第13話 スタート地点
「のっぽさん。これから、青森に出張に行きましょう」
太一は急に、そんなことを言い出した。のっぽさんは、直子さんが座っていた席に座り、コーヒーを飲み終えたところだった。
「いいよ」とだけ、のっぽさんは答えた。彼は、少しも驚かなかった。
二人はそれから、しばらく話さなかった。のっぽさんの車に乗って、上野駅へ向かった。駅に近い駐車場に車を停め、新幹線乗り場へ行った。東京駅は、あの事件のせいでしばらく閉鎖だった。
新青森駅行きの、新幹線に乗り込んだ。のっぽさんのスマホで、下北半島の渋い温泉宿を予約してくれた。新幹線に乗った後、ようやく太一は会社に電話した。樺島さんに簡単に、事情を説明した。それから彼に、「今日は休む」と伝えた。樺島さんはは、何も言わないでくれた。その次に、太一は稲村さんに電話した。
「嘘でしょ?」稲村さんは、秋本直子さんのことを聞いて絶句した。電話口に、志田さんの気配もした。彼も驚いたろう。
「彼女は、サリンを持っていると主張しています。本当だと、思いますか?」太一は聞いた。また、スピーカーフォンでの会話になった。
「・・・国内で製造するのは、無理だと思う」と、志田さんがしばらく考えてから答えた。「サリン製造に必要な資材を調達したら、必ずバレるから」
「でも、密輸入したならあり得る」と、稲村さんが言った。
「どこから?」と、太一は聞いた。
「北朝鮮が、一番お手軽だ」と、志田さんが言った。「旧ソ連は、化学兵器をたくさん保有していた。その技術が、北朝鮮に渡れっていれば可能だ」
「密輸は、日本海で小さな漁船を使って行う。真夜中にね。取り締まることは、ほぼ不可能だ」と、稲村さんが言った。「北朝鮮以外でも、インド、パキスタン、それからイスラエルもあり得る」
「可能だって、ことですね」太一は、肩を落とした。
「若倉さんは、これからどうするの?」と、志田さんが聞いた。
「何も、アイデアがないですね」と、太一は答えた。
「我々もだ」と、稲村さんが言った。「これから、秋本直子のことを上に報告する。話が話だから、すぐ首相まで行くよ。今日も、夜中まで会議だな」
「ああ。誰も、責任取りたくないと思う。我々は、しばらく動けないよ」と、志田さんが言った。
「了解です」と言って、太一は電話を切った。
「秋本さんの罪を、問えると思いますか?」
太一はのっぽさんに、稲村さんと志田さんとの会話を伝えた。そのあとで、彼女がしたことは犯罪なのか?と考えた。それについて、のっぽさんの意見が聞きたかった。
「うーん。はっきり言って、難しいんじゃないかな」と、のっぽさんは答えた。「犯罪が成立するには、意思(故意、過失)と因果関係が必要だ。つまり、殺意という意思があり、相手を傷つける。だが、殴っただけなら殺人罪にならない。たとえ、殴られて倒れた相手が、頭を打って死んでもね。殴ったこと=相手が死んだことの因果関係が成立しないからだ。大きなハンマーで、相手の頭を殴る。相手を殺すという、意思をもって。こんなハンマーで殴ったら、人は死ぬだろう。そうわかっていながら、ハンマーで殴る。これが殺意と、殺人の因果関係だ」
「なるほど」
太一は、あいづちをうちながら周囲を見回した。幸い、午後の青森行き新幹線はガラガラだった。太一とのっぽさんの周りには、誰もいなかった。
「秋本さんは、Iris を作ったという。それが本当だとしても、彼女は特定の誰かに殺意を持っていたわけじゃない。殺人をしていないし、凶器を用意してもいない。つまり、秋本さんには殺意も殺人の因果関係も成り立たない」
「うーん。それなら、Iris なんて物騒なシステムを作った罪は?」と、太一はのっぽさんに聞いた。
「刑法には、罪刑法定主義という原則がある。簡単に言えば、『この国で、これをやったら刑法で裁かれます。量刑および罰金はこれです』と、事前に決めておく必要がある。Iris が倫理的に罪だと思えても、我々はその罪を取り締まる法を作らなきゃいけない。国会に法案を提出して、我々が選んだ国会議員が審議する。賛成が多数になって、やっと刑が規定され認められる。だから刑が規定されてないなら、犯罪にはならない。また、これから作ったとしても、過去のことは取り締まれない。法は、遡って適用してはならないからだ」
