第12話 殺人予防

 太一は、朝10時きっかりに約束の場所に着いた。そこは、みなとみらいのランドマークタワー69階、スカイカフェだった。平日なのに、ここは朝早くから混んでいた。その多くが、家族連れだった。休暇を取ったのだろう、若い夫婦と小さな子。老いた母と娘の二人連れ。シングルの中年男なんて、太一だけだった。

 ことの始まりは、宅急便だった。遺失物捜索課に、小さな箱が届いた。宛先は、太一。送り主は、紗理奈くんだった。もちろん、彼女にそんな覚えはない。誰かのいたずらだった。

 迷ったすえに、太一は樺島さんと屋上で開封した。爆発物かもしれないからだ。だが彼は、半分安心していた。なぜなら相手は、きっと自分と話したがっているからだ。きっと太一と、話したいはずだ。

 箱の中身は、メモ一枚だった。そこには、https のアドレスが書かれていた。事務所に戻り、明に調べさせた。ウイルスサイトかしれない。

「これ、すごいマニアックな暗号化ソフトですよ」と、明が教えてくれた。「アドレスは、ダウンロードサイトです」

 念のため、課のPCにインストールするのはやめた。社内の共用サーバーの、開発環境にダウンロードした。さらにその仮想環境にインストールして、万が一の場合すぐ消去できるようにした。

 さて、これからどうしよう?と思っていたら、ピザ屋が到着した。注文したのは、太一だ。もちろん、彼にそんな記憶はない。届いた商品は、シンプルにマルゲリータが一枚だった。太一からお金を受け取って、デリバリーの少年が帰ろうとした。すると山田さんが、彼の背中についたポストイットを見つけた。

「君、ちょっと待って」

 山田さんが、少年の背中から小さなメモを剥がした。メモにはまた、小さな字でURL が書き込まれていた。

「君。これに、覚えはある?」ポストイットを手に、山田さんがピザ屋の少年に聞いた。

「いや・・・、全然・・・」面倒に巻き込まれて、彼は当惑していた。一応、彼の名前と個人携帯を教えてもらった。

「こんなポストイット、バイクで走ったらすぐ剥がれるよ」と、紗理奈くんが指摘した。

「すると、このビルに入ってから貼ったのか?」と、樺島さん。

「貼ったのは、社内の人間?この会社に、Iris の協力者がいるってこと?」山田さんが、少し動揺しながら言った。

「いやいや。清掃の人やビル点検の業者に、小遣いを渡せばできることです」と、太一は言った。

 樺島さんと山田さんが、警備室へ行った。直前の、ビル内の監視映像を確かめるためだ。太一は明に、またURL を調べてもらった。今度は、イスラエルのIT企業のサイトだった。

「普通の会社みたいですけど」と、明は言った。

「その会社の、主力製品ってなんだい?」太一は、聞いてみた。

「あ!」明がうめいた。

「何?あって?」

「暗号化ソフトです」と、明は答えた。

「また?」紗理奈くんが、声を上げた。

 太一も、みんなも頭を抱えた。そこへ、樺島さんと山田さんが戻ってきた。収穫ゼロだそうだ。

「90日間の、試用版がありますけど・・・」と、明が言った。「ダウンロードしてみます?」

「仮想環境の、ダミーメールで登録しようか」と、太一は答えた。

 そこへさらに、社内の郵便係が封書を持ってきた。宛名は、また太一。今度はA4サイズの、定型の角2封筒だった。太一は樺島さんと、もう一度屋上に行って開封した。出てきたのは、折りたたまれたポスター大の紙だった。紙は真っ白では、何も書かれていなかった。だが不思議なことに、その大きな紙は数カ所に小さな穴が空いていた。とても小さな穴で、数えると28箇所もあった。

「なんですか?こりゃ?」樺島さんは、もう沢山だという顔をした。

 その不思議な紙を持って、二人は事務所に戻った。山田さん、紗理奈くん、明に見せたが、彼らも樺島さんと同じくウンザリ顔だった。そこへ、コールセンターのある女性が発言した。

「それ。新聞に、重ねるんじゃないですか?新聞の大きさに、ピッタリに見えます」

 樺島さんが、手にしていた封筒を見返した。消印は、昨日だった。

「昨日の、日本産業新聞をくれ!」樺島さんが叫んだ。「相手は、うちが購読してる新聞を使ったかもしれない」

 電話・携帯・通信関連の会社ならば、業界のニュースが豊富な日本産業新聞を購読している。樺島さんは、打ち合わせテーブルに、昨日の一面を広げた。その上に、穴の開いた紙を重ねた。

