016.不死鳥の少女と戦前夜




 エルネスはフェニックス-IVの背に乗って、目の前の広々とした空を眺めた。雲は空の果てにたなびき、埃っぽい微風が遠い景色をぼんやり染めていた。天気は快晴、気温も暑くはあったが、灼熱とは言えない安定した気候であった。

 ここはルバート連盟軍の陸上戦艦の甲板である。フェニックスは甲板の上にその身を立たせ、首をもたげて先を見据えていた。赤に塗装された装甲に光が反射し、目に痛い輝きを放っている。


「ラングラー殿、いつまでもそんな所におらずとも……目標の街まではあと一日ほどかかります。艦内で休憩しては?」

「結構よ。構わないでくれない? 私は好きにやらせてもらうから」


 彼女を気遣った兵士の言葉にも、エルネスは素っ気なく、というよりは冷酷に返した。

 たった一人、フェニックスの上で、彼女は身動ぎもせず虚無の様な表情で大地の先を見据える。彼女は無性にイライラしていたが、その優れない気分を必死で抑えていた。

 それは、彼女の敬愛するシーナと離れたことだけが原因ではない。彼女は、自分の心の中から立ち上ってくるざわざわと覚束ない感情に、その精神を侵されていた。


 彼女はその感覚を一度だけ経験したことがあった。


 ウロボロスに才能を認められ、シーナと初めて邂逅した日。自身の力量を錯覚していた当時の自分が、何となく嫌な気分だと感じた、特有の警告感情。その日、エルネスはシーナに完膚なきまでに敗北し、その感情が恐怖だと知ったのだ。



 同じだった。


 この感情は、恐怖だ。


 この枯れた大地の先には、途轍もない強者が存在している。



 彼女の気分は優れなかった。


 一瞬でも気を抜けば、高笑いしてしまいそうだ。


 そうだ、彼女は敵を、自身を上回るほどの敵を求めていた。

 それは自身が憧れの存在に近付くためでもあり、またその隣に立つためでもある。

 休憩など出来るはずがない。ましてや勝利を確信して緩んだ、愚鈍な存在などと共に!


 彼女は自身が弱いと知っていた。それは自身の乗る機体――すっかりと自身に馴染んだ異色の戦闘機、「フェニックス-IV」にも現れている。

 だからこそ、より強さを、絶対的な上昇を望んでいた。


 この感情を引き出した存在に、かつては敗北した。では、今は?


 過去のエルネスにとって、シーナとの出会いは劇的であり、神との邂逅、光が目の前に開けたも同然だった。


 何より、言葉を弄さぬ程に、強かった。


 ああ、そんな存在が先に待っているのなら――そして、その存在を倒せたのならば。


「先輩も認めてくれるよねっ」


 エルネスの漏らした微笑は、風の音に紛れて消えた。




 ◆




 キーラ・ユベリック・イージスは、いつもの様に、朝から昼から節操も無く酒を飲んでいた。

 酒場のマスターはよくもまあここまで酔っ払えるものだと感心して彼を見ていたし、金を持っていること以外はそこらのごろつきと変わらないようなその姿に、多少の嫌悪を感じてもいた。


「あぁ……何でこのハゲジジイはこんな時分に店を開いているのやら。酒瓶を一つ残らず置いて避難してりゃいいのによォ」

「お客さん、そりゃどういう事です?」

「あー?⠀この街は滅ぶ事がほぼ確定してるみたいなもんだからなぁ……俺が飲み干せず、地面に吸わせる事になる酒が勿体なくてたまらねぇ」

「戦争ですか……そりゃ分かっていますがね、私はここに骨を埋めたく思っているのですよ。占領か、崩壊か、いずれにしろ、私はこの街と運命を共にしますよ」

「何も分かっちゃいねえなあ、直前までは何とでも言えるさ。ま、戯言ざれごとだ。命の使い道は千差万別、口出しする事じゃない」


 キーラは恨めしそうな目で、カウンターの背後にある選り取りみどりの酒瓶をなぞる。彼の目には、酒瓶がガラスの割れたボードやラックから地面に落ちて、その中の芳醇な香りと素晴らしき色を持った液体が地面に飛び散るところまで見えているらしかった。

