028.最悪の気分

 



 近頃よく人間を拾うな。

 後部座席でうなされる様にして眠っている女をミラー越しに見やりながら、フェンはそんな事を思った。

 葉や小枝が絡みつき、土の飛んだ服や、細かな傷のついた肌。随分と疲労している様で、表情は辛そうに歪んでいるが、ピクリとも身動きしない。ただ、掠れた音を出す息によって、胸が上下しているだけだ。


「しかし、あんな所を登るアホ……いや、奇特な奴がいるとは」


 彼女を拾ったファレオロンは、山脈に連なる山々の片隅にある、恐ろしく目立たない一地域である。余りにも辺鄙な所だし、何も無いしで、登山など考える様な場所ではない。それは何も登るのが難しいという理由では無くて、余りにも何も無さすぎるからだ。

 とにかく運動には険しすぎるし、本格的な登山には知名度――というよりはあらゆる全てが足りなさ過ぎる。ファレオロンの近場には設備は欠片も無いし、そもそも登山道などといったものも聞いたことが無い。フェンもそこまで詳しい訳では無いが、この地域で山登りをする位ならば、バニッサの霊峰とは言わないまでも、もう少しまともな――きちんと登るための整備がされている――ビス・ロット辺りにでも行く方が千倍マシだろう。

 まあ、別にどこの山だろうが登るのは個人の自由なのだが、こんな所に登った挙句に遭難したとなると、考え無しの馬鹿であることは間違いない。


 フェンは車の窓を開き、煙に澱んだ空気を田舎の澄んだものに入れ替えた。彼にとってはどうとでもないが、疲労した女には少々悪い空気だった。既に車は種々様々な自然に満ちた――自然しかない――ファレオロンを抜け、田舎町の片隅に入っていた。



 バニッサの山影と森に囲まれた細い平地を、のんびりと車が走っていく。時折西から森を超えて海鷲が迷い込んで空を回り、再び西へと戻って行く。空気に含まれる潮の香りや、海鷲の種類から、海が相当近い事も窺えた。森を越えればすぐに西方海が姿を見せるだろう。日はやや傾いているがまだ高く、フェンの目的は問題なく果たせそうだった。

 青草が流れる様に生え、風に揺れている。その中に細く続く道を過ぎ、ちらほらと道路脇に家が見えてきた。車は寂れた店の前に止まり、フェンは降りて腕を伸ばした。それなりの時間車に乗っていたので、背筋や肩のところが強ばっていた。


 店は寂れてはいたが、見た目としては華やかであった。錆びて赤茶けた看板や、ボロボロになったレンガの壁や、剥がれた漆喰などが年季を感じさせたが、それらを覆い隠すようにして、色とりどりの花々が建物の表に並べられていた。赤や黄や青や紫といったくっきりとした、しかし自然な色合いがこの空間に鮮やかさを与えている。開きっぱなしの扉の向こうでは、日に焼けたソファに腰を下ろした老婆が、旧式の鼻に乗せるタイプの丸眼鏡をかけて、ピクリとも動かずに赤表紙の本へ目を注いでいた。

 全く百年前からここに建っていたかの様な、見事に古びた店だった。現代では廃れたレンガ組みの家というだけでもそうだが、上部が丸まって下部が平たい、格子枠に嵌められた窓や、窓の下に突き出た半円の小さな花壇、三角錐の尖塔の様な屋根など、古い時代の様式がこれでもかと詰め込まれていた。


 フェンが中に入ると、老婆は僅かに首を動かして、眼鏡を震える手で外し、たるんだ瞼の下からぼやけた様な黒黒とした目を彼に向けた。皺だらけの顔がぐにゃりと動き、入れ歯の入った口をもごもご動かして、「おや、こんにちは……」と、語尾が消え入る様なしゃがれた声を発した。