「な、・・・、あ、・・・、ら、・・・、さ、・・・、き、・・・、り、・・・」樺島さんが、読み上げた。穴から見える文字だ。

「なんだあ?」山田さんは、呆れたような声を出した。でも、紗理奈くんと明は違った。

「紗理奈と、明ですね・・・」と、神妙な顔で明が言った。紗理奈くんは、驚きと気味悪さで引きつっていた。

「これは・・・?」樺島さんが、うなった。彼はまだ、先が見えていなかった。

「つまり」と、明が言った。「紗理奈さんと僕の名が、暗号を解くパスワードなんでしょう」と、明が言った。

「そういうことか?」山田さんは、まだ半信半疑の様子だった。

「でも、ローマ字にしたら、大文字か小文字かわかんないんじゃないの?それに、文字の順番も」と、紗理奈くんが質問した。

「大丈夫です」と、明は落ち着いて答えた。「限られた組み合わせですから。プログラムを書いて、全部試せばいいです。一瞬で終わります」

「ヘェ〜」とみんなは、感心した声を出した。

 太一は、ずっと口を閉じていた。彼は、想像をめぐらしていた。この大袈裟ないたずらを仕掛ける、一風変わった相手のことを。こいつの性格は?こいつの思考パターンは?こいつの癖は?

「残りは、全部数字だぞ」と樺島さんが言って、それを読み上げた。全部で22桁あった。一見、何の関連性もない数列に思えた。

「・・・やだあ・・・、まさか!?」と、紗理奈くんがつぶやいた。そして、「明。あなたの携帯番号教えて!」と言った。

「080-*****です」そう言い終えてから、明はハッとして目を剥いた。

 紗理奈くんが、樺島さんの読んだ数字を壁際にあるホワイトボードに書いた。その下に、自分と明の携帯番号を書いた。そして数字を一つずつ、照合しては「×」で消していった。紗理奈くんと明の予想通り、数字は全て「×」で消えた。示された数字は、二人の携帯番号だった。

「キモ・・・」明が、それだけ言った。紗理奈くんは、白い顔をして黙っていた。

「何でもわかってる、って言いたいのか・・・」樺島さんが、怖い顔をして言った。

「そうらしいですね」と、太一も賛同した。

「こいつ、本物ですよ」と、明が力を込めた。

 イスラエルの暗号化ソフトのダウンロード時に、仮想環境用のメールアドレスで登録をした。そのアドレスに、メールが届いた。送信元のメールアドレスは、正体不明の代物だった。

「ヤツからか?」樺島さんが、身を乗り出した。

 メール本文は、見事に文字化けしていた。だが明は、二つの暗号化ソフトを使って、復元した。


「若倉さん。明日の朝、10時。みなとみらいのランドマークタワー69階、スカイカフェで待ってます」


 メッセージは、それだけだった。


 終業後、太一はのっぽさんに電話をかけた。ことの一部始終を説明したあとで、太一は「身の危険があるので会わないことにしましょう」と提案した。

「無駄だよ、きっと」と、のっぽさんは爽やかに笑った。「そこまで神経質なやつだ。太一の行動範囲に、俺がいることはとっくに知ってるよ」

「そうでしょうか?」太一は、一応疑ってみた。でも考えれば考えるほど、のっぽさんが正しい気がしてきた。「そうですね。きっと、のっぽさんのこともヤツは知ってますね」

「ああ。でもね、ヤツは俺たちを殺さない」と、自信満々でのっぽさんは言った。

「はい」

「ヤツは、太一と話すのを楽しみにしてるよ。それから、俺ともね。ヤツにとっては、みんなゲームなんだよ」

「人が、死んでも」と、太一は強調した。

「人が死んでも、だ」

 紗理奈くんと明は、樺島さんたちと一緒にホテルに泊まってもらうことにした。万が一のためだ。田口には、木刀を用意してもらった。単独行動は、しばらく避ける。明日10時の話し合いで、ヤツと取引ができるかもしれない。何らかの突破口が見つかるまで、みんなは自重する。

「太一さん。行ったら、殺されるよー」と、紗理奈くんが金切り声を上げた。コールセンターの女性たたも、動揺でざわついていた。だが逃げるわけにはいかなかったし、太一自身も全てを見届けたかった。確かに、自分の生死は大事だ。だが、これはチャンスでもある。太一、上手くやれ。危機を、逆襲の機会に変えろ。

 警察に、通報するのはやめた。第一に、この相手が事件の犯人だという確証はない。愉快犯のいたずらかもしれない。第二に、警察が動いたら、ヤツが現れない可能性がある。リスクは排除したかった。

