030.出会いは今更に
酷く疲れ切っていたニーナは、部屋に入るなり服を脱ぎ捨て、重力のなすがままにベッドに倒れ込んだ。秘密回線で
しばらく微睡みの中を揺蕩っていると、部屋の扉が控えめにノックされた。肉体の疲労は相変わらず極度に達していたので、無視して横たわっていようかと考えた。しかし、今の彼女を訪ねて来る者といえばフェンしかいない。気心の知れた仲ならいざ知らず、今日あったばかりの人間に無視は流石に失礼なので、ニーナは鉛の様な全身に力を入れて立ち上がった。
扉をゆっくりと開けると、そこにいたのはフェンでは無かった。眉を綺麗に整えた、一見して陽気そうな男が立っていた。その男は明るそうな雰囲気と表情だったが、眼の底はこれ以上なく冷酷で、ニーナの事をゴミでも眺める様にじろじろと見ていた。
「あの、部屋を間違えていませんか……?」
「やあ、リシア・フォルシュタイン。君の友人のフランクだ。仲良くしようじゃないか」
男――フランクの言葉を聞くなり、ニーナの瞳はぼんやりと焦点を失い、彼女の意識は一種の朦朧状態になった。ニーナ自身の意識はフランクに違和感を覚えなくなり、彼の事を唐突に思いだす。余りにも不自然な記憶の変化も、今の彼女は認識することすら出来ない。
「ああ、フランク……フランクさんでしたか。どうぞお入りください」
「少しだけ時間を貰うよ」
「はい」
フランクは部屋の中に入ると、適当な椅子に腰を下ろし、すぐに口を開いた。
「君、迎えやサポーターはいなかったのか? まさかヒッチハイクなんて馬鹿な手を使うとは思っていなかったよ。更に乗った車が化け物の様な改造車ときてる。見失いそうになった時は流石にゾッとしたね」
そう言ってため息を吐くと、その事を忘れる様にして話を変えた。
「まあ、要点だけ伝えよう。君のやる事は覚えているね?」
「はい。SOUにウェリッツァーの場所を報告し……兵器データを提出します」
「その通り、データは持っているかい?」
「はい」
そう言うと、ニーナは隠しポケットの中から小型のケースを取り出した。中にはウェリッツァーのコンピュータからデータを吸い出したチップが収められている。
「結構。戻して」
ニーナが書類を戻し終わると、フランクは再び早口で喋り始める。
「君がその任務を終えた後、もう一度会いたい。しかし、SOUの息のかかったホテルなんかには流石に手を出せないからね。待ち合わせ場所を決めておこうというわけさ」
「恋人みたいな話をしてるね」と笑うフランクに、ニーナは無言でぼんやりとした瞳を向けている。
「それでだね、ダンソン・スクエアのスイーツ店、エレノア……君はケーキが好きなんだろう? データに書いてあった、待ち合わせ場所としても不自然じゃない……。そこに三日後の午前十時に来てくれ。それから更に安全な所に案内するから」
「分かり、ました」
「それじゃ、早いところお暇するとしよう。今の君には連れがいるからね。遭難者がいきなり誰かと会っていても不自然だし、知り合いだと勘違いされて押し付けられるのも面倒だ。記憶の消去は日付の違和感に対処し難い。専用のストーリーを組めばそうでもないんだけど……」
フランクは立ち上がると、部屋の真ん中で突っ立っていたニーナの耳元に顔を近づけ、密やかに囁いた。
「それじゃ、僕と会った事は忘れて、眠るんだ。いいね、三日後の午前十時だよ」
「はい……」
フランクが背を向けると同時に、ニーナも朦朧としたままベッドに向かった。フランクの姿が音もなく部屋から消え、ニーナはベッドに夢遊病者の様に倒れこむ。そのまま彼女は瞳を閉じ、死んだように微かな寝息を立て始めた。
◆
翌日、ニーナは二日酔いのようにガンガンと痛む頭で目覚めた。吐き気すら覚えたので、喉を押さえながら備え付けの飲料水を浴びる様に飲む。気付かぬうちに眠っていたのか、前夜の記憶が殆ど無かった。ホテルを見つけて、部屋に入って……それから何も。
体調の悪さは自覚していたが、流石に酷い。病か、放射線か、はたまた他の原因か。ウェリッツァーで何かしらの病原菌を貰って来たと言われても素直に信じてしまえそうだ。あそこはウイルスや抗体に関する研究もしていたはずである。
「うっ、本当に有り得そう」
嫌な想像を巡らせながら、シャワー室へ向かう。汗で湿った服を脱ぎ、狭い室で冷水を浴びる。火照った体が流水に冷やされ、心地よかった。