「うーん」太一は、小さくうなった。それから、ため息をついた。
「もちろん、俺は法律の専門家じゃない。だが秋本さんが、この連続大量殺人の主犯になることはないと思う。それに彼女は、東京駅の事件を知らなかったと言ってるんだろ?」
「そうらしいです」
「Iris は、世界中で動いているんだろ?いわば、勝手に。秋本さんの知らないところで」
「そういう、ことですね」
「これまでに、なかった犯罪ということだ」とのっぽさんは言った。その言い方に、彼なりの口惜しさが感じられた。
「彼女は、犯罪者予備軍を飼っている」と太一は言った。「いわば大きな虫かごを用意して、その中で共食いをさせている。彼女は、手は出さない。ただ虫かごに、傷ついた敗者たちを放り込むだけですね。しかも、Iris というプログラムが、勝手に虫を取ってくる。秋本さんは、何も知らない」
本当は、無性にビールが飲みたかった。でも二人は、ぐっと我慢した。というのは、青森駅に着いたらお見舞いに行くからだ。希美ちゃんの、お母さんにである。
太一は、なんとも陰鬱な気分だった。それは、無力感だった。犯罪は、延々と繰り返される。いつでも、新しい川島が誕生する。ならば、川島同士で戦わせればいい。なんだか、ゲームみたいな話だった。モンスターとモンスターの、バトル・ゲームだ。
俺は、川島を止められたかもしれない。なのに、俺はそうしなかった。太一はずっと、そう考えてきた。けれど、太一がどうあがいても、川島は少女を殺したのだろうか?それは必然であり、川島を殺すしか止める方法はないのか?
希美ちゃんには、新幹線に乗る前に電話をした。親しい人と、これからお見舞いに行くよと。彼女は、極端な人見知りだった。というより事件以降、新たな人間関係を築けなくなったのだ。彼女にとって、他人は常に自分を攻撃する人だった。彼女の兄が川島だとバレれば、なおさらだった。
青森駅から、またタクシーで病院に行った。失業中の希美ちゃんは、この前と同じ休憩室にいた。太一とのっぽさんは、病院の三階に上がった。そして、希美ちゃんを見つけた。彼女はのっぽさんを見て、明らかに怯えた顔を見せた。
「こんにちは!」のっぽさんは、溌剌と挨拶した。
「どうも・・・」希美は、すぐにそっぽを向いた。すねているのではない。人と視線を合わせるのが怖いのだ。
「私のことは、のっぽさんと呼んでください」と、のっぽさんは名乗った。「みんなから、そう呼ばれているんです」
「はあ・・・」と、希美ちゃんは気のない返事をした。
「お母さんの具合はどう?」太一は、話題を変えた。
「意識は、取り戻したんだけど・・・」と、希美ちゃんは答えた。口を尖らせて、不満を打ち明けるような表情だった。「半分、イカれちゃってるの。言葉が出て来なくて、会話にならないの。それから、記憶が混乱してるみたい。ここにいる理由も、わかってないの」
「脳の病気なら、私も自分の親の看病で経験がある。発病直後は、いろいろな症状が出ます。でも、じきに治りますよ」
「そう、なんですか?」
「ええ」と、のっぽさんは堂々と答えた。「症状が落ち着いたら、言葉や運動のリハビリを受ければいい。時間はかかりますが、根気よく続ければ大丈夫ですよ」
「なんだか、太一さんと話してるみたい」と、希美ちゃんが言った。
「何で?」と、太一は聞いた。
「いいことしか、言わない」そう言って、希美は苦笑いを見せた。
休憩室に、四人がけのテーブルがあった。太一たちは、自販機でジュースを買ってテーブルについた。希美ちゃんのお母さんは、まだ一般の人は面会できないそうだ。
「太一さんとは、どんなお知り合いなんですか?」と、希美ちゃんはのっぽさんに聞いた。彼女は珍しく、自ら他人へ近づく姿勢を見せた。
「彼が学生のとき、私の店でアルバイトしていたんです」
「へー。そんな昔からの、お付き合いなんですね」
「そうなんですよ。もう、20年です」
「のっぽさんは、失礼ですがおいくつですか?」
「今年、64歳になります」