 

 太一は、二人掛けの席に座った。しばらく景色を眺めて、時間を潰すことにした。幸い天気は良く、関東平野がずっと見渡せた。正面を見ても、左右を見ても、どこまで行っても街が続いていた。利根川や多摩川が作った広い平坦地に、私たちはくまなく建物を建てた。莫大なエネルギーを注いで、この街を作ったのだ。

 だが近い未来、この街に住む人は一気に減ってしまう。空き家だらけになるだろう。良いとか悪いとかではなく、私たちがそうしたのだ。二人で一人しか産まないのだから、街も家も半分でいいことになる。

 そんな将来が訪れたら、未来の子供たちはこの街(国)に住み続けるだろうか?国が抱える莫大な借金返済のため、未来の子供たちは重税に苦しむだろう。果たしてそんな国に、生活する魅力があるだろうか?

「太一さん、おはようございます」

 背後から、若い女性が太一に声をかけた。しまったな、と彼は思った。きっと、会社の社員か取引先の人だろう。平日に、こんなところでサボっていると思われる。

 太一は、声がした方へ振り返った。まだ大学生くらいの、若い女性が立っていた。太一の記憶にはない人だった。彼女は真っ白の薄い半袖セーターに、品のいい薄紫色のロングスカートを履いていた。スカートの下に、こげ茶のロング・ブーツが見えた。

 彼女は細かいパーマをかけたショート・ヘアーで、その髪を小さなシュシュで襟足のところで束ねていた。髪は赤茶色に染めていて、とてもとんがって見えた。狭い額、描いた眉、まん丸の目に、まん丸の鼻。顔の形も丸くて、顎も頬も口もとても小さかった。その女子大生は、決して美人なタイプではなかった。でも、上品な可愛らしさを持つ女性だった。

 太一は、必死に記憶を辿った。会社、取引先、親戚?友達の妹?娘?いや、こんな目立つ女性なら、きっと忘れないはずだ。しかしいくら考えても、彼女が誰だかわからなかった。まったく思い出せなかった。

「太一さん、困ってますよね」と、彼女は立ったままで笑った。

「いやあ・・・、すいません」太一は、とりあえず謝ることにした。

 彼女は、太一のテーブルに座った。彼女はしばらく、窓の外を眺めた。二人はしばらく、黙って過ごした。

「すいません」太一は、また謝った。「どこかでお会いしたかと思いますが、思い出せなくて・・・。それに今日は、これから人と会う約束があるんですよ・・・」

 太一はすまなそうに、そう白状した。彼女のような女性と過ごすのは、彼にとって素敵なことだ。だが今日は、ヤツと会わなくては。

「あははは」と、彼女は爽やかに笑った。「太一さん、私に心あたりがないのね」

「はい。申し訳ありません」太一は、もう一度謝った。

「Iris って、言ったらわかる?」

「!!?」太一は、全身が揺れたような気がした。地震にあった気分だった。太一は血相を変えて、目の前の可愛らしい女性を見た。

「私が、Iris を作ったの」と、彼女は笑顔で言った。「正確には、最初の土台を作ったの。あとは、世界中のプログラマーたちが開発を手伝ってくれた。だからあのシステムには、膨大な数のサンデイ・プログラマーの思いが詰まっているの」

 太一は、驚き呆れた。言葉もなかった。膨大な人数?どういうことだ?

「オーダーしようよ」と、彼女は言った。あらためて、二人は向かい合った。どこからどう見ても、彼女は普通の少女だった。

 ウェイターがやって来た。彼女は紅茶を、太一はブレンド・コーヒーを頼んだ。

「太一さん」

「はい」太一は、慌てて答えた。

「携帯、テーブルに出して」と、彼女は言った。そして自分は、鞄から革製の巾着袋を出した。とても分厚くて、頑丈そうな袋だった。それから彼女の足元には、大きな鞄があった。キャスターバッグだ。彼女はこれから、逃亡する気かもしれない。

 太一は、携帯をテーブルに置いた。すると彼女は、太一の携帯を巾着袋の中にしまった。次に、袋からハンマーが出てきた。小ぶりで、若い女性にも扱いやすそうだった。彼女はハンマーを握った手を、巾着袋の中に入れた。次の瞬間、ガシャンッという音が聞こえた。太一の携帯は、袋の中で破壊されたようだ。

