第14話 時計台の少女
太一は稲村さんと、T大学の門のそばにいた。太一とのっぽさんは、始発電車で青森を出発した。昼前に、上野駅に到着することができた。すぐに太一は、稲村さんと志田さんに連絡をした。彼らと13時に、T大学で待ち合わせをしたのだ。のっぽさんと志田さんは、近くに停車した覆面パトカーで待機していた。
「こういうの、向いてないんですよ。私のキャラじゃない」と、稲村さんは訴えた。でも彼は、笑っていた。どうやら諦めたらしい。
「夜中に、森を歩くようなもんです」と、太一は彼に言った。「お化けが出るかも、と思うから怖いんです。でも、本当に怖いのは人間だ」
「そりゃそうだ」と、稲村さんはうなずいた。彼は、苦笑いで歩き出した。
「さあ、秋本さんの研究室に行きましょう」と、太一は言った。
二人は、大学の敷地内へ入った。大きな時計台へと向かう、広くてまっすぐな銀杏並木を歩いた。すれ違う学生たちは、みんな楽しそうだった。午後の授業はもう始まっているはずだが、彼らは仲間とのおしゃべりに夢中だった。ウキウキした様子で、四人組の少年たちが門へ向かっていった。これから雀荘にでも、行くのだろうか?
とは言っても、この大学の年齢層は幅広かった。大学の講師や助手、年配の学生、様々な出入り業者。四十の太一がいても、たいして目立たなかった。
門から少し歩いたところに、警備員が勤務する建物があった。そこに立ち寄り、稲村さんが彼らに警察手帳を見せた。それから彼と太一は、訪問者リストに名前を記入した。警備員の一人が、入館証となる腕章を渡してくれた。
太一が左腕に、腕章を巻いているときだった。建物の中にいた警備員が、無言で屋外に出てきた。三十代の、ヒョロっとして頼りない警備員だった。彼は口を半開きにして、スルスルと太一に近寄ってきた。太一は、まったく無警戒だった。
ドンッ!
その警備員は、正面から太一に衝突した。だが、彼はぶつかることが目的ではなかった。彼は右手に、包丁を持っていた。それを、太一の腹に突き立てた。
「いってえー」あまりの痛さに、太一はその場にしゃがみこんだ。
少し離れた場所に、私服警官たちが待機していた。三人の警官が、たちまちその警備員を抑えこんだ。包丁は、警官の一人が取り上げた。
「あれえ・・・?!」
ねじ伏せられ、包丁警備員は道端に這いつくばった。でも彼は、キョトンとしていた。まるで、寝起きのように見えた。目が覚めて、自分のいる場所がわからない様子だった。ボーッとする彼に、警官は事務的に手錠をかけた。
「こうなるかって、思ったんですよ」と、稲村さんが笑いながら言った。「だから、嫌だったんだ」
「本当だ」と、太一も同意した。
太一と稲村さんは、シャツの下に防弾チョッキを着ていた。おかげで、包丁は肌には届かなかった。とはいえ、刃物の先端で突かれたのだ。当たった場所は、ヒリヒリして痛かった。
「顔を狙われたら、即死でしたね」と、太一も笑った。
「勘弁してくださいよー」小太りの稲村さんは、汗っかきのようだ。今日はずっと、タオルで顔を拭っていた。
「行きましょう。今度は気をつける」と、太一は受け合った。「秋本さんの研究室は、あそこですね」太一は、年季の入った建物の三階を指差した。
「そうです。では、校舎に入りましょうか」と、稲村さんは言った。
まず稲村さんと太一が、校舎の中に足を踏み入れた。続いて、少し離れて私服警官たちが続いた。
太一は、この大学を初めて訪れた。彼には、縁のない場所だ。もともと、頭が良い方ではない。勉強も、嫌いだったし。それに高校時代、うちの家族はガタガタだった。落ち着いて受験勉強するなど、とても無理だった。それなのに、変な気分だ。俺はここで、何をやっているんだ?
「うああああああーっ」
階段を昇り始めたら、上から奇声が聞こえた。見上げると、学生が一人階段を駆け降りて来た。背は低いが、ガッチリした体格の男だった。彼はなぜか、消化器を頭上に掲げていた。白目を剥いて、太一に向かって来た。絶対に、係りたくないタイプだ。
後ろ向きで、階段を降りる太一。入れ替わりに、また私服警官が消化器男に飛びかかった。彼はあえなく、階段の途中で取り押さえられた。消化器だけが、ガタンガタンと階段を転がって落ちた。
「もう、面倒くさいですね」と、稲村さんが言った。「奥の手、出しましょう」
彼はそう言うと、壁に設置された非常ベルのボタンを押した。ジジジジジジジーッという、昔懐かしいベルが鳴り響いた。しかし、校舎中のあちこちで鳴ると、とても騒々しい。耳を塞いでいると、非常放送が流された。
「全教官、および全学生に通達します。校舎内において、凶器を持った不審者が二名発見されました。両名ともすでに、警察が保護しています。ですが、万全を期すため、速やかに校舎内を離脱し本校敷地外に退避してください。繰り返します。速やかに校舎内を離脱し、本校敷地外に退避してください。・・・」
仰々しいアナウンスに、学生たちは一斉に避難を始めた。とは言っても、パニックになったわけではない。なんだなんだ、と不思議そうな顔で、行儀良く並んでドアから外へ出て行った。廊下や教室で、ことの成り行きを見守る若者たちもいた。
「これで、不審者は見つけやすくなりましたよ」と、稲村さんは言った。この人、多分ギャンブラーだ。
学生の中に、きわめて真剣な一群がいた。彼らはなぜか、みんなと逆の行動を取った。彼らは男も女も、眉間にシワを寄せて階段を駆け上っていった。誰もが、大きな鞄を持っていた。彼らの中には、その中身を取り出している者もいた。それは、マシンガンだった。
「今の、M16ですよ!」稲村さんが、興奮して言った。そんな彼のそばを、次々にマシンガンを手にした学生が通り過ぎた。M16は、約50年間に渡り米軍の公式自動小銃である。
「本物ですか?」太一は聞いた。
「本物ですね」と、私服警官の一人が答えた。彼は稲村さんと違って、険しい表情だった。この大学が、東京駅と同じく戦場になろうとしていた。
「横須賀に行ったら、買えるのかな?米軍のジャンパーみたいに」稲村さんは、なんだか楽しそうだった。
「ポイントが貯まったら、交換できるんでしょう」太一も、彼に合わせてみた。
「ベルマークかな?私、アレ貼るの好きなんですよ」と、ふざけ続ける稲村さん。
「きっと、100冊必要ですね」と、太一。
「我々も、一旦退避です」と、私服警官の一人が言った。もちろん彼は真剣だった。
太一たちは、大学の門まで戻った。そこには、のっぽさん、志田さん、そして大勢の機動隊がいた。彼らは門の外に、ズラリと並んで隊列を組んでいた。驚くほど、早い到着と展開だった。
「あれえ?」と、太一は不思議になって声を上げた。
「つまり、こういうこと」と、志田さんが口を開いた。「東京駅事件を受けて、都内には緊急警戒体制が敷かれている。たまたま、機動隊が近くを警戒中だった。そこへたまたま、大学より不審者発見の連絡が入った。全部、偶然です」
「苦しいなあ」と、太一は呆れて言った。
「この間話した通り、我々はなかなか動けないからね」と、稲村さんが補足した。
「失礼します!」
年は五十過ぎ、だが全身筋肉質の機動隊員が現れた。彼は稲村さんたちに、きちんと敬礼をした。稲村さん、志田さん、その他の警官たちも敬礼をした。
「機動隊第・・部隊・・指揮官の、本吉・・・・です」と、彼は所属と職位を名乗った。
「相手は、サリンを持っている可能性があります。付近住民を、直ちに避難させてください」のっぽさんが険しい表情をしながら、早口で彼に言った。
「こちらの民間人は・・・?」
本吉さんは、とても不機嫌そうだった。民間人の指図は受けない、とでも言いたげだった。
「こちらの方は、本件に重要な情報提供をしてくださる人です。彼のアドバイスに従いましょう」と、稲村さんが言った。
「は?」本吉さんは、今度は稲村さんに腹を立てたようだ。
「はっきりしておきましょう」と、今度は志田さんが発言した。「本件は、我が国でも例のないサイバー・テロ事件です。従って、現場の指揮は我々サイバー・テロ部門が取ります。あなたは、我々の指示に従ってください。我々の指示以外に、一切何もしないでください」志田さんが、キツイ口調で本吉さんに告げた。
「え?」本吉さんは、とても納得できない様子だった。
「必要があれば、そちらの上司に確認してください」と、稲村さんが言った。彼も、今回は突き放した言い方をした。
「こちらから一発も、撃っちゃダメだ」と、のっぽさんは言った。「都心のど真ん中で、最悪サリンが撒かれる」
「おっしゃる通りです」と、志田さんが言った。
「何km避難させるかは、そちらの判断に任せます。避難が完了したら、つまり周囲を無人にできたら、教えてください。それからが、我々の出番です」と、稲村さんが言った。「避難完了の予定時刻を見積もって、至急報告してください」
「秋本さんは、今どこでしょうね?」と、太一は言った。
「避難して来た、同じ研究室の学生に確認しています」と、私服警官の一人が言った。「彼女は、あの時計台の上階に向かったそうです」そう言って彼は、並木道の終点に建つ時計台を指差した。
「そうですか・・・」
その後、M16部隊の展開状況がわかった。機動隊が、ドローンを使って校舎内を撮影していた。
まず時計台の一階廊下に、机と椅子でバリケード。50人前後が、M16を手にして待機。二階階段、三階階段にもバリケード。各25名前後が待機。武装した連中の年齢層は高く、大半がT大学の学生ではないと思われるとのこと。
太一は、浮かない気分だった。何か、気に食わなかった。簡単過ぎる。稲村さんがサイレンを鳴らしたとき、彼女はさっさと逃げることもできた。刺客を、避難する学生に紛れさせる。そしてゲリラ的に、太一と稲村さんを襲う。そうすれば、こちらに隙ができたはずだ。だが彼女は、わざと自らの退路を絶ったように思えた。それとも、また別の手を用意しているのか?