 彼は溜息を吐いて、並んだ酒瓶の中から非常に味の良いものを二、三選んで買った。

 マスターは彼の審美眼は確かだということを認めた。尤も、その事によって何か彼に対する心理の変化が起きたかと聞くと、何も変わっていないのであるが。

 キーラは一つの酒場で使うには躊躇うような額を払った後、店を出た。日は低く、夕刻であった。


 彼はホテルには戻らず、別の道を行った。それは全く英断という他無く、ホテルに待ち構えていたラダールとは顔を合わせない道だった。

 彼の運命の女神は、火種を燻らせるのを選んだようだ。



 同時刻。



 フェンは街中をふらふらと彷徨っていた。彼の目的は戦場になるこの街の下見。その中でも特に、ある程度高く広い場所を探していた。

 地図である程度の当たりをつけて、現地を確認する。その作業の繰り返しだった。


「お客さん、次の場所ですけど」

「ああ、ありがとう」


 フェンはタクシーから下りて、その場所をざっと眺めた。その広場は、小高い地の上にある公園だった。遊具は無く、地面の舗装も少ない。

 周辺は住宅街だったが、ざっと確認した感じでは、もう既に殆どの人間が、住民避難を通じてこの街から去っているようだった。


「……悪くないな」


 今回の戦闘は、見えている負け戦だ。

 わざわざ集められた軍隊が、時間を稼ぐための捨て駒であることは、フェンにはよく分かっていた。彼の最終目的は、今回の戦闘で成果を上げることでも、時間稼ぎでも無く、天を舞う不死鳥をその手に捕らえる事であった。

 ウロボロスは神出鬼没だ。

 偶然の邂逅を果たしたこの機会、逃す手はない。


「聞かなければならない」


 何故あの時、自分を生かしたのだ?



 自身を見下ろすフェニックス。


 彼は死にかけていた。


 そして、裏切り者だった。


 殺すのが当然だった筈だ。


 だが、彼女は殺さなかった。


 そして――



「泣いていた……ような気がする」


 最後の嗚咽は、彼の耳に残っていた。

 フェニックスは去ったのだ。ただ、彼を見下ろし、涙声を雨の中に残して、嵐の中に舞い戻って行った。

 だからこそ、今、彼はここに立っている。


「お客さん、どうします?」

「ここまででいい。助かった」


 フェンはタクシー代を支払い、去って行く車のエンジン音を遠く見送った。フェンは公園を一回りし、構造を確認した。特に何も無い、やや歪んだ形の公園である。僅かに植物らしい茂みもあるが、全体的に荒涼とした場所だ。


 子供は一人もいない。

 夕刻であることを加味しても、人の気配は一つもない。

 世界から隔離されたと思えるほどに静かだった。

 理由は言わずもがな、刻々と近付きつつある戦争のせいである。


 フェンはベンチに腰掛け、煙草を咥える。手早く火をつけると、煙を肺の中へ吸い込んだ。

 脳が冴え渡り、全身の隅々まで感覚が取り戻せたような気がした。口の端から煙を吐き出し、また吸い込んだ。


「よお、場所は決めたのか?」


 公園の入口から声が響いた。声の主はキーラであり、カラカラと笑いながら夕日に顔を照らされていた。

 顔が赤いのは、夕日のせいだけでは無いだろう。その証拠に、手には酒瓶を持っており、中身は減っている。


「ふうん、中々いい場所だな」


 キーラは公園に入ってそう言うと、フェンのベンチに近付いて、隣に腰を下ろした。キーラは手元の瓶を口に近づけ、美味そうに飲む。


「よくここがわかったな」

「歩いてたら着いた」


 フェンは溜息を吐いて、首をベンチの背に預けながら煙を吐き出した。空の茜色が目に眩しく、街の影が公園の中にも影を落としている。揺らめく夕日と雲の中に、一羽の荒野鷲の影が横切った。