「太一さん。鞄も見せて」

「どうぞ」と、太一は答えた。

 太一は自分のビジネス用鞄を、彼女に手渡した。彼女は鞄を開けて、ノートPC、iPad、ジッポー・ライター、筆箱に入ったボールペンなど、あらゆる金属製の物を取り出した。それらは残らず、巾着袋行きとなった。それからガシャンッ、ガシャンッと、袋の中で破壊される音がした。周りのお客さんが、不思議そうな顔で太一たちを見ていた。

「ふむ」と彼女はうなって、太一のバッグを閉めた。捜索は、終了したようだ。だが続いて、彼女はリクエストを出した。「上の服、脱いで」

「服?」太一は驚いて、聞き返した。だが、彼が脱いだジャケットを、彼女は丹念に調べた。これは、観念するしかなさそうだ。

「ワイシャツも」と、彼女は言った。

 太一は、ワイシャツを脱いで白いTシャツ一枚になった。すると嫌でも、首筋に仕掛けた超小型マイクが目立った。それは、のっぽさんから借りたものだった。マイクの先で、彼は二人のやり取りを聞いているはずだった。だが、携帯を利用して音声を送る仕様だったから、このマイクはもう無用の長物だった。

「ほら、やっぱり」そう言って、彼女はにっこり笑った。彼女は、全然怒らなかった。でもすぐ、太一の隣に駆け寄った。

「立って」

 立ち上がった太一の、Tシャツの下に彼女は手を突っ込んだ。首とお腹の両方から。正確に隠しマイクを取り去った。もちろんマイクは、巾着袋の中に捨てられ、粉々になった。彼女は、太一のズボンや足首、靴下の中、靴までチェックした。そこまでやって、彼女はようやく落ち着いようだ。。彼女は、自分の席に戻った。

「二人だけで、話がしたかったの」と、彼女は言った。「誰かに聞かれてると、まるで電車の中みたいで嫌でしょう?」

「そうは、そうだね」太一は、ワイシャツを着ながら答えた。

 飲み物が、運ばれてきた。二人はしばらく、飲み物を楽しんだ。彼女は、寛いでいるように見えた。背もたれに身体を預け、穏やかな表情になった。ついさっきまで、高校生のスカートの丈を取締る風紀委員みたいだったのに。彼女はたびたび、窓に目を向けた。ここからの景色を、楽しんでいるように見えた。

「食物連鎖のたとえは、太一さん気に入らなかったのね」と、彼女は言った。

「うん。そうだね」と、太一は答えた。「ありふれてるからね。強烈な想いっていうがね。情熱が、感じられなかったんだよ」

「ふーん」と、彼女は言った。彼女の容貌は、じっくり見てもやはり普通だった。どこにでもいる、十人並みに可愛い女の子だった。彼女は、ずっと微笑を浮かべていた。優しい目で、太一を見つめた。こんな状況でなければ、太一は彼女に好意を持ったと思う。

「私はね。秋本 直子って言うの。T大学の理系学生。普段は、ずっと研究室にいるんだよ」

 彼女は鞄から、大きな財布を出した。その中から、T大の学生証を出して見せてくれた。間違いない。写真は、秋本さんだった。学生証も、本物に見えた。

「いいの?」太一は、驚いて聞いた。本気かと思った。自分の素性を明かして、どうする気だ?

「私は、太一さんのことを知った。だから、私のことも太一さんに教えたかった」

「そう・・・」彼女の言い分は、太一には意味不明だった。

「私のことは、直子って呼んでね」

「ごめん。それは無理だ」と、太一は即答した。「俺はこの通り、醜男だ。だから、女性を呼び捨てにできないんだ」

「なんで?」と、秋本さんは聞いた。

「いい男の、真似をしてる気になる。そして、とても嫌な気分になる」

「へえー」と、秋本さんは答えた。彼女は、またくすくすと笑った。Iris を作ったこの少女は、いつも笑顔なのか?それとも、全部でたらめか?

「いいよ」と、秋本さんは答えた。「太一さんのやり方に、合わせるよ」

「ありがとう」と、太一はお礼を言った。

「さて」と、秋本さんは言って両手を上げた。そして不防備に思えるほど、屈託なく背伸びをした。それから言った。「本当は、ゆっくりしたいけど。太一さん、忙しいよね?」

「私のことは、気にしなくていい。秋本さんに合わせるよ」

「ありがと」秋本さんは、今度はテーブルに両肘をついた。前屈みになり、太一を見上げた。彼女は、楽しくて仕方ないようだった。笑いを噛み殺しながら、秋本さんは話を始めた。