警察のドローンは、秋本さんの様子も撮影した。彼女は、時計台の上階にある部屋にいた。無用心に、窓のそばの椅子に座っていた。つまらなそうな顔をして、部屋の中に視線を漂わせていた。スナイパー部隊に頼めば、一発で射殺可能だった。
「落ちかない顔してるな」と、のっぽさんが隣に来て言った。二人の会話に、稲村さんが聞き耳を立てた。
「なんだか、彼女は好んで篭城した気がするんです」
「どうかな。まだ、わからないだろう」と、のっぽさんは答えた。「彼女と Iris には、何度も驚かされたからな」
「そうですね」と、稲村さんが会話に参加した。「兵隊は、またIris が募集したんでしょう」
「戦闘能力は未知数だが、東京駅のことがある。油断はできない」と、志田さんが言った。
「自衛隊は、呼ばないでくださいよ」と、太一は言った。また、100人射殺されたら最悪だ。
「それは、総理と防衛大臣が決めることだから」と、志田さんが皮肉った。
マスコミは毎日、自衛隊と警察を叩いていた。東京駅で、両者が内輪揉めをしたからだ。世論は、自衛隊と警察のせいで事態収拾が遅れたと断じていた。だから、立て続けに同じ失敗はできない。だが相手は、100名規模のマシンガン部隊だ。機動隊との、大規模な衝突が起きたら?もう一度、自衛隊出動もあり得る。
「うちには、貸しがある。東京駅では、自衛隊スナイパーに譲った。だから、今回はうちの出番でしょう」と、稲村さんが言った。
「それって、本気で言ってる?」太一は、呆れて聞いた。
「私にとっては、冗談。でも、うちのお偉いさんは本気だよ」と、稲村さんが言った。太一は、深いため息をついた。のっぽさんは、何も言わなかった。
太一たちと警察は、入り口の門まで下がった。太一とのっぽさん、それからサイバーテロ部門は、手ごろな銀杏の大木の周りに集まった。樹を中心にして丸くなり、木の根の上に腰を下ろした。稲村さんと志田さんは、ノートPCを開いてキーをバチバチ叩いていた。PCを使うと、彼らはとても怖い顔になった。
電話が、かかってきた。樺島さんからだ。
「私は、そちらに行かなくて大丈夫ですか?」彼は、なんだか焦っていた。もしかしたら、この最終決戦の場にいたいのかもしれない。「テレビでは、大騒ぎになってますよ。機動隊がT大を封鎖して、付近住民も避難させてるって」
「すみません」と、太一は彼に詫びた。「こんな、大袈裟なことにする気はなかったんです。でも、警察はやる気でね。なにせ、相手は『サリンを持ってる』って言うから」
「私は、待機してればいいですか?」彼は、気を落としたように言った。
「とんでもない!」と、太一は大きな声で言った。樺島さんは、きっとびっくりしたはずだ。「樺島さん。私は今日、二回襲われましたよ」
「えっ!?」
「一人は、包丁。もう一人は、消化器で私を殴ろうとしました」
「・・・」樺島さんは、しばらく黙っていた。
「もちろん、Iris の指示だと思います」
「・・・はい」彼は、少しショックを受けた様子だった。
「樺島さん。一人で、二つのことはできません。仕事を、分担しましょう」
「はい」
「Iris が、紗理奈くんや明の殺人指示を出しているかもしれない。いや、樺島さんを狙っているかもしれない」
「・・・はい。そうですね・・・」
「もしも、紗理奈くんや明を死なせてしまったら?樺島さんと私は、一生立ち直れないかもしれない」
「そうですね」しばらく沈黙してから、樺島さんはそう答えた。でも、言葉には力があった。現実を受け入れて、腹を決めた風だった。
「あらゆることに、注意してください。じっとして心を落ち着ければ、些細なことにも気づくはずです。遺失物捜索課の仲間を、よろしくお願いします」
「わかりました」そう言ってから、彼は急にくすくすと笑い出した。でも、とても冷静な笑い方だった。
「私は、秋本さんと話してみます。時間が、かかるかもしれません。不在でご迷惑をおかけします」と、太一は樺島さんに詫びた。
「わかりやすい。実に、明快だ。課長、よくわかりました」と、とても愉快そうに彼は答えた。
「はい」
「課長。私は最近、仕事が簡単でしょうがないんですよ」
「えっ?」
「すみません。変な言い方をして」と、樺島さんは言った。そして、「あの、こんな時ですが・・・」と、何かを言いかけた。
「はい?なんでしょう?」
「課長。お時間は、少しありますか?」
「うん。大丈夫ですよ。3km圏内の住民を避難させるまで、あと一時間はかかるから」と、太一は答えた。答えながら、立ち上がって銀杏の樹から離れた。10歩くらい歩いて、門から少し離れた塀のそばに立った。「はい、どうぞ」
「実は、離婚届を出したんです」
「え?」
「こんな、忙しいときにすみません。でも課長は、すぐに会社の届け出でご迷惑をおかけするので。早く話しておきたかったんです」そう語る樺島さんは、とても割り切った様子だった。電話口で、笑顔で話す彼の姿が浮かんだ。
「そうでしたか」
「ええ。とは言っても、ずっと前から別居してたんですが」
「そうなんですか?」
「はい。全部、私のせいです。私が懲戒になって、妻に愛想をつかされたんです」と、樺島さんは他人事のように話した。まるで彼と、居酒屋で仕事の話をしてるみたいだった。
「はい」
「娘が大学生になって、やっと離婚に同意してくれました。だから、弁護士を雇って離婚の手続きを進めてたんです。それが、最近決着がついたんです」
太一は、何か言おうとした。彼を元気づける言葉を、急いで探した。けれど、何も見つからなかった。太一が黙っているうちに、樺島さんは話の続きを始めた。
「さっき、仕事が簡単だと言いましたけど」と、樺島さんは言った。
「はい」
「楽じゃないですよ、決して。関西出張は、地獄でしたよ。電話はジャンジャンかかってくるし。目の前で、人は殺されるし。緊張と疲労で、フラフラでした。あははは」樺島さんは愚痴を言いながら、とても清々しく笑った。
「でも、簡単だったでしょう?」と、太一は聞いてみた。
「簡単でしたね」と、彼は意味ありげに答えた。
「あれは、私なりに考えてお願いしたんです。リーダーを一人に絞り、情報をそこに集中する。大変だけど、樺島さんは全国の状況から判断できる。例えば名古屋の事件を、北九州の事件に応用できる。一件しか事件を知らない人は、次の行動を決断できない。でも樺島さんは、様々な事例を知っている。それから全部、 Iris の事件だ。あなたなら、統一した対処ができると思ったんです」
「それも、あるかもしれません」と、樺島さんは低い声で答えた。彼は注意深く、言葉を選んで言った。「でも簡単だった一番の理由は、『正しい』ことをすればよかったからです」
「えっ?」太一は、樺島さんの言うことがよくわからなかった。
「私は、自分の金で会社の商品を買いました。それも、大量に。それで営業成績を上げてた。それで懲戒を受け、降格になったんですが」
「そうでしたね」と、太一はあいづちを打った。
「その頃の私は、『自分は正しい』と屁理屈をこねてた。私が自分で会社の商品を買えば、会社は喜ぶ。昇格して給料が上がれば、家族も喜ぶ。上がった給料で、また自社商品を買えばいい。正の連鎖だって、考えていた」
「なるほど」
「でもね、課長。これは、大間違いでした」樺島さんは、電話口でクスクス笑いながら言った。
「どうしてです?」
「効率が、悪すぎるんですよ」と、樺島さんは少し大きな声で言った。「私はね、自分の嘘を隠すために大忙しだった。私は、架空の顧客から注文が入ったことにしてました。だから、その嘘がバレないように、さらに嘘をついた。さらに、架空の書類も作った」
「それは、確かに大変そうですね」
「妻にも、嘘をついた。自社商品買いのため、私は自宅に抵当権をつけた。要するに、借金して買ってたんです。その借金がバレないよう、家族や親兄弟にも嘘をついた。返済に関係する手紙を破棄し、自宅に返済の電話が入れば、嘘で妻を言いくるめた」
「はい」
「何より致命的だったのは、通常の営業活動をする暇がなかったことです。私が寄りつかないので、常顧客が他社に流れるようになりました。その売上減を、私はまた自社商品買いで補った」
「なんか、凄まじいですね・・・」太一は少し驚いて、樺島さんの話を聞いた。
「つまり、嘘は効率が悪いんです。一度嘘をついたら、その嘘を正当化する嘘をずっとつき続けることになる。膨大な時間を割いて。頭を使って、労力を使って・・・。あははは」ちょっと自虐的に、樺島さんは笑った。「いっそ嘘をつかないで、正直に『正しい』売り方をした方が、ずっと効率がいいんです」
「正しい方が、効率的だ・・・」と、太一は思わずつぶやいた。
「そういうことです。自惚れかもしれませんが、私はソコソコできる営業マンです」
「はい、わかります」
「朝から晩まで、頭脳フルパワーで働けば、なかなかの営業成績を出す自信があります」
「ははは。そりゃ、素晴らしい」と、太一は笑った。
「あははは。でも、上手くいかないんです」
「え?どうかしましたか?」
「自分の実力に気がついたのは、ほんの最近なんです」と、樺島さんはポツリと言った。「私は自分が、こんなに頭が回るとは知らなかった」
「はははは」と、太一は笑った。
「ははは」と、樺島さんも笑った。「遺失物捜索課は、勤務時間は長いし上司の命令もキツい。責任は重いし、命の危険もある。とても給料に見合わない。でも、楽です。やるべきことが、パッとわかります」
「明は、どうしてます?」と、太一は聞いた。
「挫けずに、Iris にケンカを打ってますよ。なんでも、今日からIris が増えているらしいです。あちこちで」
「それは、参ったな」太一は一瞬にして、気分が滅入った。
「でも、明は頑張ってますよ。隣で紗理奈くんが、『ボケ』とか『サボるな』とか『気合だ!』とか、檄を飛ばしてます」
「そりゃ、素晴らしい」あの二人は、つらい過去を語り合った仲だ。もはや、隠し事のない戦友だ。これも、とても楽なことなのだ。
「内藤も田口も吉元も、やる気まんまんです」
「本当ですか?」やる気がないことが、あいつらの自然体だった。やる気に満ちた彼らが、太一は想像できなかった。
「ええ。このフロアの廊下と、ホテルの出入り口をウロウロしてます」と、樺島さんは嬉しそうに言った。「山田さんは、朝から警察署に行ってます。警察に、私たちの護衛を依頼してます。午前中は話が進まなかったんですが、T大学のニュースが流れたら、近くの交番から若い警官が吹っ飛んできましたよ」
「それは、よかった」と、太一は心から言った。
「そちらは、大丈夫ですか?」樺島さんは、一転して心配そうに言った。
「100人の若者が、米軍の公式小銃を持って時計台にバリケードを築いている。機動隊は機動隊で、東京駅の借りを返そうとしている。つまり、戦闘意欲に満ちている。最悪ですね」
「また、戦争ですか?」と、樺島さんは怯えたように聞いた。
「いいや。今回は、サリンがあるから。本当かわからないけど、相手が核兵器を持っているようなものだから。両者とも、簡単には動けないと思います」と、太一は説明した。
のっぽさんが、太一のところに来た。いつになく、真剣な様子だった。指先で、「戻ってくれ」と合図をした。太一は無言で、大きくうなずいた。
「樺島さん。警察に、呼び出しを受けたよ」
「わかりました。気をつけてください」樺島さんは、ちょっと緊張して言った。