「ええっ?見えないですね。ずっと、若く見えますよ」
「働いているからだと思います。今は、焼き鳥屋を経営してます」
「へー。そうなんですか?」そう言って、希美ちゃんは笑った。これも、とても珍しいことだ。「焼き鳥屋って、ちょっとイメージが違いますね」
「私は、どんな店なら似合います?」と、のっぽさん聞いた。
「そうですねー。フランス料理、ですかね?」
「あははは。それ、初めて言われました」
太一の出る幕は、一切なかった。これが、のっぽさんの実力だ。人嫌いの希美ちゃんと、さらさらと流れるように話ができる。希美ちゃんも、きっと新鮮な気分だろう。
「今日は、どうして青森に?」と、希美ちゃんがのっぽさんに聞いた。
「太一が関わっている事件で、ちょっと困り果てましてね。頭を真っ白にしようと思って、ここに来たんです。あなたに会って、お母さんにお見舞いをして。今夜は、下北半島の温泉宿に泊まります」と、のっぽさんは答えた。
「そうですか・・・」と、希美は浮かない表情になった。「私の実家も、下北なんです。でも、家は無くなりましたけど・・・。あの、私の兄のことは知っていますか?」
太一は、ドキッとした。川島の話はしない。それが、太一と希美ちゃんのルールだった。とくに、決めたわけじゃない。でも必ず、いやな記憶をほじくることになるからだ。だから二人は、滅多に川島の話題を持ち出さなかった。
「ええ。よく知っています。お会いしたことはありませんが、太一からよく話を聞きます」のっぽさんは、全然怯まなかった。太一は、ハラハラしてきた。
「兄は・・・。にーちゃんがいなかったら。どんなに良かったろうと思うんです。無駄だとわかってますが、つい考えてしまいます」と、希美ちゃんは言った。顔色が少し悪く見えた。
「はい」のっぽさんは、冷静にうなずいた。
「にーちゃんいなかったら、いろんなことができたんです。何でもできた気がするんです」
「ねえ、希美さん」と、のっぽさんは言った。
「はい?」
「お兄さんの、良いところを思い出しませんか?」のっぽさんは、そう言った。
「ええっ!?」希美ちゃんは、びっくりしてあんぐりと口を開けた。太一も、しばらく言葉を失った。
「良いところが、きっとあったと思うんです。それを、思い返してみましょうよ」
希美ちゃんは、テーブルに肩肘をついた。首をひねり、右下の床を見つめた。しばらく彼女は、考え込んだ。
「私は・・・。小さいころ、男の子によくいじめられたんです」と、希美ちゃんは言った。
「えっ?そうなんですか?」と、のっぽさんはちょっと驚いた様子を見せた。
「実は、私・・・」と希美ちゃんは、頬を赤らめた。「小さいころは、男の子に人気があったんです。今は、こんなに醜くなりましたけど」
「いえいえ、希美さんは可愛らしいですよ」
「うふふ。やめてくださいよ」希美ちゃんは、嬉しそうに笑った。「でも、小さいころは、モテたんです。だから、男の子がちょっかい出してきて。でも私は、上手く立ち回れなかった。男の子たちが、家までついてきてからかうんです。そしたら、にーちゃんが必ず撃退してくれるんです。にーちゃんにやられた男の子は、その後絶対にちょっかい出さないんです」
「へえ。そうだったんですね」と、のっぽさんはタイミングよくあいづちを打った。
「そうだ。中三のとき、こんなことがありました。ある男の子に、付き合ってくれと告白されて。でも、不良だったから断ったんです。そしたら、その人怒っちゃって。家に電話かけてきたら、にーちゃんが出て。すぐに近くの空き地で殴り合いですよ。にーちゃんが、勝ちました」
不思議なことに、希美ちゃんの顔が血色良く見えた。それは、太一には信じられないことだった。
「お兄さんは、ケンガが強かったんですね」と、のっぽさんは言った。
「にーちゃんは、私のことになると人が変わるんです。もう、絶対に引かないんです。実はその不良が、暴力団と付き合いがあったんです。ある日、チンピラが三人家に来ました。兄はなんと、その三人にも勝ちました」
「そりゃ、すごい」
「でも、傷だらけ、血だらけでした。刃物で切られたらしくて、救急車で病院に直行ですよ。はははは」希美ちゃんが、声を上げて笑い出した。
