてるだけです。大丈夫です、やるべき事はちゃんとやりますんで。」

「この企画には1年がかりで取り組もうと思っているんだ。緑、青、赤、俺たちの知っていた世界を、記録するんだ。このまま世界が元に戻らないとしたら、俺たちはさ、青い空を知っている最後の世代になるんだからさ、俺はこの変化の真っ只中で、これを歴史にしっかり残しておきたいんだ。だから、頼むよ。」

「わかりました。」

 答えながら昌也は、何の感銘も受けずにいた。

 世界は変わってしまった。記憶が無くなってしまう前に、記録に残すことは、確かに意味のあることではあろう。だがそれをやるということは、いわばそれらの喪失を暗に認める、ということになる。要するに昌也はこの変化に馴染めずにいたし、ある日目覚めれば、またすっかり元に戻っていやしないか、と考えもしていた。しかし何カ月経っても、元に戻る気配はなかったし、それを待ち続けることは結果的に、昌也の生気を奪い取ってしまった。昌也は紫色の靄のような、ボンヤリとした無力感に包まれていた。

 昌也は事務的に、しかし決して後ろ向きにではなく、今は藤井の企画のために、やれることをやろう、それが恐らく自分のためにもなる、そう気持ちを切り替えることにした。


 記事冒頭のエッセイは、小説家の高原涼にお願いしていたが、入稿が遅れていた。昌也は高原にアポを取ってみることにした。関係者連絡先のリストから、高原の事務所に電話を入れた。しかし、電話を取るものはいなかった。いくら個人事務所とはいえ、電話に誰も出ないというのはどういう了見か、と思い、仕方なく高原の事務所を訪ねることにした。

 阿佐ヶ谷駅で降り、駅前のちょっとした商店街を抜けた閑静な住宅街の一角、コンクリート造りの小さな建物。それが高原の自宅兼個人事務所であった。

 昌也は玄関のインターホンを一度押した。反応はない。辺りを見回し、もう一度、二度、インターホンのブザーを押してみた。踵を返して帰ろうか、とした瞬間、遅れてインターホンの受話音が「ガチャ」と響いた。

 昌也は慌てて振り返り「高原さんですか」と呼びかけた。

「・・・そうですが、どなたですか。」

「平成舎の雑誌編集担当の月形昌也と申します。ご依頼していた今月号のエッセイについて、お電話したのですが繋がらなかったので、ここまでお伺い致しました。」

「ちょっと待って。」

 インターホンが切れた。

 ちょっと待って、と言われたので昌也は玄関の前に突っ立っていたのだが、それからだいぶ待たされた後に、玄関のドアが開き、よれよれのワイシャツに髭面で、酒臭い男が現れた。

「あの、高原さんは。」

「私です。入られますか。」

 高原涼は、それなりに名の通った小説家であった。昌也自身はこれが初対面ではあったが、昌也の担当している雑誌でも二回ほど、インタビュー記事を掲載していた。昌也含め、世間一般が高原に抱くイメージは、モノトーンのスーツなんかを羽織って、こざっぱりとした風貌であった。今、目の前にいる男は、それとは真逆、出来の悪い双子の弟を見ているような錯覚に囚われた。

 応接用の広間に通された昌也は、部屋の様子を一瞥した。隅の方にウィスキーの空き瓶が、数本寄せられていたが、恐らくそれらは数分前には足元に散乱していたのでは、と思えた。何せ空き瓶以外のすべてが散らかっていたし、しばらく掃除もされていない様子であった。

 高原が口を開いた。

「原稿の話だが、ウチのマネージャー、というか、私の家内なんだが・・・家内だった、と言うべきか。とにかく家内が、失踪してしまってね。家内は仕事の話を聞いていたのかも知れないが、私は何も伝えられていなくてね。そういうわけで申し訳ないが、何も書けていない。」

「あと二日以内に、なんとかなりませんか。」

「申し訳ない。今は何も、書ける気がしない。」

 憮然と言い放つ高原に対して、昌也は腹が立ったかというと、そうではなく、ただただ、この男に一体何が起きてしまったのか、そういう興味の方が、今は強かった。

「わかりました。少しお話しさせて頂いてもよいですか。その前に電話を一本かけさせてください。」

 頷く高原を確認して、昌也は北欧風のデザイナーズチェアから腰を上げ、高原から少し離れた、小さな中庭に面した窓辺の方へ向かい、自社に電話を入れ、藤井を呼び出した。

「藤井さん。月形です。」

「うん、どうした。」

「高原涼の原稿ですが、落ちそうなんで、大急ぎで他をあたってください。高原の様子が変なので、僕は少し、話を伺ってから戻ります。」

「様子が変って、大丈夫なのか。原稿の件はわかった。連載のエッセイを書いてくれている宮下さん辺りにあたってみるよ。それはそうと、月形、気をつけろよ。」

 電話を切り、昌也は高原のほうへ振り返った。高原はまた、ウィスキーのボトルを口にしていた。

「高原さん。尋常ではない様子ですが、一体何があったのですか。」

「単に、家内が家を出て行ってしまった。それだけだよ。」

「それで、電話にも出ず、仕事もせず、昼間から酒浸り、ですか。」

「ああ。悪いか。」

「夫婦関係がこじれたにせよ、高原さんほど名のある小説家のやることとは思えませんね。」

「夫婦関係がこじれた、なのかな。」

 高原は天井を見つめた。

「違うのですか。」

 昌也が尋ねた。高原は大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出した後に、こう言った。

「飯塚新のところへ、行ったんだよ。」

 飯塚新。その名前は昌也も知っている。半年ほど前から、メディアに取り上げられ始めた、新興宗教の代表であった。

(続く)

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