023.荒野の国を去りて

 



 深夜――水平線の先まで暗闇に包まれた海上に、小さな明かりが灯った。巨大な貨物船のデッキには、二、三人の乗組員が波を観測したりライトの角度を調整したりと、のんびりと歩き回っている。眠たげな眼を擦りながら雑談したり、ストレッチをしたり、チョコレートを口に放り込んだりと、仕事中にも関わらず寛いだ様子だ。乗組員達も、戦乱の中にあるバルザから出た事で、ホッと一息ついたと見えた。


「眠らないの?」


 眩いばかりのライトに照らされたデッキ上で、リンはフェンに声をかけた。フェンは手すりにもたれ掛かり、ぼうっと暗闇の遠くを見つめながら、煙草を吸っていた。煙草の明かりは白いライトとは別に、ほんのりと赤い光を宙に振りまいていた。


「ん、ああ……あいつらは眠ったのか?」

「カムニエちゃんはもう寝たけど、キーラの方は分からないわね。最後に見た時は、食堂で酔っ払ってたけど」


 フェンはまたか、とでも言いたげな顔を一瞬見せたが、すぐにどうでも良さそうな表情に戻った。どうせまだ飲んでるに違いない。


「疲れてるんじゃないの? 船旅は長いし……ええと」


 リンは言いたい事が出てこないと言ったふうな、何となく恥ずかしげな言い方を見せた。フェンは不思議そうな顔をしてそれを見ていたが、やがて心中の踏ん切りがついたのか、リンは大袈裟な様子で言葉を発した。


「つまりはね、心配だから、もう休んだらって事よ」


 心配。


 それだけの事を言うために、リンは随分と時間をかけた。しかし、これまで戦場の中で孤独に生き、そんな感情を向ける相手も無いままに生きてきた彼女にとっては、言葉一つでも何となく照れのようなものがあるのだった。


「……そうだな。もう遅い」


 フェンはそう言って、船の発った方角を一度見つめた。乾いた空も、荒野の中の街も、ウロボロスの存在も、既に姿の消えた陸地の事であった。


 フェンは自身の心の変遷を、自分でも不思議に思った。つい数日前までは、フェニックスにもそれなりに執着していたのだが、こうやって離れてみると、驚く程どうでも良くなってくる。


 ウロボロス――懐かしいその名は、彼の過去に置き去りにしてきた心を掻き乱した。手の届く場所にウロボロスがいると知った時に感じた、あの無闇矢鱈と結論を急ぐ様な心は、フェンがこれまでに一度も経験した事が無いような感情を伴っていた。

 彼の薄らいだ記憶にある、フェニックスの操縦者に関しても、それを求める心は強かった。彼がウロボロスから離反した五年前――それを境に彼の記憶は虫食いの様に欠け落ちている――最後に出会ったのがかのフェニックスであった。死にかけの彼を殺せずにも関わらず、また、殺すべきであったにも関わらず、フェニックスは彼を見逃した。その理由、それだけが彼の心を掻き乱し、真実を求める心を起こさせた。

 結果として求めたものは得られなかったが、それでもこれまで意図的に目を逸らしてきた自身の過去というものに、再び目を向ける切っ掛けとなった。


「……今日は悪い夢を見そうだ」

「私もよ。戦闘の後はロクな夢を見ないもの」

「ああ、それは分かる気がするな……」


 フェンの投げやりな同意にも、リンは少し嬉しそうな顔をした。兵士の大半にありがちな話でさえ、リンにとっては共通点である。

 フェンは一度煙を吸い込み、口の端から海に向かって吐き出した。船の進行方向とは逆に、煙は線を引く。吸いきった吸殻を吐き出すと、フェンは気だるげに体を手すりから離した。