「私の専攻はね、量子力学なの」

「うん」

「でもね。プログラムは、子供の頃から好きで。簡単な受け答えができるAIシステムなら、高校生の頃に作ってた。けれどプログラムは、完全に趣味。大学で学ぶつもりはなかったの。IT産業にも、魅力感じなかったし。だから、物理専攻にしたの」

「なるほど」

「でもね。私の世代って、スマホ世代でしょ?」

「そうだね。確かに」太一は、うなずいた。

「スマホに頼り切って、スマホに表示されたものが真実になるの。どんなまがい物でもデマでも。そうしてるうちに、犯罪が増えてきた・・・」

「ん?どういうこと?」

「簡単なのは、SNS がらみで知り合ってレイプだね」と秋本さんは言った。彼女は少し早口になった。それから笑顔が消え、すっと真剣な表情に変わった。

「それから、殺人。スマホというより、ネットが人を騙している。騙された人が、殺される」

「うん。そうかもしれないね」

「イスラム教系のテロとか、ISとかも、私たちの世代をネットで釣ってるじゃない?」

「うん」

「つまりね。この環境を利用して、人を騙す人がいるってこと。彼らは、犯罪者の予備軍なの。でもね、ここからが大事なんだけど」

「うん。なんだい?」太一も自然に、身を乗り出した。秋本さんは、声をひそめた。

「犯罪者の予備軍もね。頼れるものを、必死に探してるの。何かに挫折か失敗をして、犯罪をしようとしているの。罪を犯すのに、後ろ盾になるものを探してるの」

「うむ。その通りだと思う」と、太一は賛同した。傷を負っていない、犯罪者はいない。

「それがわかってね。私、始めることにしたの」

「え?何を?」

「飼うことにしたの。その、犯罪者予備軍を」

「えっ?」

「ごめんね。わかりづらくて」と、秋本さんは照れたように笑った。「こんなこと考える人、滅多にいないよね」

「つまり」と、太一は言った。「何かに挫折して、犯罪者になろうとしてる人。それを、Iris で操ることにした。そういうこと?」

「まあ、そうだね」と、秋本さんは答えた。「いわゆるAI のシステムで、自己学習できるようにしたの。基礎を私が作って、賛同してくれる人を募ったの。全世界から、プログラマーを集めたの。一万人くらいかな?」

「本当に?」

「プログラムはオープンにしたので、みんなが直してくれた。それから、過去に記録のある犯罪や犯罪者のデータを、片っ端からIris に学習させたの。一人じゃできない、大仕事だったよ。でも、一万人でやればね」秋本さんは、とても得意そうだった。

「ねえ。聞いてもいいかな」と、太一は言った。

「どうぞ」

「Iris は、日本だけじゃないの?」

「そりゃそうだよ!」と、秋本さんは憤然と答えた。「英語、フランス語、スペイン語、中国語、アラビア語、ロシア語、・・・。もう、あらゆる言語に対応してるよ」

「まいった・・・」太一は、大きなため息をついた。

「ねえねえ」と、秋本さんはからかうように言った。「まだ、一番大事な話をしてないよ」

「んん・・・。なんだい?」

「私はね。犯罪者予備軍同士で、共喰いさせることにしたの」

「えっ?!」太一は、思わず叫んでしまった。

「ちょっとお!声が大きいよ」秋本さんは、今日で一番不愉快な顔をした。「つまりね。私は、一般の人の犯罪犠牲者を減らすことにしたの。犯罪者予備軍が、一般の人に手を出さないように。Iris の会員同士が、殺し会うようにプログラムを書いたの」

「でも、でも・・・」太一は、声が裏返った。「東京駅の事件は、どう考えるんだい?千人以上が、巻き添えになったんだぞ!」

「そこが、まだAI の至らないところだよねー。プログラムが、勝手にしゃべるからさ。まさか東京駅で銃撃戦やるとは、私も思わなかったよー」

 秋本さんの言いぶりには、かけらの後悔も感じられなかった。かけらのリアリティもなかった。太一には、それが信じられなかった。

「今ね。一般の人を巻き込まないよう、プログラムを直してる。でもね。考えようだよ」と秋本さんは、人差し指を顔にかざした。「戦闘に参加した、60人。あいつらを放置したら、いずれ千人殺したかもしれないよ。だから、チャラかなと思う」

「チャラ・・・!?」

「ねえ、私の仕事をわかってくれる?私ほど、犯罪予防に貢献した人いないよ。だって犯罪者予備軍を始末して、未来の犯罪を防いでるんだから。ノーベル平和賞モノだと思うよ。多分、ダメだと思うけど」