「行ってきます」とだけ、太一は言った。
銀杏の樹の下に、中年男たちが集まっていた。本吉さんは、今回も直立不動で立っていた。でも隣に、お洒落なスーツの痩せた男が立っていた。金縁フレームの眼鏡をかけた、都会派ヤクザみたいな男。間違いなく、エリートだろう。年齢は、四十半ばくらい。この大学出身かもしれないな、と太一は思った。
本吉さんが、淡々と避難完了の報告をした。彼は明らかに、金縁フレームの男を嫌がっていた。でもこの人が、彼の上司なのだろう。
「避難は済んだ。現場の指揮は、サイバーテロ部隊が取ると聞いているが・・・」金縁フレームは、さも不服そうに言った。彼は、一歩踏み出した。知能を自慢するかのような鋭い眼で、相対した稲村さんを凝視した。稲村さんも、負けじと睨み返した。同じ組織内で、縄張り争いを始めた。
「馬鹿野郎!」
志田さんが、突然ムキになって怒鳴った。彼は、銀杏に寄りかかって座ったままだった。彼は、機動隊の都会派ヤクザも、稲村さんも見ていなかった。彼は恐ろしい形相で、膝の上のノートPCを睨んでいだ。
「今、Iris が世界中でメッセージを発信してる!」と、志田さんはまた怒鳴った。
「ああ?」金縁フレームは、だから何だよ?という調子で志田さんを見た。その視線には、明らかに侮蔑が混じっていた。
「主要都市の大学に集まれと、視聴者に呼びかけてる!ニューヨーク大学、ロンドン大学、ベルリン大学、ローマ大学、・・・。今、始まったんだ」
「つまり、何が起こる?」太一は、彼に聞いた。
「世界中で、また学生運動を始める気だ。でも、今回はみんな武装してる」
「ここと同じことを、世界中でやろうとしてるのかい?」と、のっぽさんが言った。
「まさか・・・」と、稲村さんが言った。
「私には、よくわかりませんね」と、金縁フレームは全員を見下すように言った。薄笑いで、彼は辺りを見回した。彼にすれば、ハッカー崩れのサイバー部隊も太一たちも、愚かな大衆なのだろう。「何を、深刻そうにされてるんです?」
「おい、わからないのか?」と、稲村さんが呆れて言った。「これから世界中で、東京駅と同じことが起きるんだぞ?」
「私は、エビデンスのない問題に興味はない。妄想にかまけて、恐れを抱くのは迷信を信じるのと同じだ」
「お里が知れる、とはこのことだ」と、太一は言った。彼は、金縁フレームを睨みつけた。彼は久しぶりに、本気で腹が立ってきた。のっぽさんが、左手で彼を制した。
「あなたは、携帯会社の方でしたね」と、金縁フレームは太一に言った。「民間の方は、直ちに3km圏内の外に避難してください」
「あなたね」と、志田さんも彼を見た。「わからないの?あなたは自分で、ここで指揮を取る能力がないことを証明したんだよ」
「機動隊は、引き続き待機。サイバーテロ部隊から、指示があるまでだ」と、稲村さんが言った。
「待ってくれ」と、のっぽさんが発言した。
「この方は?」と、金縁フレームが本吉さんに聞いた。
「民間人です」と、本吉さんは答えた。
「部隊を、大学の外側にも展開してください」と、のっぽさんが深刻な表情で言った。
「というのは?」と、志田さんが聞いた。
「志田さんの話からすると、この大学にも暴徒が集まるかもしれない。Iris の指示で」
「げっ!?本当だ」と、稲村さんは言った。
「ゲリラ戦になります。相手は、野次馬の間から機動隊に攻撃を仕掛けてくる」
「ヤバい。そりゃ、そうだ」
志田さんも、のっぽさんの意見に同意した。金縁フレームと本吉さんは、完全に蚊帳の外だった。
「それから、全国の派出所や警察署にも、警戒体制を依頼してください」と、のっぽさんは続けた。
「警察を標的にした、無差別テロ?」太一も、先が見えてきた。
「あくまでも、推測だけど・・・」とのっぽさんは断った。
「ありえるよ。すぐ、手配する」と稲村さんは答えた。彼は、すぐ電話をかけ始めた。
「あなたね」と、志田さんはまた金縁フレームを見た。「エビデンスしか信じないヤツに、戦争はできない。あなたが凶器を拾ったとき、もう人は死んでるよ」
「・・・」金縁フレームは、志田さんを睨み返した。
「直ちに、あなたの事務所に帰りなさい。押収した証拠物品をジップロックに入れて、ナンバリングでもしてなさい」と志田さんは言ってから、本吉さんを見た。「本吉さん。この部隊はあなたが指揮を執ってくれ。私の部署から、正式に依頼する」
「はいっ!」
本吉さんは、勢いよく返事をした。金縁フレームを排除するのは、彼も賛成なのだ。
「さて。実は私も、次のアイデアがないんだけど・・・」と稲村さんが、太一に言った。さすがの彼も、ジョークは言わなかった。
情報が、続々と集まっていた。まず各国の大学で、篭城事件が発生した。犯人グループは、みんな銃を持っていた。北欧では、警察との銃撃戦が始まっていた。ベルリン大学では、駆けつけた警察官が地雷を踏んだ。その警官と、居合わせた気の毒な大学警備員が犠牲になった。
のっぱさんの、悪い予感は当たった。T大学を囲む機動隊が、火炎瓶の被害を受けた。不審なドローンが、彼らの真上を何台も飛んでいた。そいつらが、着火した瓶を落とすのだ。直撃を受けた隊員が一人、大火傷を負って救急車で運ばれた。
派出所襲撃も始まった。複数の実行犯が集まって、交番へ投石するケースが多かった。これならば、かわいいものだ。警官の前で、日本刀を振り回す者。裏口に回って放火する者。ヘルメットをかぶって野球のバットを持ち、集団で派出所襲撃を行う者。
幸い日本は、銃が厳しく規制されている。それでもこの国の治安組織は、一時的な機能停止に陥りつつあった。そして海の向こうアメリカでは、銃乱射事件が頻発し大混乱となっていた。
「もう、うちの部署の誰とも連絡が取れないよ」と、志田さんが嘆いた。「電話も、メールも、LINEもダメだ」
「回線が、パンクしたってこと?」と、太一は聞いた。
「いや、回線は大丈夫。でも、人間がパンクしたんだよ。おそらく、国内も海外からも問い合わせが殺到してるのさ」
「現代社会の弊害だ」と、のっぽさんが言った。「瞬時の情報伝達手段があるから、それが機能しないとすぐ不安になる。最初から、手紙を飛脚に頼む気ならパニックは起きない。世界の情報も、ひとまず知らないで済む。じっくり、考えることができる」
「飛脚ですか。なるほどね」と、稲村さんが笑顔を見せた。
「そのアイデア、いただきます」と志田さんは言った。部下を呼び、早速走り書きしたメモを渡した。「メモを、コンビニでFAXすりゃいい。アナログな手段は、かえって確実だ」
太一はいったん、頭を整理することにした。人間とは、多様な情報をきれいに整理して、簡単な情報に変換しなくてはいけない。そうしないと、まず現実を理解できない。現実を理解できないと、次のアイデアも思いつかない。実行の決断もできない。
「太一。雲を、真四角にするんだ。余分な情報は、切り捨てろ。涙を飲んで捨てろ」と、のっぽさんは言った。
「わかっています」と、太一は答えた。それから、稲村さんに話しかけた。「稲村さん。一番、効率のいい方法を取りましょう」
「へー。何ですか?」と彼はおどけたが、顔はビビっていた。今この瞬間にも、どこかで警察官が殺されようとしていた。殴られるのか?刺されるのか?斬られるのか?火だるまになるのか?
ガシャンという音がして、火炎瓶が道端に落ちて粉々になった。機動隊の隊列から、3mくらい離れたところだった。志田さんが、「下手くそで助かった」と言った。
「稲村さん。正しいことをしましょう」と、太一は言った。
「は?」と、彼は聞き返した。
「ええー?!」と、少し離れたとこで志田さんが声を上げた。
「あれこれ考えずに、自分が今『正しい』と思うことをします」と、太一はキッパリと言った。
「あのさ」と、稲村さんが呆れ顔で言った。「放送一回目で、打ち切られるドラマみたいなことを言わないでよ」
「稲村。とにかく、若倉さんの話を聞こうぜ」と志田さんは言った。
「みんなで、トム・クルーズになりましょう彼主演の映画のように、観客全員が納得できることしたい」
「なるほど。いいねえ」と、稲村さんが言った。「俺は、インタビュー・ウィズ・バンパイアがいいな。ブラット・ピットも出てた」
「クリスチャン・スレーターも」と、志田さんが言った。
「おい、太一。どうする気だ?」と、のっぽさんが言った。
「秋本直子さんを、助けに行きます」
「ええーっ!???」稲村さんと志田さんが、同時に大声を出した。「捕まえんじゃないの?」
太一たちは、次々に届く籠城犯の写真を見直した。取り憑かれたような表情で、M16を構える兵隊たち。でも秋本さんは、対照的だった。今も彼女は窓際の椅子に座り、沈痛な顔をしていた。
「彼女は、死ぬ気だと思います。今回の騒動が終わるときに」と、太一は言った。
「自分がずっと不幸なら、この世界など滅んでしまえ」と、のっぽさんが言った。
「な、なんですか?それ」と、稲村さんが聞いた。
「多分、それが秋本さんの考えていることです」と、太一が説明した。
「そうだろうな」と、のっぽさんが同意した。
「ならば?」と、志田さんが聞いた。
「彼女の命を救う。それが、正しいことです」
「大量殺人鬼でも?」と、稲村さんが聞いた。
「大量殺人鬼でも、です。なぜなら、彼女を助けないと、もっと死人が出るから。それは、悪いことです。人が死ぬと、事態はもっと悪いことになります」と、太一は言った。
「それで、いいと思うよ」と、のっぽさんは言った。
「はい。では、行ってきます」と、太一は言った。
「俺、ブラット・ピット」と、稲村さんが言った。
「じゃあ、俺はクリスチャン・スレーター」と、志田さんが言った。
「トム・クルーズは、のっぽさんがやってください」と、太一は言った。
「じゃあ、若倉さんは?」と、志田さんが聞いた。
「スタントマン、かな?」しばらく考えてから、太一は答えた。
稲村さんの案内で、彼と太一はいったん門の外に出た。稲村さんは大学前の通りに面した、古い三階建ての建物に入った。それは、大学の施設らしかった。中に入ると、稲村さんはすぐ地下室に向かう階段を降りた。
「ここは?」と、太一は彼に聞いた。
「話せば長いんだけどね」と彼は言った。階段を下りきると、目の前に鉄製の頑丈な扉が現れた。稲村さんと太一は、二人掛かりでそれを開けた。すると扉の先から、プーンとカビ臭い匂いが漂ってきた。細い廊下があり、心もとない暗い照明が壁に点いていた。
「始まりはね。太平洋戦争時の防空壕なんだ」と、稲村さんは説明した。
「なるほど。大切な蔵書を守ろうとしたんですね」と、太一は納得して言った。
「いや。守りたかったのは、軍事機密なんだけどね」
「ははは」太一は、苦笑した。
廊下は、とても臭かった。それから、天井がとても低かった。昔の日本人が、いかに小柄だったかわかる。私たちは裕福になり、食料事情も衛生状況も劇的に改善した。背が高くなり、勉強できる時間も増えた。けれど、自ら破滅しようとしていた。
「この道を使うと、事前にわかっていたら換気したんだけど」と、稲村さんは言った。「でも、若倉さんに電話もらって。すぐ、この状況だ。全然、時間がなくてね」
「すみません」と、太一は謝った。
5分くらい、その廊下を歩いたと思う。突然、廊下の造りが変わった。天井が高くなり、壁が両脇ともタイル張りになった。照明は天井に移動し、LEDの灯りが二人を照らした。
「ここはね」と、稲村さんが説明を始めた。「1960年代末に作られたんです」
