025.セブンクロス
波を白く泡立たせながら、巨大な貨物船が悠々とセブンクロスの港町に入った。
簡素なテーブルと少し黄味がかったライト、椅子とそれなりのベッドがあるだけの乗員室で、カムニエはゆったりとした船の揺れを感じていた。
彼女は一冊の本を片手にベッドに腰掛け、独り言と共にそれを読んでいた。公用語の練習本である。この数十日の船旅の間、暇な時間――一日の殆どがそれだった――に彼女は言語を練習していた。一日の殆どをその習得に費やし、リンやフェンといった教師もいた事もあって、それなりには話せる様にはなっていた。とは言っても、素人レベルではあるが。
「『こんにちは、これからどうしましょう?』、『はい、分かりました』……『話し相手いないから、あまり捗らない』」
ぶつぶつと口の中だけで異国の言葉を転がしていると、コンコン、とノックの音が部屋に響いた。カムニエはすぐに顔を上げ、本を机の上に置いて扉を開いた。部屋の前にはフェンがいつも通りの気だるげな顔で立っていた。
「そろそろ船を降りる時間だ。用意は出来ているか?」
「あっ、はい。出来てます……『出来てます』」
「無理せず自然体で構わないぞ。まあ、心掛けはいい事だ」
二人はのんびりと船の廊下を進み、船内広間へと向かった。乗組員達はそれぞれの持ち場で停泊に向けて進めているのか、広間はがらんとして、人の姿は少ない。
「『リンさん、おはようございます!』」
「あっ、おはよう。上手くなってきたじゃない!」
広間ではリンが待っていた。荷物は既に纏めてあり、広間の片隅に腰掛けて音楽を聴いている。フェン達に気付くと、笑顔になって駆け寄ってきた。
「キーラはまだ来てないのか? そろそろ降りる時間帯なんだがな」
「まだ眠ってるんじゃない? 昨日も夜中まで彷徨いてたもの」
「部屋には居なかったから、てっきり待ってるものかと思ったが……」
と、その時、ガチャガチャと鳴る袋を両手に持った男が、広間へと入ってきた。とろんと陶酔したような瞳をしており、顔が酒やけしている。
当然ながらキーラである。
袋の中身は大小様々の瓶や缶であった。キーラが持っているのをよく見かけるそれは、当たり前のように酒である。
「それ、食堂の酒か? まさか持っていく気か?」
「俺が好きなやつをちょいと拝借してきた。見ろ、スウィフトのサンズ・ペードゥーだぞ。こっちはリコックだな。アイスケースをバルザに置いて来たのが悔やまれる。シェイキーはロックが一番美味いんだ」
「そんなもの、街中で買えばいいだろう。珍品でも何でもないただの酒だぞ」
「市内に行くまでに飲む酒が必要じゃないか。お前はバカだなあ!」
ケラケラと笑うキーラに、カムニエの珍しく呆れた様な声が投げかけられた。
「『十本以上もいらないと思います……』」
◆
湾内に錨が下ろされると、白い鋼のタラップがデッキに掛けられ、日に焼けた乗組員達が降りてくる。仕事は港の者らに引き継がれ、彼らは二、三の最後の仕事を終えた後、家族の待つ家へと帰路につくだろう。コンクリートの地面に降りた者達が方々に歩いていく中、船乗りとは風の違う一団も港に足をおろした。
「中々の長旅だったな」
「たかが数十日だ」
フェンとキーラは久方ぶりの地面を踏みしめながら、常の如く嗜好品に手を伸ばした。フェンのシガレットケースは既に最後の一本が残っているだけであったし、キーラの手には早くも空の瓶が一本増えていた。二人はのんびりと空を眺めながら、至福の時間を楽しんだ。
バルザからセブンクロスまでの海の旅は、ここにようやく終わりを告げた。
「ここに来るのも久方ぶりだな」
フェンはセブンクロスの温暖な潮風を全身に浴びながら、煙を吐いた。彼にとって、セブンクロスとはそれなりに親しみのある土地だった。
この温い風を浴びると、フェンは焼け付く様な砂漠の太陽を少し懐かしんだ。この島国の空気は安穏としており、時間のゆっくりと流れる落ち着いた雰囲気があった。