 二人のそばを、母と子供が通り過ぎた。空いている席を探しているのだ。午前中のうちに、この店は満席になろうとしていた。もしこの子供が、間違って犯罪者に成長したら?いいや、この母親が不幸になり、誰かを道連れにして死のうとしたら?秋本さんは、この母子を始末するのだ。

 なぜだ。なぜそれほど、犯罪者を憎む?いや、秋本さんは憎悪を力に生きていない。人がいくら死んでも、この人はなんとも思っていない。むしろ彼女は、殺人が好きなのだ。殺人という、甘美な誘惑。殺人が持つ魔力が、彼女のパワーの源泉なのだ。

 いや、そうじゃない。秋本さんのエネルギーは、否定だ。現実の否定だ。彼女は、世界を否定している。誰彼というわけではなく、この世界を恨んでいるのだ。

「ひとつ、教えてくれないかな」と、太一は言った。

「うん、いいよ」と、秋本さんは言ってくれた。「どんなこと?」

「あなたの傷は、どこにある?」

「は?!」秋本さんは、太一の言うことがわからなかった。

「心に、どんな傷を負っている?話せる範囲でいいよ。教えてくれないか?」

「あははは」と、愉快そうに彼女は笑った。「私に、傷なんてないよ。でもねー、そうだなぁ」

 秋本さんは、テーブルに頬杖をついた。そして窓ではなく、お店のカウンターに視線を向けた。つられて、太一も振り向いてカウンターを見た。そこには、一人客がズラリと並んで、静かにお茶を楽しんでいた。カウンターの奥には、真っ白なブラウスに黒いタイをした女性がいた。彼女は、とても忙しそうだった。

「私は、ずっと一人だっだな」と、秋本さんは言った。

「うん?」

「ほら。あそこのシングル客みたいに。私ね、友達ができないの。昔から。全然、話が合わないの。誰とも」

「なんか、わかる気がする」と、太一は答えた。

「わかるー?!。嬉しいよー」

 秋本さんは大袈裟に、椅子から少し飛び上がった。でも太一の言葉が、本当に嬉しいようだ。その仕草は、彼女をとても幼く見せた。とても、史上最悪のAI殺人鬼には見えなかった。

「同世代の女の子と、好きなことがまったく違うの。小さいころから、今までずっと。でもね、独学で英語を憶えたの。小学校にうちに。そして、ネットでゲームやったりチャットしたりして。やっと、友達ができた」

「その友達って、人間?それとも、AI ?」太一は、聞いてみた。

「人間に、決まってるじゃん!」と言って、秋本さんはウケていた。手を叩いて、しばらく笑っていた。「AI ってね。まだ全然ダメなの。会話が、AI臭いの。だから、すぐわかるよ」

「そうなんだ」

「だからね。Iris は、AI 臭さを改善してるつもり。まだ、ベストじゃないけど」

「じゃあIris は、現在世界最高?」

「そこまで、自惚れてないよ」と言って、秋本さんはしなをつくった。首を傾げ、右肩を少し前に出し、大仰に眉を上下させた。そうすると、彼女の澄んだ瞳が嫌でも目についた。

 秋本さんは、夢中になってしゃべった。太一は聞き役に徹した。かつ、適度に合いの手を入れて、話題を展開させた。そうすると、彼女はさらにノってきた。歌うように、踊るように彼女は話し続けた。

 彼女の傷。その一つは、孤独だと思う。孤独の痛みは、時間に比例する。放っておくと、さらに激しく痛むようになる。これは、とても良くある話だ。

「ごめんね。私ばかりしゃべって」

 そう言いながら、秋本さんは話し続けた。小学校時代の、とても些細な出来事。何気ないクラスメイトの言葉に傷ついたこと。担任の先生たちが、あからさまに彼女を嫌ったこと(きっと彼女を、持て余していたのだ)。それも、すごくつらい記憶だそうだ。