「へえー」
「有名な学生紛争があって、学生が時計台に立て篭もったんです」
「そうでしたね」太一も、警察が放水する映像を見た記憶があった。
「事件後、政府が学校にこの廊下を作らせたんです」
「この廊下は、どこに向かってるんですか?」と、太一は聞いた。
「時計台の真下まで行きます。それから梯子で、時計台の最上階まで登れます」
「へー。そうなんですか」
「立て篭もった学生に対して、時計台の最上階から背後をつく策だったそうです。幸いなことに、それから深刻な篭城事件は起きませんでしたが」
「世界中が、白けた時代に入りましたね」と、太一は言った。「1960年代末は、マルクス主義を導入すれば全て上手くいくと思ってた。学生は、『大学解体』とか自己否定のようなスローガンを掲げてたが、本音はそうじゃない。マルクス主義の社会を作れば、みんな平等になれると思ってた。素朴に、みんな幸福になれると思ってた」
「若倉さんは、あの時代に詳しいの?」
廊下を歩きながら、稲村さんが聞いた。でも、彼の声は小声だった。二人とも、いつの間にか忍び足で歩いた。
「もちろん、あの時代のことは知らないです。生まれる前のことだから。でも、The Beatles とかあの時代の音楽が好きなので。当時の本は、結構読んでますよ」
「あれは、なんだったんだろう?」と、稲村さんが言った。彼は本当に、理解ができない様子だった。「自分が大学生なのに、大学解体って何なんだろう?何でマルクス主義なんだ?よくわからない」
「簡単に言うと、こうです。若者は、いつだって悩む。何かわかりやすいものに、すがって楽をしたい。わかりやすいものとは、絶対的なものです。絶対的なものは、時代によって変わる。フランス革命の頃は、自由だった。その後マルクス主義が誕生して、自由よりも平等が大切だとなった」
「なるほど」
「平等という言葉は、貧乏人ならすぐに飛びつく。今なら、格差社会の是正って話になる。意外なのは、平等という言葉が金持ちにも響いたことです」
「金持ち?マルクス主義で?」
「このT大学に通える学生は、当時ならば金持ちの子供じゃないとあり得なかった。なぜなら、一日十何時間も勉強するには、裕福でないと不可能だったから。貧乏な家庭の子供は、中卒で就職した。だからT大の学生は、裕福であることに引け目を感じてんたんです」
「ふーん」と、稲村さんは唸った。「実は、私もここの卒業生なんですけどね。そんな風に考えたことはなかったな」
「時代の問題設定が変わりましたね」と、太一は言った。「私たちの世代では、マルクス主義は無価値になった。手っ取り早い『絶対的なもの』がなくなって、私たちは『個人対社会」と考えるようになった。社会を変革するんじゃなく、社会に背を向けるようになった」
「うーん。まさに、村上春樹だね。初期の」と、稲村さんは言った。
「そうかもしれない」と、太一は答えた。「私たちの世代は、就職を嫌がった。もっと自由な生き方を探した。でもそれは、一億中流を実現したからだ。普通になれたから、『貧困を解決する』という問題設定を失った」
「若倉さん、あなた面白い人だね」と、稲村さんは言った。
「全部、のっぽさんの影響ですよ。あの、六十代の方です」と、太一は言った。
「あの人ね。最初、軍人かと思った」と、稲村さんは言った。「でもすぐに、逆の人だとわかったよ。組織の中じゃ、誰とも上手くいかない」
「そうなんです。だから、焼き鳥屋を経営してるんです」
「なるほどね」
廊下は突然、行き止まりになった。ページュ色の壁が、前も左右も塞いでいた。でも稲村さんは、正面左隅の壁を叩いた。コツコツッと。すると、人がやっと入れるくらいの幅で、壁が奥へと開いた。縦180cm、横30cmの隙間が現れた。その奥は、完璧な暗闇だった。
「忍者屋敷、みたいだ」太一は、びっくりして言った。
「俺を責めないでくれよ」と、稲村さんが答えた。「これが、1960年代のセンスだ。これでいいと思ったんだよ。当時の人はね」
太一も、現に存在するものを否定する気はない。まず稲村さんが、その隙間から中へ滑り込んだ。太一も、すぐに続いた。
臭かった。汚物の臭さではない。空気の臭さだった。稲村さんが、太一にマスクをくれた。太一も彼も、その暗闇の匂いに耐えた。
頭上を見ると、かなり上に微かな光が見えた。それは、小さな長方形の穴から漏れていた。暗いので、距離感が掴めなかった。あの明かりの差し込む場所は、何メートル上だろう?
「あの光が差す場所が、時計台のエレベーター地下一階になる。俺たちはこれから、梯子を登って一気に最上階まで上がる」と、稲村さんは説明した。
「梯子って?」太一は、彼にたずねた。
「これこれ」
稲村さんは、二、三歩歩いて何かを叩いた。太一も、彼のそばに行った。すると、暗闇の中に、黒い金属製の梯子があった。触ってみると、手にべったりと埃がついた。
「わっ、汚ねえ」太一は、慌てて手を引っ込めた。
「すまないねー。こんなことになると、昨日わかってたらね。ちゃんと、掃除しておいたよ」
「いいえ、いいです。すみません」と、太一は彼に謝った。「言い出したのは、全部私ですから」
「若倉さんって、本当にせっかちだよね?」
まず太一が梯子を登り、稲村さんが続いた。彼は小声で話した。でも無音の闇の中では、彼の声は鮮明に聞こえた。
「せっかちでは、ないんだけど・・・」と、太一は弁明した。「臆病なのは、間違いないです」
「若倉さんが、臆病?」と、稲村さんが半ばからかうように言った。
「臆病ですよ」と、太一は念押しした。「もっと悪いことになる、もっと悪いことになるって、いつも怯えてる」
「それって、一種の潔癖症だね」と、稲村さんは言った。
「そうかな?」
「若倉さん。あなたは内部に、明確な善悪の基準がある。目の前に現れた事実を、自分の基準に照らす。そうして判断している。動くか、動かないか」
「そんな、カッコいいもんじゃないですよ」と、太一は彼に言った。「ただ、・・・」
「ただ?」
「これは恥ずかしいんで、ほとんど話したことがないんだけど」
「はい」稲村さんは、どこか楽しそうだった。
「頭の中に、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父が住んでるんです」
「え?!何、それ?」稲村さんはびっくりして、ちょっと大きな声で言った。
「日常生活を送っていると、突然目玉親父が騒ぐんです。『鬼太郎、事件じゃ!』ってね」
「ほら、やっぱり」と、稲村さんが言った。「俺が言った通りじゃん」
「まあ、そうかも」渋々太一は、彼の意見を受け入れた。
二人は梯子を、微かな光に向かって昇った。小さな出口を抜けると、そこはエレベーターの上下する通路だった。エレベーターの箱が、ずっと上で停止していた。
「あそこが、最上階でしょう」と、稲村さんが言った。「あのフロアに、秋本さんがいる」
「まだ、20mくらい昇るの?」太一はもう、ヘトヘトだった。ヘビー・スモーカーの彼は、呼吸がつらくて大変だった。
「昇りましょう」と、稲村さんは答えた。
二人はまた、梯子に手足をかけた。しばらく、手足を動かすことに専念した。相変わらず、梯子は汚かった。太一はもう、ウンザリだった。だが、彼が落とした埃を浴びる稲村さんは、もっと大変だった。
「若倉さん」と、また稲村さんが太一に声をかけた。
「はい」
「あなたは、動機が善ならば、結果が悪でも許されると思う?」
「まさか!」と、太一はすぐ答えた。息を切らしながら。
「即答だね」稲村さんは、少し呆れて言った。「でも、悪の結果を全て否定したら、あらゆる革命を否定してしまうことになる。アメリカ独立戦争も、フランス革命も」
「それは、屁理屈だ!」と、太一はムッとして答えた。「稲村さんは、最終結果の民主主義が善だから、その過程の殺人や暗殺や戦争は免罪だと主張している。でも、それは間違いだ」
「ほほう」と、稲村さんは言った。「で、間違いの理由は?」
「自分が善だと、自分で決めてはいけないんです。自分が善か悪かは、他人に判断してもらうべきだ」
「へえー」
「だって、226事件の犯人だって、日本赤軍だって、ヒットラーだって、スターリンだって、ポルポトだって、いろんな軍事独裁政権だって、みんな『自分は善だ』と考えてるんです。自分の心は綺麗だと、自己評価してるんだ。でも、『自分は善だから、何をしても良い』とはならない。『人を殺しても良い』とはならない」
「なるほど」
「稲村さん」と太一は、彼に言った。「あなたは、Iris の話をしてるんでしょ?秋本さんの話をしてるでしょう?」
「うん。その通りだよ」と、彼は答えた。
「だとすれば、あなたは問題を見誤っている。秋本さんは確かに、『自分は善だから、犯罪者予備軍を殺してもいい」と言った。だがそれは、誰かからの借り物のセリフだ。彼女は、この社会を恨んでいるだけだ。『自分がずっと不幸なら、社会を破壊しても良い』。彼女が考えているのは、このことだ」
「・・・」
「でも彼女は、『自分は善だ』と言い張るだろう。結構だ。こっちだって、自分たちは正しいと思ってる。いいですか。善と善は、戦わなくちゃいけない。終わりのない戦いだ。新約聖書のアルマゲドンみたいに、決着がつくことはない。永遠に戦って、戦って、お互いに『自分の善』を磨くんだ」
「あなた、熱いね」と、稲村さんは言った。でも彼は、それなりに満足した様子だった。
「稲村さん」と、今度は太一が声をかけた。
「はい」
「何で、そんな話をするの?」
「若倉さんの意見を、確かめたかったんだ」と、彼は答えた。
「どうして?」
「ははは。恥ずかしいから、あんまり話さないんだけど」と、彼は言葉をゆっくり刻むように言った。「若倉さん。私には、目標がある」
「へー。それは、何ですか?」と、太一は聞いた。
「犯罪と、自殺と、戦争の削減」と、彼は答えた。「ゼロにするのは、無理だと思う。でも、減らすことは可能だ」
「そりゃ、すごい」と、太一は驚いて言った。「あまりに、スケールのでかい目標だ」
「いや、そんなことない」と、彼は言った。「犯罪一件、自殺一件、未然に防げばいい。風呂敷を広げず、コツコツやればいい」
「確かに。コツコツだ。私も、賛成しますよ」
「若倉さん」と、稲村さんは真面目な口調で言った。「実は私も、社会を恨んでた」
「本当に?」
「ハッカーだったからね。ハッカーで、社会を恨んでいないヤツはいないよ。あなたの言う通り、『自分が不幸なら、社会も不幸になれ』と思ってた。復讐だよ。世界中のシステムを破壊して、スカッとした気分になってた」
「そうですか・・・」
「当時ロサンゼルスに住んでて、警察に捕まった。でも、捜査協力を条件に釈放された。自分のハッキング手口を白状して、別のハッカー逮捕に協力した」
「はい」
「最初はね、仲間を売ってるような気分だった。でもね、逮捕されたハッカーにお礼を言われてね。考えが変わった」
「捕まえて、お礼?」太一は、彼の言うことがピンと来なかった。
「いやね。『君のおかげで、やっと止められたよ』って、みんな言うんだ。つまりね、社会を恨むのは、すごくエネルギーを使うんだ。グッタリ疲れる。それから、キリがない。だから、止めて正解なんだ」
「正しいほうが、効率的だ・・・」太一は、樺島さんの言葉を引用した。
「そうだよ。その通りなんだ」と、稲村さんは声をうわずらせた。「秋本さんは、疲れてる。自暴自棄になってる。それは、間違いない。彼女を止めるべきだ」