「ああ、気持ちいい……」
久しぶりの洗体だ。汗や垢でベトベトの体が清められていく感覚は、言葉に言い表しようが無い。ましてや、綺麗好きの乙女ともあらば尚更である。
旅行ではないので着替えは持って来ていない。しわくちゃで汗の染みた服をもう一度着なくてはならないことに辟易したものの、しょうがないと割り切る。どの道レグラスカに付けばまっさらな服が手に入る。それまでの我慢である。
ニーナがちらりと時計に目をやると、時刻は午前六時を回ったところだった。シャワーの時間を考えると、それなりに早く目覚めた方だ。
カーテンを開けて外を見れば、雲ひとつ無い深い青が広がっていた。嵐は過ぎ去ったらしい。窓を開ければ清々しい空気が流れ込んでくる。
「このホテルは食事は無いようですし……何か買いに行きますか」
ホテル内の売店へ向かおうと、部屋を出る。キーは机に置いてあったので、探すのに時間をかけずに済んだ。
売店に行くと、煙草を吸いながら商品を物色しているフェンと出会った。
「リシアか、早いな」
「ええ、早く目が覚めまして」
偽名に反応するのも意識すらせずにできる。任務が終わるまでは、自分はリシア・フォルシュタインであり、自分を間違える人間はいない。あらゆる存在の中で、自分だけがただ唯一確信を持つことができる存在なのだから。
フェンのかごをなんとなしに見ると、煙草が呆れるほど積まれていた。灰皿からヘビースモーカーだと予想していたが、流石に多すぎる。しかも、統一感が無い。味は全く重視していないと見える。
「銘柄に好みなどは無いのですか?」
「何でもいいな。吸ってると落ち着くだけだから」
それにしても雑食すぎると思ったが、何も言わなかった。ニーナもかごを取り、砂糖をたっぷりまぶしたパンや、チョコとピーナッツを何層にも重ねたバー、極彩色のスコーンなどを入れていく。甘味の暴力とも言える、高カロリーラインナップである。
「……よくそんなに食えるな」
「え、普通じゃないですか?」
「ふむ……女の胃袋は男とは違うのかもな」
購入後、十分と経たずに食べ物は腹に収められた。我ながら呆れるほどの食べっぷりである。肉体はよほど飢えていたらしい。
朝食が終わると、チェックアウトをしてレグラスカへと出発した。晴れ渡った天気だが、死ぬに良い日ではない。というわけで安全運転をお願いした。フェンのスピードは死神の世界に足を踏み入れている。
F1と同じ速度が出るマシンもおかしいし、平気でアクセルを踏み込めるフェンもおかしい。工作員として様々な人間を見てきたニーナは、人間に対する寛容さはまあまああるつもりだ。一般人はおかしいと思うような人間でも、そんな人間もいるだろうと流すことができる。だが、フェンは車の速度を出しすぎるという一点だけでおかしい分類に入ってしまった。なにせ、ここはレーシングコースではなく国道なのだ。
話してみた感じはまともそうなのに……。
昼を回った辺りで
「助かりました……」
ニーナが礼を言うと、フェンは気にするなと手を振った。
「次は気をつけるといい。あんな場所で遭難したら、死ぬかもしれないからな」
「ええ、肝に銘じました。二度とあそこには登りません」
これは本心だった。あんな場所のある山には、二度と近づきたくない。
唐突にコール音が鳴った。ニーナのデバイスとはコール音が違う。フェンはデバイスを取り出して画面を見たあと、微妙な表情で通話を繋げた。
『フェン! ちょっと迎えに来い!』
「いきなり何だ? ついに自分の足でも歩けなくなったか」
『酔って動けねえ。マジで良い気分だ。ノエルの奴にも電話かけたんだがな、見つからねえってよ。馬鹿だからなあいつは』
「見つからない? お前どこで寝てるんだ?」
『
「闇市場? あそこにはないだろ。お前マジで何処にいるんだよ」
『だからVIP用なんだろ、多分。シークレットなんだよ』
「分かった、とりあえず行ってみる。お前そこから今すぐ出たほうがいいぞ」
『心配すんな、あのガキが安全だって言ってたからな』
「話は後で聞く」
フェンは通話を切り、大きく溜息を吐いた。
「知り合いを拾っていく。途中で降りるなら言ってくれ」
「え、ええ……」
ニーナは戸惑いながらも返事をしたが、頭の中は彼らの会話に気を取られていた。闇市場、闇市場と言ったか、今?