「花を包んで欲しいんですが」

「へえへえ、少々お待ちくださいませ」


 老婆はソファからゆっくりと立ち上がり、曲がった腰を二三度揺らして、すり足でフェンの方へ近づいた。


「どんなお花をお求めで?」

「墓参りに使えそうなのを」


 墓参りにどんな花がいいのか、彼は何度も経験しているというのに全く無知であったので、全てを老婆に丸投げした。確かに老婆の方が彼よりもマシな花束を作ることが出来るだろう。


「はいはい……何か、えー……故人のお好きだったお花とかはありますかえ?」


 これは毎度のように聞いた言葉――フェンは墓参りの時には、いつもこの店で花を買っていた――ので、スラスラと答えた。


「あいつは薔薇が好きだった」

「薔薇ですね。少々お待ちくださいな」


 彼は花を選別しに行く老婆の後ろ姿を見ながら、果たして今から墓参りに行く相手が、薔薇の花束など渡されたら、どういう反応をするだろうかと考えた。この思考も墓参りに付き物だった。

 決まっている、烈火の如く怒りだし、こう叫ぶだろう。


『俺が好きなのは『薔薇ローズ』であって『薔薇』じゃねーんだよ!』


 その姿が眼前に見える程に克明に想像出来たので、フェンは少しだけ微笑んだ。以前キーラが同じことをやった時、全くこの通りの反応を返したのだ。フェンの想像は記憶の中から引っ張り出されてきた姿に過ぎない。しかし、当時の彼が怒ったとはいえ、『薔薇』は相応しい贈り物と言えるだろう。それはフェンの煙草のように、キーラの酒のように、死者と決して離せない――というよりは、離すことが不可能な――ものだったのだから。

 彼が少しだけ故人を懐かしんでいる間に、老婆は花束の選定を終えていた。


「故人のお好きだった薔薇と、死者に捧げる白百合。この花束はどうです?」

「構いません」


 見た目にも墓参りにも悪くないその花束を受け取ると、フェンは礼を言って花屋を後にした。フェンは何度か墓参りのためにこの地域を訪れていたが、毎回思うのが、この地域で華やかなのはあの店だけだろうということである。それ程にこの地域は地味なのだ。




 ◆




 うなされるという経験は久々だった。とにかく不快という気分しか湧いてこず、ただ一刻も早く解放されたいと、それだけを願っていた。


「経過は順調です。傷も目立ちませんね」


 ぼんやりと、どこかで聞いたような曖昧な声が聞こえた。それを聞いている肉体は、欠片も動かなかった。


「当たり前だよー。私を誰だとおもっているのかなー?」


 間延びした、呑気そうな声。ぼんやりとノイズがかった様な環境音の中で、その声だけはくっきりと、耳元で発せられたかのようにはっきり聞こえた。リシア――ニーナの心臓は一段早く動悸した。


「しかし危険な手術でしたからね。後遺症には細心の注意を支払わないといけません」

「分かるよー。しかし髄膜に影響が出ていない事は確認済みだからねー。骨の癒着が終われば、全く健康間違いなしさー」


 再び心臓が高なった。胸がちぎれそうな程に高速で鳴り響き、全身に凄まじい熱を感じた。それと同時に、心の底から逃げ出したい気持ちを感じた。


「問題はその後ですね。上手く行くと良いですが」

「それに関しては心配しないでもらおう。■■■博士が我々の注文通りにしてくれていたならば、何の問題もない」

「もうー! みんなして私の腕を疑うってのかーい?」


 この声だ。この声こそが苦しみの源なのだ。聴けば聴くだけ、汗が、恐怖が、苦しみが湧いてくる。こんな気分を引き起こす声――そうだ、これはあの女の――


「まさか! ……を切り開いて、これ程の……」

「目覚め……その後……実験結果……」

「……は……をして……」


 雑音が酷くなった。いや、ニーナの意識自体が滅茶苦茶に混乱していたのだ。

 何かを思い出そうとしても、そのやり方が分からなくなる。大体ここが現実か、それとも夢なのかすら曖昧になっていく。


 何かを考えては……いけない?


 何を考えてはいけないのか? そんな疑問が意識の片隅から声を上げたが、すぐに波濤の如く襲いかかってくる疲労感に押しつぶされた。


 ――目的は?