 短くなった煙草を放り捨てて踏み消すと、フェンは立ち上がった。


「俺はカムニエを迎えに行くが……お前はどうする?」

「さて、どうするかね……ただ、もうホテル暮らしには飽きたな」


 キーラの言葉に、フェンはほんの少し笑みを浮かべた。

 彼ももう、ホテルのベッドでは眠れそうになかった。


「今日の夜に、最後の住民避難がある。それにカムニエとリンを乗せるつもりだが、最後に会っておくか?」

「んー? カムニエはともかく、あのA級が素直に乗るとは思えねえけどな」

「そうか? あいつは怪我人だろ。で、どうする?」


 キーラは少し考えて、面倒そうに手を振った。それは、御免だね、というサインであった。


「分かった」


 フェンはそう答えて、キーラに背を向けた。


「最後だからな、しっぽりとやってこい」


 キーラの軽口に、フェンは背を向けたまま、親指を下に向けて返した。キーラの酔った笑い声が夕月の公園に響いた。




 ◆




 病院はいよいよ始まりそうな戦争の気配に、患者を安全地帯へと移動させる準備をしていた。一部の患者は既に出発し、デザートレーンを首都の方へ向かっている者もある。

 リンはまだ移動させられてはいないが、このままベッドの上に安穏としていれば、直に看護師達がやってくるのは明らかであった。


 リンはラダールとの会話以降、黙ったままずっと考え込んでいた。彼女はフェン達のデバイスコードを知らなかったし、カムニエを連絡にやるには余りにも状況が切迫していた。


 リンは、もし仮に今日フェン達が来なかったら、この街を去ろうと決めていた。この状況で来ないということは、何らかのトラブルがあったことは確実だからである。

 リンは祈る様な気持ちで、夜の街をゆく人間の姿を見つめていた。


 やがて、黒いスーツジャケット姿の気だるげな男の姿が、病院の入口へ向かっているのを見つけた。リンは顔を上げて、その姿を食い入るようにして見つめた。

 彼は院内に入り、リンの病室目指して真っ直ぐにやって来た。彼はノックをしたりしなかったりするが、今日はノックをして入って来た。


「遅くなって悪かったな」


 開口一番にフェンはそう言った。疲れの浮かぶ瞳で、淡々とリン達を視界に捉えていた。


「あ、フェンさん……リンさんがちょっと元気無くて」

「みたいだな」


 フェンはそう言って、カムニエの隣の丸椅子に腰を下ろした。


「見舞いだ」


 フェンは紙袋をカムニエに渡し、カムニエはそれを棚に置いた。

 中身は見舞い品の定番である果物だった。彼は果物以外を持ってきた事がなく、それを持ってくれば問題ないと考えているようだった。


「ねえ……一つ聞かせて欲しいんだけど」


 リンはぽつりと呟いた。

 フェンは眠そうな半眼でリンを見つめた。


「あの戦いで……あなたが私を攻撃したの?」


 フェンは意外そうに目を見開いた。それを見て、リンはラダールの言葉が真実であった事を知った。


「あー、あれか……」


 フェンは言葉を濁しながら、頭をかいた。

 彼の脳裏には、キーラの電磁槍が突き刺さった人型機の姿が思い浮かんだ。リンはどこかでその事実を知ってしまったらしい。

 リンの眉根は歪み、涙が下瞼に溜まっていた。


「黙っていたのは悪かった」


 フェンは、今更遅い事を分かっていながらも、そう口にした。

 その言葉に、リンの喉から低い声が漏れた。この場の空気は暗くなり、どこか氷の様に冷え冷えとした印象を受けた。


「何で、黙ってたの?」


 フェンは頭を押さえて、言葉を途切れ途切れに吐き出した。


「酷い言葉だが……黙っていたほうが面倒が無くてな」


 リンは唇を噛み締めながら、シーツを両手で掴んだ。

 彼女の心にあった基盤が、全てひっくり返された気がした。

 彼女の心に広がっていたのは、裏切られたとか、そういう気分ではなくて、諦観に似た虚ろな気持ちだった。怒鳴るとか、そういった感情を出す事すら、何だか疲れてしまっていた。


「言えば、いがみ合いになるのは分かっていた」

「そう、そうかもね」


 リンはどことなく悲しいような、重苦しい何かが心にのしかかってきて、素っ気ない答えしか返せなかった。全てがどうでもいいような気がして、ベッドに仰向けに倒れこんだ。


 フェンは諦めたように肩を落として、煙草を取り出した。が、病室だということを思い出して、取り出した煙草をポケットに戻しながら、大きなため息を吐いた。

 彼は内心、キーラに文句を吐きたい気持ちでいっぱいだったが、結局は自身も大して変わらないと完結してしまった。黙っていた時点で同じだと、彼はリンの失望を甘んじて受け入れた。


「すまないな……」

「いい」


 フェンは立ち上がり、カムニエに「行こう」と声をかけた。

 カムニエはリンの無気力な様子を心配して中々立ち上がろうとはしなかったが、リンの小さな呟きを聞き取り、渋々立ち上がった。


「リンさん……」


 カムニエはやはり後ろ髪を引かれるような様子だったが、リンの沈んだ様子を見て、シュンとして出て行った。カムニエでも、今のリンには何か言うべき言葉を見つけられなかった。


「元気でな」


 その言葉は、これが永遠の別れとなるような響きが含まれていた。リンはそれを感じて、ハッ、と視線を部屋の入口へ向けた。その時には、フェンは後ろ手に扉を閉じかけていた。

 リンは何か言葉を返そうとした。こんな別れ方だけは嫌だったのだ。しかし、喉は塞がってしまって、病室には扉を閉める淡々とした音だけが響いた。



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