「まったく」と、太一も同意した。
「アンチハッカーとして、警察で働き始めた。そしたら今度は、国家対国家の情報戦に巻き込まれた。特に、先端の軍事技術。それから、軍と軍備の最新状況、だね」
「そうなんですか?」
「ああ。すごいね。アメリカと、中国。この国は別格だね」
「へえー」太一は、感心して話を聞いた。
「でもね。すぐ、バカバカしくなった」
「それは、何で?」
「こんなの、縄張り争いと、メスという資源の取り合いじゃねえかってね。人間は、あるゆる動物と同じことをしてるだけだよ」
「なるほど」
やっと、ゴールが見えてきた。エレベーターが停まっている、最上階に到着しようとしていた。
「説得は、若倉さんにお願いするよ」
「え?」
「俺、実は女の子が苦手なんだ。大丈夫なのは、カミさんだけ。若い女の子と、何を話せばいいかわかんないよ」
「いや、それは俺だって・・・」太一は、彼に抗議したかった。自分だって、女の子は苦手だ。自分を嫌う人を、また一人増やすだけだ。
「静かに!」と、稲村さんは小声で言った。「エレベーターの裏から、廊下に出る。しばらく私語禁止だ」
二人は、忍び足で廊下に出た。マスクを外して、呼吸を整えた。それから、左右の靴を脱いだ。靴を片手に、壁を背にして周囲をうかがった。運が悪けれは、M16 で蜂の巣だ。
それもいい、と太一は思った。希美ちゃんには、のっぽさん紹介した。仕事は、樺島さんがやってくれる。そして秋本さんは、私の死体を見たら何かを思うだろう。悪くはない。
だが、と太一は思った。どうせならば、もう少しやってみたい。いやいや、さらにやりたいことがある。酔っ払いが、飲み屋でお代わりを頼むように、太一にはアイデアがあった。失敗か、成功か。わからない。でも、賭けてみる価値はある。
廊下には、誰もいなかった。扉は、四つ。一つは、倉庫だった。残りの三つを、太一と稲村さんは、順番に開けた。最後の部屋に、秋本さんがいた。彼女は窓際ではなく、四人掛けの応接セットの椅子に座っていた。少し離れた窓の前に、偉そうな大きい執務机があった。この部屋は、教授用の個室らしかった。
「秋本さん。こんにちは」太一は、ごく自然に挨拶した。
「あら、来たの」
秋本さんはちらっとだけ、太一と稲村さんを見た。意外にも、彼女は驚かなかった。それから彼女は、とてもつまらなそうだった。というより、何かを諦めた様子だった。今日の彼女は、黒い薄手のワンピースを着ていた。半袖で、ロングスカート。秋本さんは髪を、白いシュシュで束ねていた。まるで、喪服姿だった。太一は、少し作戦を変えることにした。
「ねえ。カリオストロの城は、見たことあるかな?」と、太一は聞いた。
「あるよ」と、秋本さんは答えた。でも、彼女はこちらを見なかった。足元に、視線を落としたままだった。「子供の頃から、何回も。結構、好きだよ」
「君は、クラリス」と、太一は言った。
「え!?」
「俺たちは、君を助けに来たおじさんだ」
「稲村です。若倉さんと、同い年です。よろしく」と、彼は挨拶した。
「逮捕するんじゃないの?」と、秋本さんは答えた。彼女はやっと、太一と稲村さんを正面から見た。
「秋本さん。実はね、まず君に、お礼を言いたかったんだ」と、太一は告げた。
「あん!?」彼女は、変な声を出した。
「秋本さん。君は、俺にいろんなことを気づかせてくれた。とても、考えさせられたよ。その上君は、つらい秘密の話も教えてくれた。すごく感謝しているよ」
稲村さんが、隣で仰天していた。太一を、「何言ってんだコイツは?」という目で見た。
「そう。よかったね」彼女は、乾いた口調で言った。「でもね。無駄だから」
太一と稲村さんは、最初扉のそばに立っていた。でも、「お邪魔します」と断って部屋を奥へ進んだ。秋本さんのそばまで行き、「失礼」と断った。太一と稲村さんは、秋本さんの向かいの椅子に座った。
「今の法律では、君は罪に問われないと思う」と、太一は言った。彼はソファに浅く座り、両腕を膝の上に乗せた。真剣に、ゆっくり焦らずに、彼は話すつもりだった。
「こんな犯罪は、まだ検討されていないんだ」と、稲村さんがフォローしてくれた。
「むしろ俺は、君のことが心配だ。今日の君は、明らかに元気がない。さらに、勝ち目のない武装蜂起をしている。メチャクチャだよ」
「あのねえ」と、秋本さんはイライラした様子で答えた。「私はね、在庫一斉セールをしてるの」
「在庫とは、Iris が飼っている犯罪者予備軍のことかな?」と、稲村さんが聞いた。
「そうだよ」
秋本さんは、不貞腐れた顔をしてうつむいた。彼女は、沈んでいた。顔色も悪かった。睡眠不足は、間違いない。そして何より、不吉な覚悟が見て取れた。
「・・・」
太一が黙っていると、稲村さんが肘でこづいた。太一は、作戦を練り直した。さあ、脳をフル回転させろ。答えを出せ。
「世界中で、たくさんの人が死ぬよ」と、秋本さんはつぶやいた。「私はお子ちゃまだから、人の死に、動揺しないの。平気なの。そうでしょ?」
「もう少し、教えてくれないかな?」と太一は、落ち着いて秋本さんに聞いた。「君は、心にあることの犯罪性を問題にしている」
「何それ?」逆に、彼女が質問をした。
「君は犯罪をしようとしている人を、Iris を使って集めている。だが、立ち止まって考えてみよう。犯罪をしようとしている人は、犯罪者じゃない。心に犯罪をしよう、という思いがあるだけだ。だから、まだ普通の人だ。でもlris は、普通の人を殺している。普通の人だけど、心の意思があるから罰している」
「・・・」秋本さんは、強張った表情に変わった。太一は、話を続けた。
「断っておくと、君と同意見の人はとても多い。『最近、アブないヤツが多い。そんなヤツ死刑にしてしまえ』とか、『アブないヤツが罪を犯さないよう、刑法を厳罰化しよう』とか、『死刑を増やせば、アブないヤツが罪を犯さなくなる』とかね」
「・・・」秋本さんは、太一をじっと見た。睨んでいるのが半分、戸惑いが半分に見えた。
「この考えに共通しているのは、『アブないヤツは、最初から最後までアブないヤツだ』という発想だ。秋本さん。君も、そう考えている。だから、Iris を使って『アブないヤツ』を処分しようと考えている」
「ふん」とだけ、彼女は言った。大袈裟な仕草で、ぷいと横を向いた。
「実は、俺はわかるんだよ。君の気持ちが」と太一は、一語ずつゆっくりと話した。「というのは、若い頃は俺だって『アブないヤツ』だったから」
「・・・」
秋本さんは、横を向いたまま何も言わなかった。でも、彼女の瞳は動いた。微かだけど、瞳は揺れた。太一は、そんな彼女の仕草を見届けた。それから、話を再開した。
「俺は、醜男だ。女の子にモテないし、友だちも少なかった。中学校のときはイジメられた。人間が、嫌いになった。この世が嫌いだった」
秋本さんが、太一を見つめた。驚きと、憐れみが混じった視線だった。稲村さんも、同じように太一を見た。
「俺だって、Iris を作ったかもしれない。でも俺なら、犯罪予防のために作らない。純粋に、破壊を目的にする。復讐だよ。不幸な人間が、世の中の人に復讐するんだ。そして、自分も滅ぶ。できる限り、多くの人を巻き添えにして」
外は、不気味なほど静かだった。M16部隊と機動隊は、じっとして睨み合っているだろう。だが、じっとしていることは極度の緊張を強いる。悪いことばかり考えて、不安になるのだ。その高ストレス下で、兵士は戦う。忍耐の限界に達したら、武力衝突が始まる。ここでも、他の都市でも。
急がねばならなかった。でも、急ぐべきではないとも思った。ここでボタンをかけ違えたら、取り返しのつかない事態になる。人が何人死ぬか、想像もできない。だから、慎重にことを進めねばならない。太一は、そう考えた。
「だから、わかるんだよ。俺は、秋本さんの気持ちがわかるんだ。君の怒りや、絶望感や、孤独感がわかるんだ。もちろん、君と俺のつらさはちょっと違うかもしれない。でもね、とても似ているんだよ?秋本さんと、俺はよく似ているんだ」
太一は、ここで言葉を切った。秋本さんは、そっぽを向いたままだ。だが、彼女の表情は強張ったままだ。太一には、彼女は決壊寸前に見えた。考えは、変えてほしい。でも決壊して、ヤケクソになられても困る。だから太一は、用意していた次のカードを切った。
「でもね。秋本さんは、すごいよ。偉いと思う」
「えっ!?」と、秋本さん。
「え!?」と、稲村さん。二人とも、意表を突かれた。明らかに困惑した顔で、太一へ視線を向けた。
「Iris を作るなんてすごいよ。俺には思いつかない。学生時代の俺は、何もしなかった。部屋にこもって、エロ動画を見ているだけ。上手くいかないことを、全部人のせいにして、世の中を恨んでただけだ」
「・・・」
「でも、秋本さんは違う。世界中から、一万人も仲間を見つけて。すごいよ。とても俺には、そんな才能もパワーもやる気も魅力もない」
「そんな・・・、そんな、大したものじゃないよ・・・」秋本さんは、ボソッとそれだけ言った。
「ねえ、秋本さん。君は傷ついて、世界を恨んでいる。絶望と孤独のせいで、自爆テロみたいなことをしている」
「・・・まあ、そうかも」そう答えて、秋本さんは太一へ向き直った。彼女の目は、まだ不安そうだった。視線は、焦点が定まらなかった。
「だけどさ。その『世界への恨み』に、ちょっとだけ手を入れないか?」
「えっ!?」
「その負のエネルギー、莫大なマイナス・パワーをいじってみようよ。きっと君は、すごいことができるよ」
「・・・」
「君は、あの Iris を作れる。ということは、同じくらいすごいシステムを作れるはずだ」
「やだよ」と、秋本さんは答えた。でも彼女は、久しぶりにちょっとだけ笑った。
「ねえ、秋本さん。君と一緒に、じっくりと考えてみたい。『アブないヤツ』のことだよ」
「???」秋本さんは、また不思議そうな顔をした。
「『アブないヤツ』は生きている。当たり前だけどね。だから、Iris は彼らの人生はいじくっている。彼らに、優しく助言する。いくらでもね」
「ふうむ」
「ここで大事なポイントは、他人の人生をいじくれること。運命は、変えられるんだ。Iris が、それを証明している。秋本さんは、そのことを知っている。人生は変えられるって。いくらでも」
「あんたさ、本当に変な人!」と、秋本さんは今度は吹き出した。「あんたが、『アブないヤツ』だよ」
「そうかもね」と、太一は同意した。「それでは、20世紀で一番『アブないヤツ』の話をしよう」
「だあれ?それ」彼女は、くすくすと笑いながら聞いた。よし。機嫌が治ったぞ。
「ヒットラーだよ」と、太一は言った。
「へ!?」稲村さんが、びっくりして変な声を出した。
「ヒットラーは、勉強ができなかった。学校を中退してブラブラしていて、美術学校を受験したけど不合格だった。さらに、十代で父、母と相次いで死別している。彼は有名な著書『我が闘争』で、母の死以来私は泣いたことがないと書いている。それだけショックだったということだ」
「ふうん」と、秋本さんはうなった。
「こんな話して、大丈夫かな?」
「いいよ」と、彼女は言った。「続きを聞かせて」
「・・・ヒットラーは、ドイツに移住してオーストリアの兵役から逃げたそうだ。でも第一次世界大戦が始まったら、当時のバイエルン陸軍に志願して入隊した。彼は勇敢な兵士だったそうだ。六回も、勲章をもらっている」