彼らが言っているのは、国家の公認を得ていない市場としての闇市場とは違い、組織としての闇市場の事だろう。世界中にその根を伸ばす巨大組織。ありとあらゆる全てを売買する、死と腐敗のマーケット。石ころから戦略兵器まで、闇市場で手に入らないものは無いと言われている。ウェリッツァーとは別ベクトルで極めて危険な組織だ。
正直なところ、ウェリッツァーだけでも手一杯なのに、闇市場などという厄介な案件は勘弁してほしかった。見てみぬふりをしてもいいだろうか?
ヴァイ通りはレグラスカの中心部からはやや離れているので、時間をかけずについた。パーキングに車を止めると、フェンは辺りを見渡しながら車を降りた。待っているように言われたが、ニーナも一応国家機構に属する者として、危険組織の手掛かりをみすみす逃すわけにもいかない。
「ご友人は倒れているのでしょう? 介抱しますよ」
「あいつに介抱なんぞいらない気がするが……まあいいか」
割とあっさり許可がおり、ニーナはフェンにくっついて通りを歩いた。普通の街中に見えるが、どこかに闇市場が存在しているのだろうか?
「ん? まさかここか?」
フェンがいきなり立ち止まり、そう呟いた。ニーナは辺りを見渡したが、何処なのかさっぱり分からない。どこもかしこも普通に見えるし、怪しくも見える。
「これ闇市場じゃねえだろ……ウェリッツァーの支部だな。あいつが生きてるといいが」
「ええ!?」
声を上げ、慌てて口を押さえる。いきなりウェリッツァーの名前が出て、思わず口から言葉がこぼれてしまった。諜報員としてあるまじき失態である。
「知ってるのか? まあ、あいつらは有名だからな」
フェンはそう言ってさらりと流したが、ニーナは何故フェンが知っているのかを尋ねたくてたまらない。ウェリッツァーは国家ですらその尻尾を掴むのに苦労した相手だ。それを偶然ヒッチハイクした相手が知っているなど、あまつさえウェリッツァーの支部の場所まで知っているなど、何の冗談だ。
SOUもこの通りにウェリッツァーの支部があることなど知らない。フェンはそこに友人を迎えに来たらしいが、まさかその友人がウェリッツァーの関係者なのか?
「あれだよ。分かるかな……理解の盲点にピントを合わせて見るんだ。ただ認識の方が意識を避けているだけだから、少し気を付けて見ればすぐ分かる」
フェンは通りの一点を指さした。その先に目をやると、まるで魔法の様に一つの建物が通りに存在していることに気付いた。今の今まで、存在すらしていなかったものが、今目の前にあった。気付かなかった、などというものとはレベルが違う。その建物は正しく今この瞬間にこの世に現れたとしか思えない。それは余りにも異常なことだった。
「あの意識を流す設計を考えた奴は天才だな。さて、見えたようだし行こうか」
「……あれがただの設計で? 天才なんてものじゃない……あんなもの誰も気づかないじゃない」
「まあ、コツがあるんだよ。知ってればなんてことない手品だ」
フェンは軽く言って建物に向かっていった。その背を茫然と見つめていたニーナは、ようやく気が付いた。どうやら、今になって裏社会の作法を知る存在と出会えたらしい。作戦前に出会えていたら、我々もどれだけ楽が出来た事か。過ぎた日の苦労を思い返しながら、ニーナは溜息を吐いた。
ウロボロス No.9~今や流浪のC級傭兵~ Kuszzyva @kuszzyva
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