024.とある潜入者の結末




 セブンクロス北方にあるバニッサ山脈。地上四千メートルを超える山々が連なり、灰色の山岳を形成している。最も高いウルキナ山は六千メートルを超え、他の山々を悠々と白く厳つい頭で見下ろしている。


 その山脈を構成する名もなき山の一つ。登山家に人気という訳でもなく、何か道が通っているという訳でも無い、足を踏み入れようなどと誰も考えない山。

 その人の入らぬ頂上からずっと降り、地上千メートル程の高さにある小径では、青葉をつけた木々が春の光を浴びて、ほんのりと湿った豊かな土に木漏れ日を投げかけていた。昆虫の鳴き声、鳥の羽ばたき、葉の擦れる乾いた音。一歩道から外れれば、そこはもう獣の領域だ。

 そんな道を歩くのは、二人の人間だ。登山服を身に着け、滑り止めを付けた重靴を履いて、額から汗を流して歩いている。


「はぁ、はぁ……あなた方はいつもこんな道を通っているので?」


 汗を拭いながら、クールな顔を汗と疲労で彩った女が尋ねた。彼女の登山服の中身はもうびっしょりで、湯気が立ちそうなほどに暑かった。


「まあ、そうですねえ。何せこの道は実に古く、整備なんか考えられませんからなあ」


 答えたのは、同じく登山服を着た中年の男だが、彼の方は全く平気そうな顔をしていた。汗は多少かいてはいるが、女ほどには堪えていない。

 男は女の辛そうな顔に気付くと、気を遣って休憩の提案をした。


「リシアさん、一旦休みますか?」

「お、お願いします……」


 リシアはそこらの木の根に腰を下ろすと、ぜぇぜぇと荒い息を吐きだした。木々の隙間から見事な景色を眺めることが出来るが、そんなものに構っていられないほどに彼女は疲弊していた。


「ジーンさんは、随分と体力がおありで……」

「ははは、男と女を比べちゃいかんでしょう。それに私は慣れてますからな」

「いえ、私も結構体力には自信があったのですがね……」


 彼女たちの通っている道は、そこらの登山道などではなく、どちらかと言えば獣道に近かった。遥か昔の交通が発達していない様な時代に、ごく一部の人間が切り拓いた、呆れるほどに険しい道だ。地図にも載っておらず、地元の人間ですら知らないという、最早忘れられている小径なのだ。


「ま、私もこの道は結構きついと思うとるんですよ。研究科の方は一度入れば数年出ないからまだいいが、私の様な外部担当は年に何度も行き来してねえ。おかげですっかり体力がついちまいましてな」


 水筒の冷たいティーを飲みながら、リシアはジーンの話を聞く。ジーンの顔をさりげなく注視して、その目が横を向いた隙に、彼女はポケットからこっそりと白い石を道の影へ落とした。


「ふぅ、もう大丈夫です。行きましょう」

「そうですか。それじゃあ、もう少しですし、行きましょうか」


 ジーンはリシアの行動には何も気づかなかったらしく、笑顔で歩き始めた。リシアも微笑みを浮かべてそれに付いていく。彼女の微笑みは、何も知らない者が見れば、ようやく目的地にたどり着くことを喜んでいるように見えた。



 それから一時間以上もかかって小径を抜けた先には、堂々たる巨大施設の入り口が口を開けていた。とはいっても、分かりやすくそんなものがあるわけではなく、木々と岩壁の中にカモフラージュされて、上空からではまず分からないであろう。そんな風にしてそれは存在していた。

 日は高く、昼を回っている。出発が明け方三時であったのを考えると、随分とかかったものだ。リシアは自身の体力を考えて、素直にそう思った。実際彼女は体力はあるのだ。職業上絶対に必要なのだから。


 入り口にはグリーンとブーリィウッドの迷彩柄を着た男たちが立っており、ジーンの姿を確認すると、片手を上げて敬礼を示した。どうやら、ジーン・ベックという男はこの施設の中でもそれなり以上の地位にあるらしい。


「着きましたよ。もうきついことはありません」

「はは、凄く達成感がありますね」


 リシアは笑いながら、ポケットの中に何も入っていないことを確認した。彼女は小径に入ってからずっと、あの白い小石を落とす行為を続けていた。

 あの小石は微弱な放射線を放つ特殊な石であり、山の石灰石の中に紛れ込みながら、今も放射線を放ち続けている。測定器の数値を追っていけば、この場所に辿り着くという仕組みである。