「へえー」
「でも、私はこう考えている。ヒットラーは、勇敢だっただけじゃない。彼は、死に場所を求めていたんだと」
「何で?」
「彼は、小学校しか卒業していない。20代半ばになって、定職もない。彼の将来は、真っ暗だったと思う。当時のヒットラーは、まさに『アブないヤツ』だった。自暴自棄になって、何をするかわからなかった」
「うん」
「彼は突破口を、右翼活動に見出してしまった。彼は、優れたパフォーマーの才能があった。雄弁家で、若くしてカリスマ的な魅力もあった。彼はその才能を、共産主義や成功したユダヤ人やスラブ人やベルサイユ体制を押し付けたフランス人たちに向けた。彼らを憎み、激しく攻撃する演説を得意とした。彼は戦後すぐに、右翼活動家たちから高い評価を受けた。たちまち、人気者の演説家になった。彼はきっと、褒められて嬉しかったと思う。彼はナチズムに、自分の居場所を見つけてしまった」
「うーん、そうかもね」と、秋本さんは言った。
「ねえ。俺は思うんだ。もし1918年に、ヒットラーのそばにいたらってね」
「えー。何で?」秋本さんは、また声を上げて笑った。
「俺は、ヒットラーを止められたかもしれない」
「ぎゃははは」秋本さんは、爆笑を始めた。稲村さんまで、笑った。
「悪いけど、俺は正気だよ」と、太一は言った。
彼は、川島のことを考えていた。俺は、川島を止められた。なのに、止めなかった。できなかったんじゃないんだ。俺は、鈍感だった。さらに俺は、川島から逃げた。太一は、胃液が逆流したような苦さを覚えた。またかよ、と彼は思った。でも、俺は知ったんだ。川島から、学んだんだ。
「俺が言いたいのは、ヒットラーだって止められるってこと。俺ならできる」
「あははは」秋本さんは、まだ笑っていた。
「俺なら、彼に俳優になるよう勧める。彼のカリスマ的パフォーマンスと演技力があれば、人気俳優になれただろう。右翼活動ではなく演劇で、人々を勇気づけ、救えたと思う。だって彼は、国民の圧倒的な支持を得て、選挙で勝利したんだから」
「・・・なるほど、な・・・」稲村さんがポツリと言った。秋本さんは、笑うのをやめた。
「最終的には、こうなる。『アブないヤツ』のために、死刑も厳罰も要らない。罪を犯す前に、殺す必要もない」
「ふふん」と、彼女は鼻を鳴らした。
「ヒットラーの頭にある、毒を消す。彼に近づけば、彼がもっとわかる。彼も、俺がわかる。俺が『アブないヤツ』だって、ヒットラーは理解する」
「・・・」秋本さんは、プイと横を向いた。靴を脱いで、応接椅子の上に乗せた。膝を引き寄せ、両腕で抱えた。
「だから、俺の結論はこうだ」と、太一は強い口調で言った。「君のIris は、致命的に間違っている。アブないヤツ同士の共食いなんて、まったく無意味だ。かえって犯罪を増やしているだけだ」
「ふん」彼女は、少し怒った顔をした。でも同時に、泣きそうな素振りも見せた。
「でもね。君にどうしても伝えたい。俺は、君の弱さが好きだ。君の危うさや、間違いが好きだ」
「同情は、お断りします!」と、彼女は声を荒げた。「私はもう、生きる気がないの。だから、今日でお掃除を済ませるの!」
「もう少し、話を聞いてくれないか?」と、太一は頼んだ。「好きな理由はね。俺は、秋本さんの才能を知ったからだ。ものすごい、素晴らしい才能を知ったからだ」
「・・・」秋本さんは、またダンマリに入った。
「秋本さん。君は大丈夫だ。今日で店仕舞いなんて、とんでもない!いくらでも、やれることがある。やるべきことがある。君はもっと、すごい人になれるんだよ?もっと、パワーアップできるんだよ。俺は、そう確信している」
「・・・」彼女は、まだ黙ったままだった。秋本さんは膝を抱えたまま、顔だけ太一の方へ向けた。彼女は、無表情だった。
「俺は、君のことがわかる。君のつらさもわかるし、君の可能性や創造性もわかる」
「ふんっ!」秋本さんは、また不機嫌になった。顔を両膝に、押し付けるように埋めた。
「君の身体のことも、わかる。俺だって、いろいろあって傷ついたから。だから、わかるんだ」太一はふと、自分の両腕を見た。それから両肩をぐるりと回し、胸を張った。左右の腕に、力を入れた。
「俺たちは、君を助けに来たんだよ」と、太一は彼女に話しかけた。「もう、大丈夫だ。今日をもって、もう淋しくなることはない」
三人とも、しばらく何も言わなかった。太一は、全然気にしなかった。いくらでも、時間をかけていいことだ。彼は、本気でそう考えた。
「・・・・本当?」秋本さんは、急に弱々しくなった目で太一を見た。彼女を、傷つけることを言ったかもしれない。でも、これでいいんだ。
「秋本さん」と、太一は言った。
「うん」
「お願いが、二つあるんだ」
「・・・んんん・・・?!」彼女は、途端に身構えた。でも彼女は、太一から目を逸らしはしなかった。
「一つ目は、Iris のこと。アレを、世間に公表してほしい」
「え!?」秋本さんは、息が止まったような顔をした。
「ヘ!?」稲村さんも、隣で変な声を出した。
「Iris の目的と仕組みについて、君が発表してほしい。記者会見を開いて、全世界に発信してほしい」と、太一は言った。
「・・・あなたが、やればいいじゃん・・・」と、彼女は不平を言った。「私が、する必要ないでしょ」
「いや、あるんだ」と、太一は言った。「君でなくちゃ、悲しみが伝わらない」
「何!?」と、今度は稲村さんが声を出した。
「なんで?!」秋本さんは、ムッとした表情をした。
「それは、二つ目のお願いと重なる。二つ目は、秋本さん、君が女でも男でもないことを発表してほしい」
「・・・!?」彼女は、両目を見開いた。隣では、稲村さんが固まっていた。彼は首だけ、太一の方へ向けていた。
「つまり、君の秘密を世間に晒してほしい。とてもつらいと思うけど、やってほしい。Iris のことも、君の身体のことも、君自身が語ることに意味があるんだ」
「・・・やだよ・・・」秋本さんは、小さな声で答えた。でも、彼女の狼狽は明らかだった。彼女はまた、視線を床に落とした。斜め左下の床を見つめ、そこに転がった言葉のかけらを探していた。
「安心してほしい。記者会見では、俺が君の隣に座る。反対側には、稲村さんが座る」太一は、稲村さんが自分を睨むのを感じた。「君は、発表だけすればいい。記者からの質問は、俺と稲村さんが全部答える」
「・・・ホント?・・・」
「ホントだよ」と、太一はあっさり答えた。
「くだらない質問をする記者や、君を傷つけるヤツがいたら、俺と稲村さんがそいつをボコボコにする」
「あ、いやさ・・・」稲村さんは、乗り気ではなさそうだ。でも太一は、気力体力とも充実していた。
「なんで?」と、秋本さんは大きい声で言った。「なんで、そんなことするの?」
「どうして?」太一は、彼女に聞き返した。
「だってさ、私たちは会うの二回目だよ?おまけに私は、太一さんに酷いことしかしてないよ。なんで、そんな、そんな、優しいこと言うの!?」秋本さんの声は、さらに大きくなった。それから徐々に、震え出した。彼女は、とても怒っていた。自分の腹の底にあるものを吐き出して、怒りにまかせて怒鳴っていた。困惑して、怒鳴っていた。
「二回会えば、十分だよ」と、太一は答えた。「俺は、君を理解したよ。だから、秋本さん。君も、俺を理解してほしい。それから、自分自身も知ってほしい」
「自分を、知る?」秋本さんは、変な声を出した。
「傷の在処(ありか)を知ること。傷のカタチを知ること」と、太一は答えた。
「え?!」
「人は普通、自分の傷を直視しない。傷から目を背けたり、何かで覆って隠したり、傷のことを考えないようにする」
「ふうん」と、秋本さんは訝しげな表情でうなった。
「でも、どんなに頑張っても、どれだけ耐えても、『傷に慣れる』ことはないんだ。放っておいて、傷が治ることもない。ならば、自分の傷の在処と、そのカタチを一度つかんでみることだ」
「やだよ。そんなの」と、彼女は答えた。
「そりゃ、そうだよね」
俺だって、昔はそう考えた。と、太一は思った。でも、のっぽさんが隣にいた。彼は、諦めなかった。必死になって、太一を説得してくれた。きっとのっぽさんは、説得失敗なんて考えなかったろう。勝利しか、頭になかった。親友とは、そういうものだ。
「でも、やってもらう」と、太一は断言した。「絶望的な状況になるほど、俺は燃えてくる。解決策を、誰も思いつかない解決策を、見つけるんだ。絶対に、上手くいく方法だ」
「それでも、ヤダって言ったら?」言葉と裏腹に、秋本さんの表情は和らいでいた。。頬に赤みが戻ってきた。彼女は次第に、微笑みを浮かべた。
「ダメ!」と、太一はぴしゃりと言った。言いながら、秋本さんの両目をしっかりと見つめた。太一も自然に、笑っていた。
「あはは。わかったよ!」と、彼女はふざけた調子で言った。両手で、ソファをパンパンと叩いた。それから彼女は、太一の右腕もパシっと叩いた。二人はお互いを見つめて、にっこりと笑った。この意味は大きい。「触れること」と、「それを受け入れること」は、時として言葉より重要になる。
「全然、ついていけないんだけど・・・」と、稲村さんが割って入った。「なんか話が、まとまったみたいだからさ。Iris も、止めてくれないかな?」
「まー、そうだね。止めよーかな?」と、秋本さんは軽いノリで言った。
「世界中の警察が、Iris チームと衝突寸前だ」と、稲村さんが訴えた。
「そうしましょう」と、太一も同意した。
秋本さんは、iPhone を手に取った。それから、さささっと指を画面上で滑らせた。次に、両手でiPhone をしっかり握った。両手の親指で、キー入力を始めた。
「ちょっと、待ってね。すぐ、止めるから」と、彼女は言った。でも次第に、「あれ、あれ、あれ、・・・」と言い出した。
「どうしたの?」と、太一は聞いた。
「おかしいんだけど・・・。私の権限が、減らされてるみたい・・・」
「それは、つまり・・・?」と、稲村が彼女の iPhone を覗きながら聞いた。
「admin権限を、失ったらしいの。プログラムの書き換えくらいはできそうだけど、動作中のプログラム停止はできないみたい・・・」
ダダダダ・・・。
階下から、けたたましい銃声が聞こえてきた。本物の、M16の音だった。誰かが、引金を引いてしまった。すると、次から次へと、爆音を重ねるようにマシンガンの速射が続いた。
「やべえ・・・」稲村さんが、そううめいた。「全面、衝突だぞ・・・」
「Iris が、攻撃開始を命じてるの」と、秋本さんが言った。今度は彼女は、すっかりしょげていた。
「ねえ。止められない?攻撃停止を、命じるとか?」と、太一は秋本さんに聞いた。
「Iris の、真似はできると思う。でも、Iris が発信するメッセージを止められない」と、彼女は訴えた。
「くそっ!合理的な判断か」と、稲村さんが言った。
「え?」と、秋本さん。
「Iris は、この状況を自己分析した。その結果、一番合理的に判断できるのは Iris 自身だと判断したんだ!」そう、稲村さんが叫んだ。
「ねえ。この私が、わかんないんだけど」と、秋本さんが聞いた。
「2001年、宇宙の旅だ」と、太一は言った。
「スタンリー・キューブリック」と、稲村さんが答えた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン!!