「それじゃあ、戻るか」

「ええ。客室まで一緒に行きましょう」


 フェン達は二人並んで船内に入った。昼も夜も無く動き続ける貨物船は、何時の時間も変わらない様子で二人を出迎えた。

 規則的な電灯が照らす廊下で、二人は酔っ払った男にばったりと出くわす。


「おっ、何だ何だお前ら、こんな夜中に二人揃って……ああ、そういう事ね」

「お前は誤解している様な気がするな」


 酔っ払いは当然ながらキーラだ。客員としてこの貨物船に乗っているのはフェン達四人だけだ。船員たちはここまで酩酊する事はまず無い。


「ど、どういう意味かしら?」


 キーラの意味深な言葉は、リンの頬を赤く熱くさせた。恥ずかしさに少し震えながら、それ以上の怒りでもって、デリカシー無き酔いどれに問いかける。

 しかし、彼女はあくまで冷静だ。美貌故に、どれほどの男たちから絡まれたが知れない。酔っ払いへの対応はいい加減慣れているのだ。

 それでも、今回はペア相手がフェンという事もあり、普段ならまずしないような赤面だが。


「人生は短い!⠀春無きフェンもようやく妥協を覚えたか!」

「ちょっと! 妥協って何よ妥協って!」


 キーラの小馬鹿にした言葉に、リンのクールな理性は一瞬で崩壊した。この二人は傍から見ると笑える程に性格が合っていない。

 リンとキーラの騒がしい言い争いを尻目に、フェンは大きな欠伸をした。酔ったキーラが下卑ているのはいつもの事であるし、何より快楽的刹那主義の権化とも言うべき彼だ。どんな反応だろうが、流しておけば問題無いのである。


「戦闘しか脳がない女など、誰でも嫁には欲しくないだろうに。精々が一夜の遊びだな。いやむしろ、そんな奴と寝たらこちらが金を貰わなければやってられん」

「わ、私だって料理くらい出来ますけど!? 大体御曹司か何か知らないけど、あんた調子乗りすぎなのよ! 凄いのはあんたの家であって、あんたはただの屑じゃない!」

「おお、負け犬の遠吠えが聞こえるぞ。目玉も曇りガラスを嵌め込まれたと見える。何、この世は不平等だから仕方ない事だ。俺は優しいから、勿論憐れんでやろう!⠀アッハッハッハッハ!」

「こ、この屑……」


 リンはピクピクと頬を引き攣らせながら、屈辱に震えた。しかし、服の内側に秘めている銃に手が伸びていないのは褒めるべきであろう。流石の自制力である。

 大抵の人間は、キーラの煽りを食らうと無意識に銃を引っ掴んでいる。傭兵などやっているのは特にその傾向が強く、フェンは何度も酒場の戦争を眺めてきた。


「落ち着け、酔ったキーラに何を言っても無駄だ。というか、キーラに反省の二文字は無い。言い争いした所で疲れるだけだ」


 少しばかり涙目になっているリンを宥め、カラカラと笑いながら酒瓶を傾けているキーラにも、それとなく注意する。


「お前もあまり虐めてやるな」

「何だ、本当にできてたのか?⠀珍しいな、お前が女遊びとは。長い事無頓着だった癖に」

「馬鹿、違う。リンは若いし、お前の悪影響を受けてみろ。どんなものが出来上がるか分からん」

「案外、淑やかなのが出来るかもしれんぞ。多分こいつは高天原たかまがはら出身だろう。唐清とうしんかもしれんが、名前があっち風だしな。あの国の女は淑やかさで有名だ」

「生まれの遺伝子がお前の影響に勝てるとは思えん……」


「では良き情熱の夜を、諸君!」と何も考えて無さそうな言葉と高笑いを残して、キーラは去って行った。好き放題言われた悔しさに歯軋りしているリンに、フェンは「気にするな」と声をかけた。


「だって!⠀あの男言うに事欠いて、戦闘しか脳がないとか!⠀私だって、料理くらいなら……多分……」


 しおしおと自信なさげな様子に変わっていくリンに、今度練習に付き合う事を約束した。リンは一瞬で元気に跳ね、フェンはその変わり身の速さに感嘆した。フェンは、嬉しそうに瞳を輝かせるリンに、人懐っこい犬の姿を幻視した。


「約束よ!」

「ああ」




 ◆




 それぞれの船室へと別れ、フェンはシャワーを浴びた後にベッドに寝転がった。狭いワンルームの部屋だが、居心地は中々快適に出来ている。

 フェンは僅かな眠気を覚えた。硬い安物のベッドすら心地いい。想像以上の疲労が、彼の肉体を苛んでいた。バルザにいた時は感じなかった疲労である。


 ここまで疲れを自覚した事が、果たしてあっただろうか?