 既存の衛生回線や通信回線を利用した発信機では、この山、この施設の異常にハイスペックなセキュリティを潜り抜ける事は不可能なのだ。

 山道にカメラが無いことは確認している。いくら隠さねばならない施設だとはいえ、あんな所に一々カメラなど引いていられない。


 リシア・フォルシュタイン――本名ニーナ・エヴァスターは、セントラル合衆国特別諜報機関の工作員――その中でも最も優れた者のみが所属する、極秘作戦部署の職員である。若くして数カ国に堪能で、様々な技術に造詣が深い。また、一流の役者アクターでもある。世間知らずの小娘から華やかなるヴァイオリニスト、場末の娼婦まで、彼女にこなせぬ役柄は無かった。

 諜報機関の意向のままに、彼女は二年という歳月をリシア・フォルシュタインとして過ごし、ようやくこの場所――ウェリッツァー研究所に辿り着いた。

 南のヨリンゾア・ファクトリー、東の天目あめのま機関と並んで、裏社会にその名を轟かせる西の研究所。反倫理主義の聖地。そして、あらゆる国家垂涎の頭脳が集まる場所。


「少し身体検査がありますので」

「ええ、承知しています」


 ニーナは笑顔でジーンに答えた。もうポケットに小石は無く、怪しまれる様なものは何も無い。


 ニーナは門を潜り抜けた時、背中にほんの僅かな悪寒を感じた。それは外界と内部の温度差が作り出したただの鳥肌か、はたまた本当に空気そのものの質が変わったのか、彼女には判別が出来なかった。



 ニーナはジーンに案内され、白い壁の部屋に通された。身体検査をここでやるのだろう。

 ニーナはジーンに服を脱いでも良いと言われた。今の今までずっと登山服であったから、脱ぐと随分と爽やかで清々しく感じた。

 尤も、全てを脱いだ訳ではなく、下に着ていたホットパンツとベースレイヤーは付けたままだ。だが、それらもぐっしょりと湿って濡れていたので、ニーナは小さくくしゃみをした。


「寒いですか? 空調を調節するように言いましょう」

「いえ、平気です。中が蒸れていたせいですので、すぐに慣れるでしょう」

「こんな所で風邪でもひけば大事ですよ。薬が届くのにも時間がかかりますので。体はお大事に」

「ええ、ありがとうございます」


 ガチャリと扉が開き、ライムブルーの警備服を着た屈強な男が三人、順に部屋へと入って来た。


「ああ、来たか。おい」

「はっ!」


 ジーンの言葉で、男たちはニーナの元へと規律正しい動きでやって来た。


「こんなむさい男どもですみません。うちには女が殆どいないのでね」


 ジーンは申し訳なさそうに謝った。ニーナは平気だと返し、服を全て脱いだ。彼女はこういった身体検査は慣れていたし、体を見せることも平気だった。そんな事で恥ずかしがっていては工作員など務まらない。尤も、必要とあらば恥ずかしがる事も出来るが。


 目、口、耳、髪。十分以上かかってあらゆる所を徹底的に調べられ、ようやくニーナは解放された。着ていた服も調べられたが、そちらも問題なく解放されていた。

 磁気検査もされたが、放射能検査まではされていない。人間相手に一々そんなものをするはずも無いが、この場所の警戒は非常に厳重である。もしやあるかもしれないと思っていただけに、この時ばかりはニーナも一安心であった。


「問題はありません」

「よし」


 ジーンは抑揚に頷くと、ニーナに「服を着てもらって結構です」と言った。


「はい……あの、何か着替えとか頂けませんか?」

「ん、ああ、確かに汗を吸っていますね」


 ニーナは脱いでいた服を手に取ったが、それは汗で冷たくなっていた。ニーナはこの服を着て研究所内部を彷徨くつもりは毛頭なかった。

 それは何も汗に濡れて気持ち悪いとかいう理由ではない。彼女は熱帯雨林で三ヶ月服を変えずに過ごした事がある。ゲリラ指揮官の暗殺任務だったが、アレは相当にきつい任務だった。


 理由はやはり任務である。登山服のポケットは放射性物質をぶち込んでいた場所だ。ここは研究所であり、測定器が無いとも限らない。というより、確実にあるだろう。繊維に絡みついた汚染は絶対に取れない。これを着て行くのは下策である。出来ればロッカーなどに保管しておいて、帰りにまた着替え直すのが良い。