 ふと意識に上ったこの問に、ニーナは無我夢中で答えていた。答えれば楽になれると、無意識に知っていた。


「情報を! 情報を持ち帰ること!」


 言葉を一息に吐き出すと、途端に楽になった。恐怖も苦しみも無くなり、ずっとそれに浸っていたいと思える様な安心感に包まれる。つい先程とは異なり、ずっと目覚めたくないと主張する心。苦しみの夢は無限の幸福へと変化した。それは精神的な充足なのか、肉体的な快楽なのか、それともその両方だったのか、彼女には判断がつかなかった。分かることは、ただただ幸福であるという意識。満たされた魂の安息であった。


 彼女の冷静な部分、人生の中で培い極め、一つの技能と化した精神。あらゆる主観から切り離された判断力は、それが全て偽りのものであることを主張していた。しかし、最早そんな事はどうでも良くなるほどに、彼女の人間的な部分は侵略されてしまっていた。

 人間に欠かせないもの、それが無くては人として成り立たないものは、幸福の効果に抗うことすら出来ず、ことごとくやられてしまっている。今の彼女にかつてのまま残っているものは、その職務に必要だった為にやむを得ず作り出された、人間を機械化するためのパーツとでも言うべき部分だけだった。そこだけはあらゆる何ものにも影響を受けず、孤独に、そして懸命に救助を求めていた。


 暗闇が晴れ、明るい光が姿を現す。ニーナはいつの間にか、故郷の生まれ育った家の居間に立っていた。母が、父が、弟が、姉が、全ての家族が――既に死んだ祖父や祖母も含めて――揃って、暖かそうな暖炉を囲んで微笑んでいた。赤々と燃え、薪のはじける音のする暖炉から、熱いほどの生命を秘めた空気が流れ込んでくる。

 壁にかかった金盤の仕掛け時計も、戸棚の定位置に置いてあったカップも、ドアノブにかかった手作りの人形も、全てが彼女の幼い頃のままだった。彼女は自分の視界が急激に低くなっている事に気が付いた。居間の玩具箱に入っていた手鏡を取り出してみると、四、五歳頃の自分の姿が目に入る。それに驚きは無かった。

 彼女が家族の元に近づくと、優しい微笑みを浮かべた祖父が、皺だらけでこい指毛の生えた手で、彼女のサラサラとした黒みがかった髪ごと頭を撫でた。祖父も祖母もとても優しかった事――彼らが生きていた頃は、いつも抱かれて撫でられた事を思い出した。


 窓の外は暗く、白に染まっていた。彼女の故郷は一年の大半が雪に包まれた極北地域にあり、日が落ちるのは早く、雪やけが常だった。吹雪いている外界とは隔離された家の中で、夕食後に皆で過ごすこの時間が、幼い彼女は大好きだった。


 安らかな時間がそこにあった。既に過去に置き去りにして、ただ時折思い返すだけだった緩やかな日々。その暖かく、安らぎに満ち、幸せだった世界が彼女の目の前に存在していた。

 ニーナはすとんと納得した。

 彼女が心の底からの幸せを感じていた頃に、彼女の全てが舞い戻っていた。成長する中で捨てて来た、或いは失わざるを得なかったものが、全て当時のままに彼女を待っていた。

 勿論成長の中で得てきたものもあろうが、知恵をつける度に幸福を受け入れる事は難儀になるものである。世界を知るにつれて、未来に対する不安は際限なく湧き上がってくるのだから、心の底からの幸福からは縁遠くなる。

 彼女はその世界――つまりは過去に戻るという有り得ない出来事を、全く疑うこと無く受け入れた。これは普段の――諜報機関工作員として訓練を受けた彼女であれば有り得ない事だったが、殆どその能力は機能していなかった。


 今のニーナが求めているものがそこにはあった。すなわち、心の底からの安らぎ、恐怖の無い場所であった。不思議な事に、彼女はこれを夢と認識していながら、一方では現実として受け入れていた。

