017.追追夜灯
フェンはカムニエと共に帰っている時、カムニエからリンの伝言を伝えられた。
それは、ラダールという軍の男に、フェン達が傭兵登録情報を誤魔化したのが知られた、という内容だった。
「なるほど」
フェンは内心でリンに感謝し、彼女とあの様な決別をしたのを残念に思った。
「その、フェンさん。リンさんの事、何とか出来ませんか?」
カムニエの言葉に、フェンは首を振った。
彼ではどうにも出来ないのだ。彼女に自分の言葉は全く意味を持たないだろうと、彼は思っていた。
「こんな別れ方になってしまって申し訳ないな」
「う……」
カムニエはそうやって謝られてしまうと、もう口を出す事が出来なかった。フェンの少しだけ寂しそうな横顔から、彼の心中を、事によると彼自身よりも察する事ができてしまったからだ。
二人はしばらく無言で歩いていたが、フェンが投げやりな溜息を吐いて、カムニエに声をかけた。
「そろそろ最後の住民避難がある。君もそれに乗った方がいい」
生存率という観点から見れば、カムニエにとっては間違いなくその方が良い。一人で見知らぬ地へ行かなければならないとしても、この敗北が決まった戦争の地へ留まることよりは何倍もマシだ。
カムニエは衝撃を受けたような顔で立ち止まった。フェンの言葉は全く予期していない雷のように、彼女の心に響き渡った。
「わ、私がいたら迷惑ですか……?」
彼女も死の危険性は承知していた。しかし、彼女は再び孤独に戻る事だけは何よりも嫌だった。
ウカナでたった一人、希望もないまま生き延びるだけだったあの日々。再びあの様な目に合うくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思った。
そんな切迫した雰囲気を感じ取ったのか、フェンは自分の額を指で叩いた。
「そういう訳ではないが……避難した方が安全だ。命の保証は出来ない」
カムニエはそれは覚悟していた。死んでもいいから、連れて行ってくれと言いたかった。
しかし、彼女は自身の言葉を主張する事が出来なかった。
彼女は自分の思いがフェン達には何の関係もない我儘だと理解していた。助けられておいて、更に彼らに迷惑をかけることが、どうしても彼女には出来なかった。
カムニエが言葉をいいあぐねている間に、フェンは煙草をふかしながら、空を見て言葉を続けた。
「これを渡しておこう、きっと役に立つ」
フェンが取り出したのは、一枚の封筒だった。カムニエはそれを受け取り、何なのかと尋ねた。
「紹介状だな。中には地図と金も入ってる。
首都の方にある孤児院への道だ。イージス財閥の系列だから、悪くされる事も無いだろう。これを持っていけばすぐに受け入れてくれる。金はある程度の量あるから、首都に着いてタクシーを拾えば問題無く――」
カムニエはフェンの言葉を震えながら聞いた。最早事は決まってしまったかのように思えた。それに、彼女はハッキリと自身が孤児に過ぎないことを突きつけられた気がした。
彼女の額には汗が流れ、体には寒気が纏わりついていた。
「……顔色が悪いな」
フェンは、自身の言葉がカムニエの心にダメージを与えた事を認めた。そして、心中で自嘲しながらも尚、カムニエの命を思って言葉を続けた。
「東区に向かおう。避難はそこであるから、混んでいるかもしれないな」
カムニエは震えながら頷いた。二人は一歩一歩と東区に進んでいった。カムニエにとっては、その一歩一歩が別れへのカウントダウンのようなものだった。彼女の額には汗が幾筋も垂れ、首元も背も、下着すらびっしょりと濡れていた。
東区の広場には、最後にこの街に残った一般人の大半が集まっていた。多過ぎるということもないが、少なすぎるともいうこともない、まばらな人混み、といった様相だった。しかし、一ヶ所だけはかなりの人間が集まって、軍服姿の男達がその人波を押さえていた。