「あははは」のっぽさんも、つられて笑った。
俺はいったい、20年間何をしていたんだ?こんな、こんな簡単なことだったのに。笑っている二人の横で、太一は唇を噛んだ。強く握りしめた右手を、彼は凝視した。「無力」という言葉が、頭の中で反響し続けた。
俺は20年も、無駄な努力をしていた。いや、努力はしたんだ。でも、役に立たなかった。
希美ちゃんと別れて、太一とのっぽさんは温泉に向かった。下北半島を電車で北上し、駅からさらにタクシー。周りには人家のない、山の中の一軒家という温泉宿だった。宿の周りを、深い森が囲んでいた。この宿は、ランプを灯りに使うことで有名だった。蛍光灯ではなく、ぼんやりとした暖かいランプの灯りを楽しむのだ。
「すっかり、忘れてましたよ」と、太一はのっぽさんに言った。日没寸前に、二人は露天風呂に浸かっていた。「川島は、いつも妹を自慢してたんです。『妹は、幸い俺に似てない』って」
「そうか」
のっぽさんがこう言うときは、何か考え事をしているときだ。太一は、黙っていることにした。このところの疲労を、出来るだけ取ろうと努めた。
夕食は、部屋で食べた。だが、食後の過ごし方がこの宿の魅力だった。青白いランプの下、宿泊客たちは囲炉裏がある部屋に集まる。その部屋は十畳ぐらいで、土間があり、年季の入った木製扉があった。その扉を開けると、宿のすぐ近くに小川があった。手の込んだ庭園が、あるわけではない。深い森の中を、川が静かに流れるだけだ。でもこの部屋にいると、不思議と気分が落ち着いた。
食事を終えた人々が、この部屋で杯を交わしていた。熟年の夫婦、三十くらいの女性三人組。ママ友らしき二人と、ママに付き合わされる気の毒な子供たち。宿の女将さんが、熱燗を振る舞ってくれた。ささやかなお品書きがあって、ツマミを注文できた。
太一とのっぽさんは、部屋の隅に隠れるように座った。人の邪魔をしないよう、小声で話し合った。二人は、岩魚の塩焼きを二皿頼んだ。それを頭から齧り、熱燗をちびちび飲んだ。
「のっぽさん」と、太一は言った。
「どうした?」
「今日一日、いろいろ考えてみました」
「うん。大変な、一日だったからな」
午前中は、高層ビルの69階。夜は、下北半島のランプの宿だ。かたや、サリン。かたや、囲炉裏と熱燗。なんだか、変な気分だ。
「僕は結局、何もしていない気がします」
「え?どうしたんだ」のっぽさんが、笑って聞いた。
「20年間、青森に通いました。でも、何も変わらなかった。それなのに、今日一日で進展があった気がするんです」
「うん」のっぽさんは、あえて何も言わないことにした。黙って、太一の話を聞くことにした。
「僕は、子供は要りません」と、太一は言った。
「そうか」
「理由は、簡単です。僕の子供は、絶対に不細工だからです」
「んー・・・」まいったな、とのっぽさんは思った。太一の声は、次第に大きくなった。隣の熟年夫婦が、聞き耳を立てていた。
「会社の女性で、僕と目を合わせる人はまずいません。僕と話してくれる女性は、僕の部下だけです。どうやら僕は、人間以下らしいです・・・。別に、それでもいいです。もう慣れましたから。でも、若い頃はつらかったです。醜男であることは、それなりにキツかった」
「うん」のっぽさんは、あいづちだけ打った。
「僕の子供は、男でも女でも同じ想いをするでしょう。自分の子に、そんなつらい経験はさせたくない。だから、子供は要らないんです」
太一は、ずっと下を向いていた。お猪口と、岩魚を交互に見た。でも彼は、その両方とも見ていなかった。彼の目は、いったん死んでいた。頭と口だけが、激しく振動していた。激しく活動していた。
「結婚する気もありません。醜いから、普通の人のようにいくつも恋愛はできなかった。でも、わずかに付き合った経験で十分です。恋愛相手は、最終的に僕を嫌って終わるだけですから・・・。たくさんの女性に、嫌われました。いじめのような嫌がらせも受けました。もう、一生分嫌われましたよ。ハハハ」そう言って、太一は弱々しく笑った。
「うん」のっぽさんは、ここも我慢した。