階下から、窓ガラスが何枚も割れる音がした。三人はそろって、窓へ駆け寄った。そして、外の様子をうかがった。遠くに、機動隊の盾がズラリと並んでいるのが見えた。その盾の後ろから、次々にミサイルが発射された。ミサイルのように見えたのは、実は催涙弾だった。機動隊は、ヤケクソになって催涙弾を撃ちまくった。
「ぎゃああああああああ」
「ひいいいいいいいいい」
「痛えええ、痛ええええよおおお」
下の階から、みんなの悲鳴が聞こえてきた。きっと、目に激痛が走っているはずだ。負けじと、M16が乱射される。報復に、報復が重なる。おそらくもう、機動隊員に犠牲者が出ているだろう。太一も、稲村さんも、息を飲んで動けなくなった。最悪の事態が始まった。そしてこれは、世界中でも始まっているのだろう。攻撃開始だ。
「ねえ。キューなんとかって、なあに?」秋本さんだけ、緊張感が一切なかった。
「キューブリックの、2001年宇宙の旅はね」と、律儀な稲村さんは映画の解説を始めた。「木星探査の、宇宙船の話なんだ」
「うん」
「宇宙船には世界最高のコンピュータ、HAL が乗っていた。人工知能を持つ HAL は、こう考えた。『この木星探査で最高の結果を得るためには、自分が指揮を取るべきだ』ってね」
「なんで?」秋本さんは、どこか無邪気に質問した。
「自分こそが、この宇宙船で最も合理的な判断ができるからだよ。でも乗組員は、HAL が故障したと考えた。すると HAL は、じゃまな乗組員の殺害を始めるんだ」
「つまり、今の Iris は HAL と一緒ってことね」
「そうかもしれない」と、今度は太一が答えた。
「私を捨てて、自分勝手にやる気なのね」と、秋本さんは言った。その言い方は、おもちゃを取り上げられた子供みたいだった。「そんなの、許せない!」
絶え間なく、銃声が鳴り響いた。銃は、時計台側からだけ撃たれた。機動隊側は、まだ銃は使わなかった。代わりに、催涙弾がやたらと飛んでくる。目の見えなくなった兵隊たちが、めくらめっぽうにM16を撃ちまくる。どこから見ても、出口がなかった。
武力衝突とは、ゲームである。プレーヤーは、短時間の戦闘と長時間のそれを組み合わせて戦況を判断する。短時間の場合、相手が手を出したらやり返す。手を出さなかったら、しばらく何もしない。機を見て、一気に攻勢に出る。だが長時間戦闘の場合、兵站が最大の問題となる。兵站とは補給である。まず、武器、弾薬、燃料。次に、交代要員(交代がいれば、休憩・睡眠が取れる)、水・食糧、酒、・・・。
もちろん時計台側に、補給ルートの準備はない。世界中の大学でも、同様だ。つまり治安機関の方が、圧倒的に優位なのだ。そこでIrisは、あちこちで警察にゲリラ戦を挑んでいる。日本全国の警察は、散発的に攻撃されて機能不全に陥る。上は、全体の状況を把握できない。下は、上の指示待ちで動けない。
「Iris は、何を考えていると思う?」稲村さんが、太一に聞いた。
「秋本さんがIrisに教えたのは、殺人だ。さらに言うと、犯罪の抑止だ。そうだよね?」と、太一は聞いた。
「うん、そう。実は、シンプルなことしか教えてない」と、彼女は答えた。
太一は話しながら、廊下へ出るドアを開けた。開けた瞬間に、催涙ガスの煙が部屋に侵入してきた。
「ひゃーっ!」と、秋本さんが悲鳴を上げた。
「こりゃ、煙が引くまで無理だ」稲村さんが、涙目で言った。太一も、一瞬煙に包まれた。二人とも、しばらく泣いた。閉めた扉のそばに座り、涙と痛みが過ぎ去るのを待った。
「ねえ。これからどうなるの?」と、秋本さんが聞いた。彼女は、催涙弾の被害が最小限で済んだ。
「俺は、こんなことを思いついたんだ」と、太一は目をパチパチさせながら言った。涙も、ポロポロと頬を伝った。「目的を、殺人より犯罪抑止においてみよう」
「ふむ」と、秋本さんがうなった。
「そうすると、どうなるんだ?」と、稲村さんが答えを急かした。
「つまりね。発想の逆転をしてみる。すると、こうなる。『もし治安機関がなくなれば、犯罪もなくなる』」と、太一は言った。
「えーっ、何それ!」と、秋本さんが頬を膨らませた。「そんなの、私が認めないよ」
「リーダーとなったIris が、最も合理的に判断したら?世界中に潜むIris 信者より、目に見えて攻撃しやすい治安機関の破壊を選ぶ。そういうこと?」と、稲村さんが言った。
「その方が、明らかに効率的だ。短時間で、相手を殲滅できる」
「詭弁だよ。そんなの!」と、秋本さんが言った。彼女は完全に、ヘソを曲げてすねていた。つまり彼女は、ただの子供だった。今日、Iris のせいでたくさんの人が死ぬ。そのことが、どれだけ恐ろしいか?彼女は、想像力が働かないのだ。それが彼女の限界だった。でも太一は、そんな彼女を守ると決めた。
「飛んでいる矢は止まっている、だよ」と、稲村さんが秋本さんに言った。「Iris はどうやら、あなた無しで生きていくつもりだ」
「ふん!」と、秋本さんは機嫌悪そうにうなった。
「治安機関がなくなれば、殺人が横行する。でも、殺人罪はなくなる。これが、合理的な推論か」と、稲村さんは天井を見上げた。
「数日もすれば、世界中の治安機関は壊滅的なダメージを受ける。立て直そうとしても、Iris が阻止する」と、太一は説明した。
「で、どうする?」稲村さんは、もう太一に頼っていた。
「志田さんたちと、連絡は取れる?」と、太一は聞いた。
「ははは、もうダメだよ」と、彼は言った。「数分前から、スマホが繋がらない。多分、通信各社のサーバーがダウンしたんだ」
「えー?私のは、繋がってるよ」と、秋本さんは頬を膨らませて言った。
「私のも、大丈夫だ」と太一は、スマホを出して確認してから言った。
「ええっ?すると、つまり・・・」
「治安機関の回線だけ、停止した・・・」と、太一は言った。
「・・・」稲村さんは、黙り込んでしまった。とにかく、志田さんや警察各部門と連絡が取れない。通信手段の遮断は、戦争において有効な戦術だ。
「ちょっとー!おじさんたち、しゃべってるだけで手が動いてないよ」と、秋本さんが不満そうに言った。
銃撃は、断続的に続いていた。そっと窓から覗くと、機動隊は銀杏並木を、半分くらいまで前進していた。まさか、ここへ突撃する気なのか?彼らは、指揮官の本吉さんと連絡が取れているのだろうか?