「『良い船旅でしたね。不安ですけど、頑張ります』」
「ええ、私がサポートするからね」
フェン達の後ろでは、本を片手に言葉の練習をしているカムニエと、それに笑顔で付き合っているリンがいる。
「で、これからどうする?」
フェンは煙を吸いながら、隣にいるキーラに尋ねた。
「酒場に行くとしよう!」
が、キーラがアルコールに狂った答えしか返さないのを見て、肩を竦めた。
「まずは家族の元に顔を出しちゃどうだ?」
「面倒だ! そんなのは後でいい!」
フェンはそれ以上何も言わなかったが、キーラの言葉が上手くいくはずが無いことだけは知っていた。今回はイージス海運の貨物船に乗ってセブンクロスまでやって来たので、キーラの動向はとっくに把握されている筈である。こういう場合、彼の家族は地に足を付けた瞬間にやってくる。
「いや、良くないですよ、お兄様」
予想通り、妖艶ながらも多少怒りを含んだ女性の声が波止場に響いた。フェンはいつもの出来事を冷めた目で眺め、リンとカムニエは近付いて来たその女性へと目を上げた。
「うん? ノエルか。お前何でこんな所にいるんだ?」
「お兄様を迎えに来たのですよ。その船にお兄様達を乗せるために、海運会社に話を通したのは誰だと思っているのですか? デバイスにも何度も連絡を入れたというのに、全て無視して……」
その女性――ノエル・ネクト・イージスは、港町に似つかわしくない上品なドレスに身を包んでいた。少々気の強そうな長いまつ毛とエメラルドの瞳を持ち、日に当たった事が無いかのように白い肌をしていた。キーラよりも艶やかな金髪は腰の所まで伸びていて、緩くウェーブしていた。
「ああ、そういえば頼んでいたな。すっかり忘れていた」
「今日という今日は来てもらいますからね! いつもいつも遊び歩いて……その尻拭いをするのは誰だと思っているのです!」
ノエルは目尻を釣り上げて、絶対に逃がさないというようにキーラを睨んでいた。キーラは少し顎に手を当てて考えていたが、おもむろに一度頷くと、「よし、それじゃあ行くか」と口を開いた。
「お兄様がそうやって素直になるのは珍しいですね。まあ、手間がかからなくて良いことですが……」
「久々に我が家のワインラックを開きに行かねばな」
そう話すキーラを冷めた目で見つめながら、ノエルは指を鳴らした。どこからともなく黒い高級車がやって来て、電動扉が自動で開く。
「ご苦労ご苦労」
手に持った袋をカチカチ鳴らしながら、キーラはそれに乗り込む。車は即座にドアを閉め、一瞬で去っていった。残されたのは、ノエルとフェン、そしてリンとカムニエだけである。
「さて……」
ノエルはエメラルド色の瞳をフェンに向け、そしてリン、カムニエへと視線をじぃっと流した。
「ご挨拶が遅れた事をお詫び申し上げますわ。私はノエル。あのうるさいキーラの妹です」
ノエルは優雅に礼をすると、静静と元の姿勢に戻った。幼い頃から徹底的にマナーを叩き込まれ、それが当たり前の世界で生きてきた者特有の、全く堂に入った挨拶だった。
リン達は生きる世界が違う存在である事を肌で感じ取り、多少慌てながらも、無難な自己紹介をした。
「私はリン・ツミノギといいます……キーラの妹? この上品な人が?」
「ええ、誠に遺憾ながら、あれは私の兄ですの。どうやら異国でもいつも通りのようですわね」
リンの少しばかり信じられなさそうな瞳に、ノエルは笑って返した。キーラの言動からは考えられない程に、ノエルという女は淑女然としていた。
「聞き取れたか? 自己紹介するといい」
「『丁寧で聞き取りやすかったです。……カムニエ、です。よろしくお願いします』」
「ええ、カムニエさんも、どうぞよろしくお願いします」
ノエルはそのたどたどしい言葉を聞いて、小さな異国の少女へと微笑みかけた。その後、フェンに目線だけで瞳を向けた。フェンはその翡翠の輝きの中に、困惑が混じっているのを見て取った。彼らは視線だけで会話した。
(この子、まさか誘拐じゃありませんこと?)