 現実でない事は確かだ。しかし、彼女の中では現実なのであった。そういった性質の混乱を引き起こす夢――そうとしか思えなかったが、それでも構わなかった。夢の中の不条理は不条理では無く、非現実は現実性を帯びる。端的に言えば、全てが有りうることなのだ。


 彼女は家族から守られ、あらゆる不安から解放されて、ただただ緩やかな時間の中を過ごした。時間の感覚は無かったし、不必要であった。それは正しく、時の概念から解放された幸福だったのだから。


 しかし、精神の揺蕩いは、肉体の覚醒という外部からの影響を受けざるを得なかった。それに気が付いた時、彼女は何が起きているのかが分からなかったし、そもそも肉の感覚を忘却していたとも言えた。但しこれは夢の中の話であって、目覚めの瞬間から全ては消え去った。

 彼女は永遠とも思われた幸福を綺麗さっぱり忘れ去り、しかしどこか心の深くに悦楽の楔を打ち込まれたまま、漠然とした不安感を抱きながら目覚めた。その不安感の出処は彼女自身に分かる類のものではなく、ただ流れる汗ととてつもない速度で鼓動する心臓だけが、どこかに恐ろしい存在が巣食っている事を示していた。


 開け放たれた窓からは、田舎風の微風が流れ込んできて、汗だくの体をゆっくりと冷ました。雲のぷかぷかと浮かぶ青空と、建築物とは無縁の緑の地。太陽の柔らかで暖かみのある光の元で、様々な生命が自然に隠れながら動き回っている。

 ニーナは浅く呼吸して肺に空気を取り入れながら、汗を腕で拭った。酷い気分だったが、外の陽気な、ゆったりとした時間に生きる景色を見て、多少落ち着いた。


「疲れのせい……でしょうか?」


 この凄まじく嫌な気持ちは、余りにも疲れたせいかと、そう自問自答した。そうでもなければ考えられない程体調は優れなかったし、精神の衰弱は自分でも自覚できるくらいに酷かったからである。


「眠ったのに、全く回復してる気がしませんね……」


 溜息を吐き出すと、ニーナはだらんと背もたれに体を預け、ぼうっと虚空を見つめた。何もする気が起きなかったし、眠気は無いのに怠くて仕方なかった。ひたすらに疲れており、腕を持ち上げることすら億劫だった。

 しかし、風に当たれば何か変わるかと、やっとの事で外に出た。


 心地よい天気であった。

 晴れ晴れとした陽光が彼女の体を温め、気だるさと頭痛を取り除いていく気がした。常に張っていた警戒が弛緩し、それに伴い全身がリラックスした。足が体を支えることすら覚束なくなる様な、癒しが全身に広がっていく気持ちの良い感覚を味わった。


 ニーナは辺りを見渡し、ここが霊園の近場の空き地である事が分かった。崩れた岩を円形に並べ、ある程度の敷地を確保した場所で、岩の隙間に小さい草花が顔を出し、乾いた地にみすぼらしい田舎っぽさを与えていた。

 入口とは逆の端から土と石で固められた段々が上へ続いており、その先には整然と並べられた石の並びが覗いていた。白いのや黒いのや、風雨に薄汚れ、砕けた岩と何も変わらないようなものまで見えたが、見上げる位置関係上、見えるのは端の一列のみだった。それらは形こそ違えど、死者の眠る場所を示しているに違いなかった。


 ニーナはふと、フェンの姿が無いことに気が付いた。こんな場所に車が停まっている以上、彼は墓参りに行っているのだろう。

 風が少し吹いてきて、山々の向こうから灰色の雲が顔を覗かせ始めた。心做しか、空気も僅かに温度が下がり、光が陰ってきたような気がする。僅かな変化だったが、嫌なものを呼び覚ます様な変化であった。どこかこの場所が寒々しい感じを帯びてきて、彼女の弱った心を不安にさせるような景色へと変わってしまったので、ニーナはふらつく全身を無理やり動かして、石段を登り始めた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る