 唯一の懸念としては、自身の体の線量か。彼女は自身の内臓よりも、作戦を重視していた。諜報機関工作員とはそういう人間なのだ。極秘作戦部署ともなれば特に。


「ああ、何か服を持って来てくれ。失礼ですがサイズは?」

「36番です」

「分かりました。おい、うちに女物ってあったかな?」

「私は知りませんね。うちに女は少ないですから。男物ならありますが……」

「だよなあ……サイズは合わなそうだが、ノーツ博士に借りるしかないな。ちょっと博士から借りてきてくれないか」

「了解しました」


 警備員の一人は駆け足で部屋から出て行った。

 ニーナは渡されたタオルで体を隠しながら、ジーンに尋ねた。


「ノーツ博士とは、もしかしてアーニャ・ルリオス・ノーツ博士の事でしょうか?」

「おや、よくご存知で。ええ、うちには彼女が在籍しています。来たのは四年前かなあ」

「四年前!? まさか、そんな事が……」

「驚きましたかな? まあ、クラリオンの暴走は有名ですからな」


 アーニャ・ルリオス・ノーツ――セントラル合衆国のクラリオン研究所をかつて支配し、人体実験施設へと変貌させた女研究者だ。自身の信奉者のみで研究所を占め、長年誰にも気付かれずに上手く隠し通していた。

 政府が事実に気付いた時には、既にアーニャは逃亡しており、信奉者も世界中に散り散りに。研究所内には彼女の“成果”だけが残されていた。研究所に急行した特殊部隊員は、全員がその惨い光景に絶句したという。

 この事件を機に、セントラルの医療技術は劇的に向上した。彼女の悍ましい実験は、それほどに“有効”だった。

 以後、アーニャの行方は頑として知れず、今も彼女はA級の国際指名手配となっている。


 それがまさか、こんな所で見つかるとは。


 ニーナの心には驚きがあったが、何処かで無理もないと考えていた。

 このウェリッツァー研究所は、一般社会では排斥される様な天才が集まる場所だ。ならばアーニャ・ルリオス・ノーツという稀代の大天才がいてもおかしくは無いのだ。


「戻りました」


 警備員が戻って来た。その後ろから、今度は黄金色の服を着た男も現れた。クラウン帽を目深に被った顔は影に包まれており、痩けている頬が見えるだけだ。

 ジーンはその金の男を知っているらしく、疑問の声で話しかけた。


「君はノーツ博士の私兵だろう? どうしてここに?」

「後ほど説明致します」


 そう簡素に答えて、その金の男は素早くニーナに掴みかかった。痩せた肉体からは考えられない程に凄まじい力だった。いきなりの出来事に、ジーンも口を半開きにして驚いている。

 ニーナは咄嗟に舌を噛もうとしたが、その前に男の指が口内に入り込んで来て、悲劇――この場合は勇敢なる自死は防がれた。

 ニーナは舌に男の血の味が広がるのを感じながら、地面に組み伏せられた。


「おいおい、こりゃどういうことだい?」

「ジーンさん、実は……」


 男と一緒に戻って来た警備員が、ジーンに耳打ちした。


「何だって!? そんな馬鹿な!」

「恐らく間違いありません。ノーツ博士の人脈に救われた、という事でしょう」

「おいおい、驚いたな。私もちゃんと裏を取っていたんだがね」


 後ろ手に縛られ、猿轡を噛ませられながら、ニーナは潜入がバレた事を悟った。一体どんなヘマをしたのかは分からない。が、絶体絶命の状況である事だけは確かだ。


 一番不味いのは、死ねない事である。


 今回は身体検査を潜り抜けるために、奥歯に毒薬を仕込んでいない。こうして身動きを封じられている現状、死ぬための手段が無い。


「何故バレたのか知りたいかね?」


 ノーツの私兵だという男は、ニーナに向かって言った。


「おい、私にも教えてくれないか? ノーツ博士は何故分かったんだ?」

「ふっふっふ、それは私が天才だからだよー」


 いきなり扉を蹴破って現れたのは、ぽやぽやと呑気そうな顔をした女だった。頬は血色良いピンク色で、口角はだらしなく下がっている。とろんとした瞳はどこを見ているか分からない様な、曖昧な動きで辺りを睥睨していた。

 これほどに雰囲気と動きが合っていない人物も珍しい。のんびりとした空気を纏っているくせに、動きは実にアクロバットだ。


「ノーツ博士」


 ジーンが呆れたように言うと、ノーツは「ふははははー」と間延びした高笑いを披露した。


「ジーン君、私のお手柄だから、研究費を増やす様ボスに進言してくれたまえー。言わなきゃ今回のミスを追求するぞー」

「はあ、それはまあ、所長も認めると思いますが。でも何故分かったのか、それを教えてくれませんかね?」

「簡単な事だよジーン君。私の研究仲間は世界中にいて、かつてのパトロンとも密接に連絡を取り合っているのさー」

「……つまり?」

「そこの諜報機関職員の作戦も、私には筒抜けだったのさー」

「ええ……知ってたなら言ってくださいよ」

「まあまあ、彼女は沢山面白いことを話してくれると思うよー。だからこれで良かったのさー。私も研究費いっぱーい」


(馬鹿な……今回の作戦に関わっているのは極秘作戦部署とごく限られた政界の人間だけなはず……)