(今のところその心配は無いだろう)
(……今の、ところ?)
(……すまない、未来でどうなるかは分からん)
初めに誘拐を疑われる辺り、キーラの信頼度というものが伺えるだろう。フェンも初めてカムニエを見た時は、同じような懸念を抱いたものである。
一瞬気の遠くなるような笑みを浮かべたノエルだったが、すぐさま悠々とした表情に戻った。但し、冷や汗はまだ乾いていなかったが。
「フェンさんも、兄に何か言ってあげてくれませんか? フェンさんからの言葉なら、兄もきっと受け止めるでしょうし……」
「俺が言って聞くような奴なら、君も苦労しないだろう」
「全くその通りですね。何故あの兄はあんなにも自由人なのでしょう……」
フェンはそれを知るには人生は余りにも短過ぎると思ったが、口には出さなかった。キーラの自由奔放さは最早世界の法則の一つなのだ。
「さあさあ、フェンさんもお乗りになって。リンさんもカムニエさんも、お兄様のお客人でしょう?」
「客人……うーん、違う気がするけど、なんて言えばいいんだろう」
リンがキーラとの関係に頭を悩ませている間にやって来た黒い車が、彼らの前で停止した。運転手が扉を丁寧に開き、車はフェン達が乗り込むのを待ち構えている。
「これ、乗っていいの?」
「ええ、勿論ですわ。我が家にご招待致します。どうせお兄様に苦労させられたんでしょうし、心ばかりのもてなしをさせてくださいませ。無理にとは言いませんが……」
フェンは呑気そうに車を眺めている二人を少し見て、ノエルへと口を開いた。
「俺は少し用事があるから、後から向かわせてもらう。済まないが、ノエル、彼女達の面倒を見てやってくれないか?」
「お任せ下さいな。場所はいつもの所ですので……」
「ああ」
二人にも別行動を伝えると、あっさりと承諾を得た。二人は車に乗り込み、それからノエルも静かに入っていった。
「それでは後ほど」
と言葉を交わして、ノエル達は去っていった。
「さて……」
一人港の片隅に残されたフェンは、吸い切ったフィルターを放り投げると、辺りをゆっくりと見回した。ノエルとは別に、この場所に来ている者がいるはずなのだ。その姿はすぐに見つかった。
「やあ、どうも。ノエル譲とのご歓談は終わりましたか」
「久しいな、セルゲイ」
全く見苦しくはないが、必要以上に見目麗しくもない、有体に言えば極々無難なスーツ姿。薄い微笑みを浮かべた二十代とも三十代とも見える男が、腰を低くして帽子を取りつつ、ゆったりと彼に近づいて来ていた。
「社長は言ってしまいましたね。出来れば顔を出して欲しかったのですが……ロキのフォームアップもありますからねえ」
「流石に今日は無理だろうな」
「ノエル譲がわざわざ来るくらいですからね。またお説教でしょうなあ」
セルゲイは微笑みのまま、車が去った方角を見ている。フェンは少しばかり風に当たった後、セルゲイに声をかけた。
「それじゃあ、人型機を移動させよう。申請は船を出るときにしてきたから、そろそろシャッターも開く筈だ」
「おっと、そうでした。それでは行きましょうか」
二人は閑散とした港を貨物船のレーン部へと連れ立って歩いて行った。船の手すりには数羽のカモメが眼だけ海に向けて留まっていた。
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