「私ね」

「うん」太一は、努めて優しくうなずいた。でも決して、わざとらしくないように。

「これ、人に話すの初めてなんだけど・・・」

「うん。なあに?」

 秋本さんは、うつむいてしばらくモジモジとしていた。でも、表情は明るく見えた。

「私、子宮が不完全なの」

「えっ!?」

「小さくて、子供を作る力がないの」

「・・・そう、なんだ」

 二人は、ある場所へ向かっていた。そこが、本物の秋本さんが住む場所だ。大学で実験している、よそ行きの秋本さんではない。部屋にこもり、血の涙を流す秋本さんだ。

「私、卵巣も精巣もあるの」

「・・・そう・・・!?」

「キンタマだよ!太一さんと、同じだよ!」と言って、秋本さんはしばらく笑った。「でもね。全部、不完全なの。私って、女でも男でもないの」

 秋本さんが、今日初めて乾いた顔になった。彼女の瞳から、光が消えた。彼女は目を細め、弱々しくテーブルのマグカップを見つめた。

「いつ、知ったの?」と、太一は秋本さんにたずねた。

「えっ!?」

「それは、病気だよね?いつ、わかったのかと思って」と、太一は説明した。

「中学生に、なったとき」と、彼女は小声で答えた。「病院で、詳しく調べられたの」平板な言い方だった。感情が、少しもこもっていなかった。昔の、天気予報みたいな言い方だ。「明日は、曇り後雨、次第に激しくなり、暴風雨になるでしょう・・・」

「なんかね、わかった気がしたの」と、彼女はささやいた。

「・・・んと、何がわかったの?」

「小さいころから、おかしいと思っていたこと。それが全部、わかった気がしたの」

 もし太一が、何も知らなかったら。彼は全面的に、秋本さんを支援しただろう。全力で、彼女の味方になったろう。彼女は、川島や笹俣と同じ人間だった。同じ苦しみを背負っていた。人生のスタート地点で、自分が幸せになることを諦める。「それは、仕方ないことだ。じきに慣れるさ」と、割り切ってみせる。だがそれは、無理なんだ。無駄な戦いだ。勝ち目はないのだ。

「ねえ」と、秋本さんは言った。彼女は、気丈にも立ち直って見せた。うっすらと、笑顔を見せた。

「うん」

「私のこと、誰かに話す?」

「うん。話すよ」

「誰に?」秋本さんは笑顔のまま、また眉毛をクリクリと上下させた。今度はとても自然で、素敵な仕草だった。

「真っ先に、隠しマイクを聞いていた人。もう、20年の付き合いなんだ」

「へえー。いいなー」と、彼女は言った。「私の人生と、同じ時間じゃない」

「そうだね」と、太一は笑って答えた。

「友だちがいるって、どんなこと?」と、秋本さんは聞いた。不思議な質問だけど、彼女に真剣なのだ。太一は、胸が熱くなってきた。

「あのね。断るけど、私も友だちは少ないんだよ」と、太一は言った。「でもね、友だちは刺激を与えてくれる。自分と違う見方とか、自分にはできない努力とか、自分では面白くもないことに興味を持っていたりとか。友だちと接するのは、とにかくエキサイティングだね」

「ふーん」秋本さんは、とても不思議そうな顔をした。想像できないのだろう。友だちがいる、生活をしていないからだ。

「何よりね。友だちは、私を叱るんだよ。友だちに叱られると、私はものすごいダメージを受ける。本気で、反省するんだ。なぜなら、友だちをとても信頼しているからね。その人に怒られると、ぐうの音も出ないよ。会社の上司に叱られても、『何言ってんだ、バーカ』って思う。でも、友だちは無理」

「そーなんだー」と言って、秋本さんは頭上に目を向けた。靴を脱いで、椅子に両足を乗せた。両手で膝を抱え、身体を縮めた。「じゃあさ。私のこと、叱る?」

「ん?」

「私、太一さんとなら、友だちになれそう」秋本さんは、膝に頬をこすった。右斜めの床を見つめた。

「私も、そんな気がしてたよ」

「やだ、優しーよ。やめてよ、もう」と、彼女は少し大きな声を出した。とても照れくさそうで、ニコニコしながら床を見つめ続けた。なぜか彼女は、太一から目を逸らした。

「でも、私は醜男だ。普通の女の子は、私と友だちにならないよ」

「私、普通じゃないから」と、彼女は答えた。

 しまったな、と太一は密かに舌打ちした。言葉が傷口に触れぬよう、言葉が傷口を覆うよう、太一は頭を絞った。でも、ついつい傷口に触れてしまう。それだけ、秋本さんのそれが大きいからか?