「押さないで、一人ずつ乗ってください。問題なく全員を収容できますので」
輸送隊はそうアナウンスを掛けながら、輸送艦の中に人々を誘導していた。人々が集まっているのは、住民避難のためにやって来た小型の陸上輸送艦の入り口であった。
輸送艦は十台以上も停まっていた。快適性は低いが、一台に数十名を収容できるそれらの艦は、この場に集まった人々を収容するには十分なものだ。
広場全体には、夜の暗闇を吹き飛ばすように、眩い電光が張り巡らされている。それはフェンの瞳をチリチリと
しばらく経ち、大半の人間の収容も終わった。広場には十数名の人間と、二台の輸送艦だけが残されていた。先に収容限界の来た輸送艦は、既に首都の方角へ出発していた。
「行った方がいい」
じっと座ったまま、手の甲を見つめていたカムニエに、フェンは声をかけた。
しかし、カムニエは立とうとはしなかった。
じっと光の届かない暗闇の中に座り込んだまま、体を縮ませただけであった。
フェンがカムニエの手を引こうと、一歩だけ彼女の方に近付いた時、彼女は立ち上がり、脱兎のごとく駆け出していた。夜闇の中に消えて行く背中を、フェンは呆気に取られたまま見つめていた。
そして、彼は肩を落として呟いた。
「いつもこうなるな……」
彼は煙草を放り捨てて、カムニエの後を追った。しかしそれは、背中に重しでもついているかのようにのろのろとした歩みだった。
輸送艦は一台が動き始めており、もう一台もすぐに首都へ向けて出発するだろう。広場には誰も存在しなかった。暗がりを歩くフェンは、誰の目にも留まらなかった。彼はすっかりと静寂に包まれた街の影に消えて行った。
◆
リンは、フェン達が出て行った後、しばらく無言で扉の方を見つめていた。そして、彼女はベッドから静かに立ち上がると、棚の上に置きっぱなしだった名刺を手に取った。
ラダール・タルサタルとシュマル文字で書かれており、所属、階級、通信番号といったデータも少し小さめに刻印されていた。
彼女は濁った瞳でしばらくそれを眺めていたが、やがてふっと立ち上がり、病室から出た。衣服や靴はカムニエが買ってきたものがあったので、彼女は青い病人服から着替えていた。
「まあ、リンさん、何をやっているんです?」
廊下に出たリンを看護師が見つけ、驚いた顔でそう言った。リンの表情は強ばったまま、窺う様な視線で看護師の方を見た。
「お世話になりました。治療費の請求書をください」
リンはじっと変化の無い瞳で看護師を見た。看護師はリンのただならぬ様子に気圧されたが、すぐに自らの職務を思い出し、慌てて動いた。看護師はリンの腕を掴み、「患者の避難があります、リンさんもこちらへ!」と叫ぶ様に言った。
「いえ、私はこの街に残ります」
「何を言っているんですか!?⠀あなたはまだ退院許可が下りていません!」
リンは腕を掴まれながらも、落ち着いてその場に立っていた。看護師が引っ張って動かそうとしても、リンの体はまるで鉄にでもなったかの様に、微動だにしなかった。
「もう治りました。迷惑でしょうが、お許しください」
「言うことに従ってください!」
看護師が言っても、リンは全く頑なに聞かなかった。やがて看護師は諦め、リンにこの場から動かないように言い含めると、医師の判断を仰ぎに行ってしまった。
リンはその間に懐から小切手を取り出すと、自身の口座内の殆どの額と、その他の事項を手早く書いてしまった。その額は彼女が千回入院してもまだ余りある額だったが、彼女は特に惜しい様な顔も見せずに、それを置いてさっさと病院から抜け出してしまった。
看護師が医師を連れて戻ってきた時、リンは既にその場から消えていた。二人は置きっぱなしにされた小切手を見つけ、その額にまず呆れた。