 そんな自問が、彼の心に浮かんだ。

 彼自身の凝り固まった精神が、久方ぶりに人間らしい働きをしたように思えた。疲労――その感覚を、彼は長いこと忘れていた。彼の精神は石のように、何かを感じるということから遠ざかっていた。


 だが、彼はその泥の眠りの誘惑を跳ね除け、ゆっくりと起き上がった。全身にどっと重みを感じた。

 そのままノロノロとした動きで船室の椅子に体を預けると、フェンは懐から煙草を取り出し、咥えて火をつけた。辛い煙が船室の空気を白く染めた。精神が再び固まる様な感じがした。


 彼は無意識のうちにこの動作を行っていた。頻りに眠りを求める体を押さえつけ、なんの意味もないぼんやりとした様子で虚空を見つめていた。

 必要な休息を取らない事は実に不合理である。その事は彼自身も理解していたが、必要以上に揺らいだ心の振り子を安定させるためには、再び無感覚の状態へと精神を戻さなければならない。

 全てを忘れる様に煙を吸うと、疲労というものを忘れていき、それがどんな感覚だったのかさえ曖昧なものになってくる。しっかりと仕事をしている理性は、今の状態で戦闘すれば、勝率は低くなるであろうことを理解して、それを投げやりに警告していた。


 彼はしばらく動かなかったが、やがて煙草が灰に変わると、残り物のフィルターを灰皿に放り投げ、ゆっくりと目を閉じた。

 彼の心の中に去来するのは、かつての日々の出来事だった。バラバラになり飛び散った欠片が降り注ぐように、繋がりのない断片的な記憶が次々と浮き上がっては消えていった。


 全ては五年以上前の事だ。ウロボロスという存在は、彼自身が感じているよりも彼の心を掻き乱している様だ。彼はそれをぼんやりと映画のフィルムを覗く気分で見つめていた。

 残像の様に過ぎていく思い出たち。その大半は塗り消されているが、それでも尚色づいた記憶はそこにあった。


 彼は誰かと共に戦場を駆けた。

 彼は誰かと共に日常を過ごした。

 彼は誰かと共に微笑みを浮かべた。


 フッと映像は脳裏から消え、暗鬱とした精神の中に声が響いた。

 その声はか細く何事かを呟いていたが、彼が僅かにそちらの方へ意識を向けた瞬間、断線したかのように静まった。


 代わりに、ここ数日の出来事が克明に浮かび上がってきた。

 それは彼の過去に関係無しに、偶然から始まった関わりだった。

 どちらも脆い、二人の少女。

 初めはすぐに別れるだろうと思っていたが、いつの間にやらこんな海の上まで連れ立って来ている。流されるままにここまで来たが、それも悪くないと感じている自分がいた。


「とはいえ……」


 リンは傭兵なのでまだいいとしても、カムニエは純粋にただの子供である。あの戦乱の中に置いていくのはあんまりだとはいえ、連れて来たのは不味かったかもしれない。


 尤も、彼女を連れて行くように一番声高だったのはリンなのだが。


「親無しだと言っていたな……」


 二人はカムニエの親を探そうと考えていたらしいと聞いた。しかし、この状況ではそれも不可能だ。やらかした事を考えれば、あの国に留まってはいられない。


「まあ、目的にはなるか」


 どの道やる事の無い、揺蕩う様な生だ。目の前にぶら下げる目的としては上々だろう。


 いつの間にか、時計の短針は三の数字を回っていた。それを視界に捉えた瞬間、彼の視界は一瞬暗くなった。どうやら瞼が自然と落ちたらしい。

 彼は心中で溜息を吐き、自分が疲れている事を理性で認めた。疲労は既に感じなくなっていたが、その体の感覚を信用せずに、すぐさま眠る事を理性は命じた。彼は疲労など無いような滑らかな動きで立ち上がると、ベッドに体を横たえた。

 彼はそのままゆっくりゆっくりと眠りの中に落ちていった。




 ◆




 翌朝――リンは窓のない船室で体内時計に従って目覚めた。彼女は顔を洗ってさっぱり目覚めると、廊下を通り過ぎてデッキに出た。日は水平線上を揺らいで、曙の柔らかな陽光が海を照らしている。

 リンは髪をかきあげ、潮の香りに満ちた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。彼女は生き生きとして、瞳は黒に輝いていた。

 戦場で生きるために築いた精神の要塞は、既に風通しの良い廃墟と化していた。生き延びるには役立つが、人生を楽しむという点においては何の役にも立たないそれが瓦解した事によって、彼女はこれ以上なく溌剌とした精神を手に入れていた。


「んー、気持ちいいー!」


 一夜明け、リンはあの戦乱の荒野を抜け出た事をしみじみと実感した。昨日は滅茶苦茶な強行軍で荒野を横断し、港町に停泊していた貨物船にあれよあれよと乗り込んで、そのまま出航したのだ。昨日一日の濃密さは彼女の人生で一番のものであり、こうして一度休んでようやく現実が変わり切ったことを認めた。