「通信手段を奪われると、私たちは不安になる」と、稲村さんはのっぽさんのセリフを繰り返した。「おっしゃる通りだ。伝言は、飛脚に頼むか」
「ねえ。合理的な思考に対抗できるのは?」と、秋本さんが生徒に問題出すように言った。
「ごめんなさい。先生、全然わかりません」と、太一は素直に答えた。
「バカじゃないの!合理的思考には、非合理的思考に決まってるでしょ」と、彼女は言った。
太一は、心臓が止まるかと思った。呼吸が、いったん停止した。でもすぐに、深呼吸できた。酸素が、頭を駆け巡った。閃いた、アイデアが。「なるほど。その通りだ」と、太一は言った。
「なんだって?!」稲村さんが、裏返った声で聞いた。
「よし。その、白いカーテンを外そう」と、太一は二人に言った。彼は、一人で納得していた。「それから、カーテンレールも。カーテンレールに、白いカーテンを巻こう」
本吉さんは、機動隊の最前列にいた。後方にいては、隊員と通信が取れないためだ。彼は、上司と連絡が取れず困惑していた。とにかく、この現場を鎮圧しよう。荒っぽい手段も、やむを得ない。そんな気分になっていた。
そんなところへ、時計台のバリケードから男が一人出てきた。彼はジーパン姿で、銃は持っていなかった。ヘルメットを被り、マスクをした彼は、両手に握っている棒を頭上に掲げた。それは、白くて大きな布だった。男は、白い布を左右にゆっくり振った。
「えっ?!」
機動隊の誰もが、我が目を疑った。まるで、降伏の白旗ではないか。
「まさか?!そんなバカな」
本吉さんは、白い布が示すものが理解できなかった。指揮官が判断に迷い、機動隊は動けなくなった。
さて時計台の中も、大騒ぎだった。なぜなら、秋本さんがサリンを携帯するよう指示したからだ。
「銃は捨てて。身軽になって、一階ロビーにある、500mlのペットボトルを持って。テーブルの上に、200本以上あるから。一人二本持って!」
彼女の指示に、みんな即座に従った。一階ロビーの自販機の前は、サリンを求める長蛇の列ができた。だが幸い、警察の攻撃はなかった。稲村さんが、食い止めているからだ。外で白旗を振っているのは、実は稲村さんだった。
「秋本さん!Iris にメッセージを流して。世界中に、『銃を捨てて、自爆攻撃の準備をしろ』って」と、早口で太一は言った。
「わかったあー」秋本さんは、凄まじいスピードでPCのキーを叩いた。
「明、明!」太一は、明に電話をかけた。それから、怒鳴った。
「はいはい・・・」明は、太一の剣幕にびっくりしていた。
「今、秋本さんが、Iris を使って武装解除を呼びかけてる。そのメッセージを、『こだま』させてくれないか?」
「こだま、ですか?」
「方法は、なんでもいい。とにかく、彼女のメッセージに呼応してくれ」
「わかりました・・・」
明は、自信なさそうに返事をした。隣で紗理奈くんが、「そんなの、意味あんのー?」と大声を出していた。仕方ない。全ての女性は、太一に不満を持つのだ。
「ねえ。自爆攻撃って、他の国はどうするの?」と、秋本さんが聞いた。
「Iris は、君の子供でしょ?」と太一は言った。
「まあ、ね。最初だけ」と彼女は答えた。
「直子ちゃんが、銃だけで決起するわけがない。ここでは、サリン。他の国も、何か準備しているはずだ。爆弾でも、毒ガスでも、細菌兵器でもいい。そいつを用意しろ。でも、銃撃はやめろ」太一は自分が、とても興奮しているのを感じた。
「あー。初めて、直子って呼んだー❤️」
彼女はそう言って、ニッコリと笑った。彼女ほど傷が深いと、少しでも人と繋がることを求めているのだ。ささやかな繋がりを。たとえ、戦場の真ん中にいても。
「うん、呼んだね」と、太一は認めた。
「もう、秋本って呼んでも返事しないからね」と、直子さんはいたずらっ子のような顔を見せた。
「ねえ、直子ちゃん」と、太一は彼女を名前で呼んだ。
「うん」
「ここが片付いたらさ、友だちののっぽさんを紹介するよ」と、太一は言った。
「誰、それ?」
「俺よりずっと頭が良くて、俺とは比較にならないくらい『いい男』なんだ」
「へー」
直子さんは、目を細めて太一を見た。彼女は、明らかに疑っていた。仕方ない。全ての女性は太一を・・・。いや、バカバカしいのでもうやめよう。
100人の兵隊は、命令に従った。全員が1階に降り、銀杏並木に向かうバリケード前に集まった。太一と直子さんも、みんなのそばにいた。バリケードの向こうには、機動隊が銀色の盾を構えて並んでいた。稲村さんは、相変わらず一人で旗を振っていた。
「稲村さん。ゆっくり、前に進んで!」太一は、そう怒鳴った。
稲村さんは振り返って、こちらを少し見た。きっと、太一を睨んでいるのだろう。だが彼は、機動隊の方へ向き直した。そして、一歩一歩と前進した。大勢の人がいるのに、誰も話さなかった。銃声は消え、催涙弾も飛ばなくなった。
「ちょっとお!次は、どうすんの?」直子さんが、肘で太一をつついた。
「みんなに、バリケードを越えてもらって。その前に、出てもらって」
「えーっ!?」
「両手に、サリンを持って。高く掲げて」と、太一は指示した。
「・・・」
直子さんは、何も言わなかった。黙って、PCのキーを叩いた。するとすぐそばの兵隊たちが、揃ってスマホの画面を見つめた。首を折り、表示された直子さんのメッセージに見入った。
まったく。七面倒くさい世の中になったもんだ。目の前の直子さんの話より、スマホの命令を聞くわけだ。その方が、重々しく感じるのかな?カリスマ性があるのか?もしそうなら、ヒットラーのような人物はもう出番がない。ヒットラーは、Twitterを使わないだろうから。得意のオーバーアクションが使えないからだ。何事にも、探せば良い面がある。
兵隊たちは、自ら築いたバリケードを越えた。機動隊に自分自身を晒した。だが彼らの両手には、二本のペットボトルがあった。全員が、それを頭上に掲げた。万歳の、格好だった。
さて本吉さんは、パニックだった。籠城犯が、ペットボトルを手に現れた。サリンか?こちらへ、万歳突撃をする気か?一方、稲村さんは白旗を振って近づいてくる。ヤツらの意図は、何だ?本心は?どうする?
「隊長、お願いします」と、すぐ脇の男が本吉さんに言った。指示してくれ、ということだ。本吉さんは、腹を決めた。
「全隊、ゆっくり前進。正面の男を、捕獲しろ」と、彼は隊員に命じた。
本吉さんは、情報が欲しかった。真実が、答えが、いや命令が欲しかった。何かを獲得しないと、彼はどこにもいけなかった。
機動隊は、慎重に前進を始めた。それは、太一の期待していたことだった。両者の距離を、できる限り詰めたかった。
「みんなを、機動隊へ向かって歩かせて。稲村さんの後を追って!」と、太一は言った。
「えー!?」
また、不服そうな直子さん。そう言わないでよ。ラスト・シーンまで我慢してくれ。
兵隊たちは、ペットボトルを上げたまま、前へ歩き出した。太一は、彼らの背中を見守った。そしてつくづく思った。みんな、タフじゃない。運動不足の体型をして、服装も不潔だ。身体も心も、乱れている証明だ。兵隊の男女比率は、ほぼ半々に見えた。この世に絶望するのに、男女の差はないということだ。
「この人たちは、直子ちゃんが集めたの?」と、太一は聞いてみた。
「まさか!」そう言って、彼女は眉を吊り上げた。
「やっぱり?」
「あのね。Iris には、自己学習能力と自己増殖能力を与えてあるの。だから、プログラムをスタートさせたら、勝手にどこまでも進むの。目的のために、手段を自分で選択するの。それからIris は、放浪して移住した先で分裂できるの。だから、人がシステムを使う限り、Iris は止まらないの」
太一はなぜか、ジャズのベースソロのことを考えた。サリン入りのペットボトルを持って、みんなは命令通りにどんどん進んでいった。機動隊の盾へと突き進む彼らを眺めながら、太一は Iris が、コントラバスを演奏する姿を想像した。Iris は、嬉々として即興演奏を続ける。だが、クソ面白くもないソロだ。不快ですらある。なのにIris は、とても気分良さそうだ。いつまで経っても、演奏をやめてくれない。
「クソだ。全部クソだな・・・」と、太一は独り言を言った。
「えっ!?」直子さんは、そう言って太一の顔を見た。彼の両目を、覗き込んだ。
「ごめん。独り言だよ」と、太一は彼女に謝った。
「イカれてるよ、あなた」直子さんは、呆れた様子で言った。
「そうかな?」
「あなた見てると、なんか安心する」
「何で?」
「自分なんか、全然普通だって思える」直子さんは、太一を顔をじっと見てそう言った。
「本当に?そりゃ、素晴らしい!」太一は、心から嬉しかった。彼女のその言葉に、なぜか震えるほど感動した。アドレナリンが溢れ、やる気がやたら出てきた。
ペットボトルのみんなは、稲村さんに追いつこうとしていた。機動隊はジリジリと彼らに近づいていた。その距離、5m。距離が、肝心だ。遠過ぎず、近過ぎず・・・。太一は、博打を打つつもりだった。この状況では、誰にも相談できない。だが、一瞬たりとも、間違えたくない。ベストな選択をしたかった。
「気持ち悪いの?」と、直子さんが聞いた。「変な顔してるよ」
「そりゃ、元からだよ」太一は思わず、自分で吹き出してしまった。そして、覚悟を決めた。「今だ!」彼は、大声を出した。
「もー。今度は何?」
「直子ちゃん。Iris で、次のメッセージを発信してくれ!」
「だから、何?!」直子さんは、ぶっきらぼうに聞いた。でも、声は明るかった。
「服を、全部脱げ!裸になるんだ」
「・・・」直子さんは、しばらく思考停止に陥った。
「早く!早く、裸になるんだ」太一は、そう絶叫した。
直子さんは、無言でPCのキーを叩いた。タントン、タントン、・・・。とても、リズミカルだった。タントン、タントン、・・・。
「明ーっ!」また太一は、彼に電話した。「服を、全部脱げー!明、こだまだ!こだまだ!」
「はいいっー」
明は、無の境地で指示に従った。太一の人格を疑うのは、後回しにすることにした。隣で、また紗理奈くんの声が聞こえた。彼女は、「やだーっ、脱ぎたくなーい」と、騒いでいた。でもすぐに、「どうしてもって言うんなら、考えてもいーよ」と、付け加えた。
「ねえ。世界中のIris に、同じメッセージ流せばいいんでしょ?」と、直子さんが言った。
「そうだ。そうしてくれ」
「admin権限は停止されたけど、ハッキングはできるから。やっとくよ」
「助かる。よろしく!」
太一は、そう答えながらバリケードによじ登った。それを越え、銀杏並木を走った。真っ直ぐに、最前線に向かって。彼は、猛ダッシュした。機動隊の目と鼻の先で、男女の集団ストリップが行われていた。100人の兵士が、明らかに戸惑っていた。モジモジと、恥ずかしそうに身をくねらせていた。
数人が、意を決して服を脱ぎ始めた。羞恥心に、男女の差はなかった。最初に全裸になった十人は、男女半々だった。周りが脱ぐと、残り人も脱がずにいられなくる。彼らは銃を捨て、サリンも捨てて服を脱いだ。服を脱ぐためには、サリンを手放さなくてはならない。脱ぎ終えたら、みんなじっと次の指示を待った。辱めに耐えながら。
「機動隊のみなさーん!」太一は走りながら、彼らに呼びかけた。「盾は置いて。自分の上着を脱いで、彼らにかけてやってくれ」
機動隊の人々も、思考停止状態だった。でも、見ていられない状況だった。父親くらいの隊員が、続いて逞しい若者が、目の前の全裸女性に自分の上着をかけた。せずにはいられない行為。それは伝染する。機動隊と、サリン隊は歩み寄った。
片方は服を脱ぎ、片方が服を着せた。するともう、何もすることがなかった。両者とも、ついさっきまでの緊張感が切れた。もう、生死を争う気が起きなかった。みんな、戦いに飽きた。というより、戦う理由を失った。誰も、服を着せてくれる人とは戦わない。誰も、武装を解いた兵士とは戦わない。
「非合理だ。不条理だ。カオスだ。めちゃくちゃだよ」稲村さんが、笑って言った。「もう、旗振らなくていいだろう?」
「ええ。もう、大丈夫です」と、太一は答えた。「終了です。もう、誰も Iris に質問しないでしょう。質問がないと、あいつは黙るしかない」
「いや。きっと誰かが、『恥ずかしいーっ!』って、質問してるよ」と、直子さんが言った。
「Iris は、答えられないだろうな」と、稲村さんが言った。彼の予測は、当たった。世界中の Iris は、沈黙した。きっと、猛スピードで計算していたと思う。でも、答えは出なかった。
機動隊隊員に服を着せられてから、籠城犯は全員逮捕された。直子さんも、重要参考人として任意同行を求めれた。彼女は、もちろん同意した。太一は彼女に、門のそばでのっぽさんを紹介した。
「あらまっ!?」と、直子さんは大声で驚いた。
「何だ何だ、どうしたんだ?」と、のっぽさんが言った。
太一は、面倒くさいので笑ってごまかした。
今日は、歴史に残る一日かもしれない。だって世界中で、武装した男女が裸になったから。みだりに人前で、裸になることは犯罪である。だが人を銃殺したり、毒物を撒くよりははるかに軽い罪だ。
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