「今、話ししたいのは、劣等感の話ではないです。『生きる』って話です。もし川島が生きていたら、あいつも僕と同じように嫌われたでしょう。あいつの醜さは、本物だったから。けれど、あいつは耐えなかった。我慢できなくなって、世界に復讐することにした。少女を殺して、切り刻んだ。あいつは罪を重ねて、自分自身もおかしくなっていったんです」
もう、囲炉裏にいる全員が、太一の話を聞いていた。今夜の太一は、異様な迫力があった。誰も、彼から目が離せなかった。太一から目を逸らして、他の話をする気が起きなかった。
「僕が考えているのは、シンプルなことです。それは、『人が死ぬと、事態はもっと悪くなる』ってことです」
「事態が悪くなる?」と、のっぽさんは太一の言葉を繰り返した。
「はい」と、太一は大きくうなずいた。「川島は、少女たちを殺した。あいつが生きて捕まれば、社会の憎しみはあいつに向かったはずです。でもあいつは、逃走中にコロッと死んだ。やり場のない怒りが、川島の家族にぶつけられた」
しんっと、部屋は静まっていた。「川島」が誰のことか、みんな気がついた。やり切れない雰囲気に、大人たちは沈黙した。小さな子供だけが、退屈そうに童謡を歌った。つっかえつっかえ、歌詞を思い出しながら。太一は、話を続けた。
「川島の、お父さんもそうです。彼が生きていてくれれば、世の中の非難を受け止めてくれたでしょう。希美ちゃんとお母さんを、社会の攻撃から守ろうとしたでしょう。だが、お父さんは自殺してしまった。やっぱり事態は、もっと悪くなった。川島家は、心ない人に放火された。希美ちゃんとお母さんが、他所に避難していたのが幸いでしたけど」
「じゃあ、どうする?太一」と、のっぽさんは穏やかに質問した。
「人がこれ以上死なないように、頑張ることです。車に轢かれたって、ガンにかかったって、我慢しましょう。殺されたり、自殺したりするよりはマシだ。たとえ苦しい闘病の末でも、僕らは大事な人を見送れる」
「ねえ、お客さん」と、店の女将さんが太一に言った。とても優しい話し方だった。
「はい?」ここでようやく、太一はしまったと思った。この部屋にいる全員が、彼を見ていた。とても熱く真剣に、太一を見つめていた。
「私は、川島さんのこと怒ってたよ」と、女将さん言った。「今の、今までね。でも怒り続けたら、もっと事態を悪くするんだね。罪のない人の命まで、奪ってしまうんだね」
「もちろん、川島は許せません。私も、そう思います」と、太一は言った。「彼に殺された少女たち。彼女たちのご遺族や友人・知人のみなさんは、川島を憎む権利がある。でも憎しみが広がってしまったら、さらに人が死ぬことになるのです」
「お前の言うことはわかったよ。これ以上、人が死ぬのは許せない。全面的に、賛成だ」と、のっぽさんは言った。
「はい」と、太一は返事をした。
「だが、話の前半には反対意見を言いたい」
「はい」太一は、大人しく同意した。
「お前は、確かに人より醜いかもしれない。それによって、差別を受けたかもしれない。でもそれは、程度問題だ」と、のっぽさんは言った。
「へっ!?」女将さんが、驚いて変な声を出した?
「もし太一の学校に、在日朝鮮人や黒人がいたとしよう。お前は他の人と一緒になって、在日朝鮮人や黒人を差別したかもしれない。差別する側は、常に多数派だ。そんなとき、おそらく太一の醜さは問題にならない」
「???」この部屋にいる人たちは、みんな不思議そうな顔をした。太一だけがうなずいた。
「もし在日朝鮮人が多数で、日本人が少数なら日本人が差別を受ける。黒人が多数派で、白人が少数なら黒人が白人を差別する。多数派のする人権侵害が差別であって、醜さとか劣等とかの理由があるわけじゃない」
「そうですね」と、太一は同意した。
「俺たちができることは、二つある。多数派に入ろうと、四苦八苦して人生を終えるか?それとも、差別の『原理』を理解するかだ」
「はい」
あーあ。四十過ぎても、叱られるのか。太一は、自分に笑ってしまった。
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