「リンさん、おはようございます」

「あら、おはよう」


 眠気眼を擦りながら、カムニエがデッキにのんびり歩いて来た。


「昨日は眠れた?」


 リンの言葉に、カムニエはほんのりと微笑んで


「ええ」


 と言った。


「……ありがとうございます」


 カムニエは少しばかりカモメの飛ぶ海空に視線をやった後、ぽつりと呟いた。


「皆さんのおかげで、私は救われました。あの一人ぼっちの街から抜け出せました」


 海の果てを遠い目で見るカムニエ。その瞳の中には様々な感情が混沌と宿っており、彼女の複雑な心中は到底言い表せるようなものでは無かった。

 やけに大人びた様子のカムニエに、リンは少し驚いた。まだ若い彼女がこうした達観した振る舞いを見せるほど、彼女の生には苦難が多かったのだろう。バルザで共に過ごした時よりも、もっと深い部分の姿を見た気がした。


「私も連れて行ってもらえるとは思っていませんでした」

「……カムニエちゃん一人で、あの国に置いていけないじゃない。もしかして、来たくなかった……?」

「いえ、とても……本当に嬉しかったです!」


 リンの不安気な様子に、カムニエは慌てて首を振った。その様子からは、気を使っているのとは違い、本当にその事を嬉しがっているのが分かった。

 ただ、カムニエはほんの少しだけ海の向こうへと視線を向けた。彼女の故郷の方角である。それでリンはカムニエの憂鬱の理由を察した。

 彼女は親と離れ離れになっている。それが心配で心配で堪らないのだろう。両親がどうなっているのか。かの国に残してきたそれだけが気になっているのだ。


 リンも、流石に何がどうなるかも分からない未来について、楽観的な事は言えなかった。あの国は戦争の真っ最中であり、生きているだろう、などという口当たりがいいだけの言葉は口が裂けても言えない。


 何時までも揺れる波間を眺めながら、二人はじっと立っていた。

 リンは何を言えばいいのか悩んでいたし、カムニエの方は何ものにも頓着していないようだった。彼女の瞳はただ故郷の方角へと向けられていた。


「ぐうううう、最悪だ……!」


 彼女らの沈黙を破ったのは、聞き覚えのある男の声だった。気分悪げなその声を聞いた瞬間、リンの眉根は僅かばかり寄ったし、カムニエの青い瞳は嬉しそうに輝いた。


「飲み過ぎた……クソッタレめ!」


 そう叫びながら、キーラは口を押さえてデッキにフラフラと上がって来た。


「昨日あんだけ飲んでたら、そりゃそうなるでしょ」

「大丈夫ですか? お水持ってきますね」


 冷めた目で苦しむキーラを眺めるリンと、心配そうに声をかけるカムニエ。キーラは水を持ってこようとしたカムニエに、ぶっきらぼうに声をかけた。


「水じゃなくてビールを持って来い。十秒以内だ」


 言い終わると同時に、キーラは後頭部を殴られた。大きくつんのめり、彼の顔が青くなる。吐き気がぶり返してきたのだろう。


「何しやがるクソガキ……あー、ダメだ、吐きそう。おい、カムニエ、ビールだ。とっととしろ」

「カムニエちゃんをパシリに使うなんて、何考えてるのよ! しかもあんっなに偉そうに!⠀あんたに良識ってのは無いわけ!?」

「煩い女だ……今回は見逃してやるから、キャンキャン騒ぐな。頭に響く。クソっ、潮風に当たってもちっとも収まりゃしねえ!」

「お身体に悪いと思いますよ……? お水を飲んで、眠っている方が……」


 キーラは気持ち悪さに何かを言う元気も無くし、だるそうにデッキに座り込んだ。そこへ何かが飛んでくる。キーラは気分が悪そうにそれを片手で受け止めた。


「何だよおい……勘弁してくれ。俺は小うるさい女共に絡まれたばかりなんだよ……ん?」


 キーラの手の中には、よく冷えた黄金色の缶が握られていた。それを投げた相手は、馬鹿を見るような目でキーラを眺めていた。


「スホールのビールか!⠀素晴らしい! よくやった!⠀流石は俺の相棒!」

「飲み過ぎるなよ。いい加減にしないと死ぬからな」

「おいおい、それをお前が言うか?⠀俺がアルコールで死ぬなら、お前は肺ガンだね。くぅっ、最高だ!」


 キーラは即座に缶を空け、吹き出る泡ごと冷えたビールを飲み干した。それを尻目に、フェンがデッキに足を下ろす。


「存外皆早いな。キーラの奴はそもそも眠ってなさそうだが……」


 フェンが少女二人に目をやると、二人は朝の光の中に微笑みを浮かべた。


「おはよう」

「おはようございます」


 フェンはほんの僅かに微笑した。


「おはよう」



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