「やっぱり戦争だからねえ、彼女もお仕事したくなったのかなあ」
「先生、そんな呑気な事言ってる場合ですか! 大体怪我人が仕事なんて!」
「まあ殆ど治りかけだし、彼女、A級傭兵だからね。多分昼に来た軍の人から依頼受けたんだろうなあ」
「ええ、そんなの初耳ですよ! あの軍の男、通さなけりゃ良かったわ!」
看護師はひとしきり嘆いた後、小切手を指さした。
「この小切手、どうするんです?」
「いやあ、もう入院費は支払われちゃってるからねえ。あの男の人、彼女に伝えてなかったのかな?⠀まあ、処分だね」
二人は小切手を燃やしてしまうと、リンの事を幾らか気にかけながらも、患者と共に首都に向かって出発した。
遂にこの街から民間人は消え、戦争を戦う人間のみが残った。
夜は次第にあけ、太陽は昇り始める。
白んだ光が街の中に柔らかに広がっていった。
◆
明け方、フェンは静かな空気を纏って倉庫前へと姿を見せた。彼は一人であり、何者も連れてはいなかった。結局カムニエは見つからなかったが、もうその心配は無くなっていた。
カムニエを追いかけていると、フェンはある事に気づいたのだ。どうにもある位置からカムニエは誰かと行動を共にし始めたらしく、その足取りは軍の駐在所まで続いている。
恐らくは軍の人間に見つかって、保護されたのであろう。
フェンは一度隠れながら駐在所を確認してみたが、カムニエらしい姿を見かけることは無かった。しかし、軍の人間の話を盗み聞くに、カムニエが駐在所にいる事はほぼ確実であった。
軍が捨て駒である事は百も承知だが、後方に帰る部隊もそれなりにいた。特に後方支援隊や兵站部等は、後方の地へ戻るだろう。恐らくカムニエはそれと共に安全な街へと逃げ延びる。懸念は去ったのである。
倉庫前のベンチにはキーラが酔って寝転がっていた。酒臭い匂いがフェンの鼻を刺激し、彼は溜息を吐きながら酔っ払いの顔を見た。
「起きろ、夜は明けたぞ」
「あー? もうそんな時間かよ」
キーラは酔いが回った赤い顔にも関わらず、驚く程に素早い目覚めを見せた。ただ、それは目を開けて声を発したというだけで、起き上がるまでは結構な時間がかかった。フェンは一服し、キーラが頭を叩きながら起き上がるのを待った。
「あー、喉乾いたな。酒持ってねえか?」
「ある訳が無いだろう」
「ま、お前に酩酊を期待するのも酷かな」
キーラは空の瓶を地面に打ち捨てて、大きな欠伸をした。懐から小型の水筒を取り出し、流し込むように口を付けたが、きっとそれも酒なのだろう。
フェンはキーラを横目に煙草を踏み消すと、何も言わず倉庫の中へ入って行った。
「何だあいつ、変に焦りやがって」
キーラはフェンの佇まいの中に、普段は無い微かな変化を見つけたが、その事は一瞬考えただけですぐに忘れてしまった。
そして、キーラもフェンに追随して倉庫の中に千鳥足で入っていった。
彼らは人型機のある区画までやって来ると、それぞれの機体に乗り込んだ。
フェンはクロノスへ、キーラはロキへ。
コックピット内は明るく照らされ、操作盤が赤く光り始めた。出口はゆっくりと開かれ、暁の陽光がじわじわと足元から侵入してくる。
人型機の周りにあった鉄の固定棒は、機械音を響かせながら収納されていく。二体の各部からは、ピュアクローンが問題なく回っている事を示す信号が送られ、制御盤はそれらを次々と承認する。
二体は俯き気味であった顔を重苦しく上げ、目の前の光の中の風景をセンサーに捉えた。
「行くぞ」
『OK』
二人の声と共に、完全に開かれた出口から、二つの機体は飛び出した。それは静かで、朝の微風の様な出撃だった。
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