「もう一度、聞くよ。友だちとして、私を叱る?」と、彼女は言った。

「うん、叱ろうと思う」彼女はどうしても、この話題がしたいらしい。太一も、覚悟を決めることにした。

「お願い。ヨロシク!」

「君は、とても頭がいい人だ。さっき友達がいないと聞いたけど、決してそんなことないよ」

「そう?」

「うん。君と話の合う人は、たくさんいるよ。だから、大丈夫だ、心配ない」

「ふーん」彼女は、あまり納得していなかった。

「でもね。君は、所詮は『お子ちゃま』だ」

「そう?」

「そうだよ」と、太一は言った。「君はまだ、人の死を知らない。人が死ぬ意味を知らない。おそらく近親者や、身近な人を亡くした経験がないだろう。だから、人の死に鈍感なんだ」

「うーむ、当たってるかもね」と、秋本さんは言った。

「だから、Iris のせいで人が死んでも、平気でいられる。もしも君が、幼いころ親や兄弟姉妹を亡くしたら、死はゲームではなくなる。人の死が、自分の喪失でもあると理解するはずだ」

「なるほど」と、彼女は言った。それから久々に、太一の目を見た。彼女は椅子の上で、膝を抱えていた。

「すごい、よかった」と、直子さんは言った。「もっと言ってよ」

「いや。今日は、これまでにする」と、太一は宣言した。そうすべきだと思った。

「えー、なんでー?」

「これ以上、君の傷に触れたくない」と、太一は答えた。「自分が君の立場なら、今日はもう十分だ。次の機会に、ネタを取っておくよ」

「へえー。なんか、いー」と、彼女は言った。今度は、抱えた両膝に顔を押しつけた。そのまま、しばらくじっとしていた。

「私のこと、捕まえる?」と、彼女は話題を変えた。

「捕まえるというか、警察に通報して君を引き渡すべきだと思うよ」と、太一は答えた。

「やっぱり?」彼女は顔を上げて、ニヤニヤした。両足を床に下ろし、靴を履いた。

「うん。しょっちゅう、面会に行くよ」

「ごめんねー。私、捕まる気ないの。今んとこ」

 直子さんは、身をかがめて、大きなキャスター・バッグを開けた。中から500ml のペットボトルをひとつ取り出して、テーブルに置いた。ラベルが剥がされた、透明なボトルに透明な水が入っていた。

「これ、サリンなの」と、直子さんは言った。

「!!?」太一は、また身体が揺れるのを感じた。

「太一さんは、サリン事件のとき都内にいた?」

「・・・うん。都内のサラリーマンだった」

「大丈夫だった?」と、彼女は聞いた。

「当時、日比谷線で通ってたんだ。だから、とても危なかった。でもその週は、ずっと研修で幕張メッセに通っていてね。だから、事件を避けられたんだ」

「よかったね」と、無邪気に彼女は言った。「これね、Iris で知り合った人が作ってくれたの」

「・・・そう・・・」

「しっかりした設備があれば、意外と簡単らしいよ」

 太一は、目の前のペットボトルをにらんだ。中の液体を、見究めようとした。しかし、その方面はまったく知識がなかった。本物か、偽物か、区別がつかなかった。これが「信用ゲーム」だと、秋本さんもわかっていた。

「疑ってる?」と、直子さんは聞いた。彼女は、ディズニーランドではしゃぐ子供のようだった。このアトラクションに、秋本さんはとても満足していた。「試しにさ。この部屋の一番奥に、このペットボトル投げてみる?二、三分待てば、症状が出るそうだよ」

「いや、いい」と、太一は答えた。

「これ見て」そう言って、秋本さんはキャスター・バッグのファスナーを全開にした。それを少し持ち上げ、傾けた。中には、ペットボトルが二十本くらい入っていた。たかがペット・ボトルに、こんなに恐怖を覚えるとは。太一は、その事実に驚いた。

「すごく重くて、大変だったんだよ」と、本当につらそうに彼女は言った。「でも、太一さんと会うからさ。下手なお土産、持ってけないと思って」

「ありがとう」と、太一は答えた。「私と会うのが、そんなに楽しみな女性はいないよ」

「期待通りだったよ。すごい楽しかった」そう言って、彼女は立ち上がった。「そろそろ、帰るー」

「そう?」

「うん。またね(^o^)」

 重そうにキャスターバッグを引いて、彼女は太一に背を向けた。そしてゆっくりと、エレベーターに向かった。彼女はわかっている。太一が警備員を呼んだり、警察を手配したら、サリンを撒けばいい。あれだけの量なら、大惨事を起こせる。だがあれは、全部水かもしれない。かと言って、ギャンブルはできない。あまりに危険すぎる。

 太一は、一人席に残った。会社に電話もできない。下に降りて、公衆電話を探すしかない。

「よう。どうだった?」

 びっくりした。背後から、なんとのっぽさんが現れた。彼は、音声が途切れた直後に、車でここに駆けつけたそうだ。のっぽさんは、たった今まで秋本さんがいた席にどかっと座った。深々と腰掛けて、太一に聞いた。「で、会談の結果は?」

「完敗ですよ」と、太一は答えた。笑おうとしたが、顔全体が引きつっていた。
















 

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