 ニーナは信じられなかった。セントラル合衆国の誇る特別諜報機関のセキュリティが、そんな呆気なく破られるなど、到底考えられなかった。


「疑問が伝わってくるようだよー。よろしい、教えてあげよー。

 私はね、不老不死の研究をしてるんだー。まだまだ完成してないけど、不老だけなら何とか、ってレベルなんだよー。この研究を政府のお偉いさんが気に入って、私にいっぱい援助を約束してくれたのだー」


(政府の人間が初めから裏切っていたのか!?)


「まあ、それは正しいがー、私も全部知っているわけじゃないよー。それならもっと早く手を打っていたさー。

 君たちは優秀だった、だから私も手こずった。ここを標的とした作戦があるのは知っていたが、その情報は甚だ曖昧なものだったからねー。私のパトロンも確かにそういう作戦があるらしい・・・・・、という事は知っていたが、詳しい事は何も分かっちゃいない。作戦内容、それどころかそれに通じるであろうあらゆる事実は、全て極秘作戦部署で止められていただろうー? 他に知る者は大統領と大長官だけだったし、セブンクロス防衛長官との秘密の談合なんて、君たちすら知らない。君たちは行動許可だけ貰った形だろうー。ありとあらゆる点でこの作戦の隠蔽は強固だったよー」


(ならば、何故……)


「近頃の滅茶苦茶になった戦争は君も知っているだろー。世界に波及したあれの影響で、君達の作戦も大いに練り直しを余儀なくされた。違うかなー? 私達ですら大忙しになったんだからねー」


(……正しい)


「君たちの国もあの戦争には関わっているからねー。何よりあのとんでもない出来事を掴めなかった諜報機関にしわ寄せが来る。アレは本当に意味不明だったらしいねー。私の予想では、本当に偶然ああなったんじゃないかと思うんだがー、まあそれはどうでもいいー。

 情報部は様々なポストが入れ代わり立ち代わりだー。その辺りのゴタゴタで、私の研究仲間が君たちの懐に潜り込んだのさー。潜入は君たちだけの特権じゃないからねー」


(作戦内容は……記録に残していないはず)


「そのとーり、記録には欠片も残っていない。だけど出来ることはそれだけじゃないのさー。例えば諜報機関職員の情報をあれこれ調べる事だって出来るのさー」


(……!?)


「君の情報はグリーンファイルには無かったが、レッドファイルにはしっかり載っていたよー。あれは持ち出しもコピーも不可能だが、私の仲間は凄く頭がいいんだよー。完全に記憶したってわけさー」


(レッドファイルは新人が見れるようなものではない……)


「ふふ、私の仲間は新人じゃないよー。私がクラリオンにいた時からの協力者さー。諜報機関は一つでは無いよねー?」


(国外執行部……いや違う。アレの人員と協力することはあれど、受け入れる事は有り得ない。情報室とは犬猿の仲だ……元よりその下部組織全ても無い。そもそも特別諜報機関はスカウト形式だぞ……どういう事だ?)


「ヒントだよー。諜報機関の人間にならずとも、ファイルを見る事くらいは可能な人間がいるよねー? 特別諜報機関内である程度の特権を与えられており、尚且つ極秘作戦部署の流れからは隔離されている人物は誰だろー?」


(まさか……中央情報統括局からの監査か!?)


「ピンポーン、大正解なのだー。今回そのポストを手に入れたのは、私の仲間なのだー」


(そんな……事が……)


「あと一月早ければ、きっと君たちの作戦は上手くいっていたよー。偶然とは恐ろしいねー。それじゃ、おやすみー」


 ニーナの喉はしっかりと絞められ、彼女は瞬く間に意識を闇に落とした。最後の瞬間に、間延びした女の声が催眠の様に彼女の耳の底に絡み、彼女は心からの恐怖を感じた。恐怖を克服する訓練を受けてきた彼女ですら、アーニャという存在から発せられる異様な空気は耐えられなかった。


「大丈夫、君は死なないさー。使い道はちゃんと考えてるよー」



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