第36話 楽譜、です

 羽丸しえらです。

 今日は、四月十三日、金曜日。


「おっはよーしえら!」

「あれ……? お、おはよう奈緒ちゃん」


 朝、教室に入ると、既に奈緒ちゃんが登校してきていました。

 いつもギリギリの時間に来て、自分でも朝に弱いと言っている奈緒ちゃんが、私より早く来ているなんて珍しいです。


「……おはよう、しえら」

「あっ、お、おはよう、スピカちゃん」


 原因は、どうやらスピカちゃんみたい。


「もー、聞いてよしえらー。スピカってば朝の六時から電話で起こしてくるもんだからさぁ、アタシ寝不足~」

「早朝ミーティングしようとか言ってたのは奈緒の方でしょう」

「アタシの早朝は七時からなのっ。こんな時間じゃまだ頭も動いてないよもう」

「だらしないわね……そんな体たらくで、いつ私に追いつけるの?」

「け、ケンカはダメだよ……?」


 二人とも、今日もバチバチです。

 大丈夫かなあ、と思いつつ、自分も席について朝の準備をします。

 授業に使う教科書を机に入れて、そのあと教室の花瓶の水を……、


「……あれ?」


 机の中。覚えのない紙が入っています。

 プリント類は昨日まとめて出しておいたはずなのに。

 少し不思議に思いながら、何枚かの束になっているそれを取り出して……、


「……っ!?」


 すぐに戻しました。

 そして、すかさず横目で奈緒ちゃんとスピカちゃんの様子を確認します。

 二人はミーティングに夢中で、私の様子に気づいていないみたい。……よかった。

 机に鞄を置いて二人の目から隠しつつ、もう一度紙束を取り出します。


 ……それは、でした。


 見慣れた五線譜と、見慣れない数字の並んだ線の足りない五線譜。

 曲のタイトルを書く欄には、『未定 -bass part-』とだけ書かれています。


 誰かが間違えて私の机に入れちゃったのでなければ、これはきっと。

 ベースの、楽譜。

 それもたぶん、スピカちゃんがポーラちゃんに渡したと言っていた曲の。


「どうして……?」


 奈緒ちゃんが入れたのでしょうか。

 私に、を用意してくれた……?

 でも私には、この難解な数字の羅列の読み解き方すらわかりません。

 本当は、隆子さんに渡すはずのものだったんじゃないの?

 聞きたくても聞けない。だってこっそり机に入れたってことは、スピカちゃんには内緒でやったことのはず。


「どうしよう……」


 どうすればいいの?

 これがもし呼び出しの手紙や果たし状だったなら、指定場所に出向くだけで済んだのに。

 私はこの楽譜てがみに、何をどう答えればいいの……?



 答えを出せずに、楽譜の束を鞄の奥にしまったまま。

 放課後、部活の時間を迎えてしまいました。


「早いなハマル。集合時間にはまだだいぶあるが」

「あ……レイ、先輩」


 もやもやしたまま向かった西側屋上前の踊り場に、レイ先輩は一人座っていました。たった今まで読んでいた文庫本を、制服のポケットにしまうのが見えました。


「ごめんなさい、一人のお時間、邪魔しちゃって……」

「構わない。一人の時間も大事だとかよく人は言うが、俺自身は特段大事にしているつもりはない。俺がここに一人でいたのは、まだ誰も来ていなかったからで、今お前が来て、二人になった。それだけだ」

「……じゃあ私、ここにいてもいいですか?」

「まだそんなことを聞くのか。天音部はお前の居場所で、お前はどこにでもいたいようにいていい。お前がいたらダメなのは、鍵を開ける前の屋上と、鍵を閉めた後の部室に音楽室……あと男子トイレとかだな」

「……それはダメですね」

「だろう。だから鍵が開くまでここで待つことには何の問題もない」

「はい。……じゃあ、その、お隣。失礼します」


 先輩が腰掛けていた階段の縁に、私も腰を下ろしました。


「よっぽど楽しみだったんだな、今日の部活」

「えっ?」

「お前が一番乗りだったからだ」

「えっと……ぜ、前回は遅れてしまったので」

「そうだったな。今日は体調は平気なのか?」

「は、はいっ。す、すこぶる元気ですっ」

「……そうか。あまりそうは見えなかったから、俺の勘違いだったようで何よりだ」

「あ……」


 顔も合わせないまま同じ方を向いて続けた会話。

 なのに、レイ先輩には私の元気がないのがわかっちゃったみたいです。


「……ごめんなさい、嘘です。ちょっぴり、もやもやしてます」

「そうか、もやもやか。……星を見たら吹き飛びそうか?」

「はい、それはもちろん……あれ、でも、どうでしょう。原因は解決していないような……」

「……なら、他の部員が来るまでの間。俺が話を聞こう」

「そ、そこまでのご迷惑は……!」


 慌てて振り向くとそこに、先輩の真剣な表情。


「俺だって、部員には万全の状態で星見に臨んでもらいたい。それが星好きの新入部員ともなればなおさらな。だからこれは、ご迷惑なんかじゃない」


 ……優しいな。レイ先輩の声も、気持ちも。


「……じゃあ、ご協力してもらっていいですか」

「ああ、頼れ。俺は先輩だからな」

「ふふっ、心強いです」


 口元がほっと柔らかくなるのを感じます。


「これ、なんですけど……」


 鞄から例の楽譜を取り出して、先輩に見せました。


「……ベースの楽譜じゃないか」

「やっぱりそうなんですね。これが今朝、私の机の中に入ってて……多分、奈緒ちゃんが入れてくれたんだと思って」


 それから、昨日の帰り道でのこと、奈緒ちゃんと電話で話したことを、ひとつひとつ、かいつまんで伝えました。


「ふむ……まず聞きたいんだが」

「は、はい」

「この楽譜、俺に見せていいものだったのか?」

「あれっ?」

「いや。これが安海が持ってきたものなんだとしたら、あいつらのバンドの曲ってことだろう。それを、仮にも打倒すべきライバルの俺が見てしまってよかったのか?」

「あっ……ああっ!?」


 そうでした。

 これじゃスピカちゃんたちの隠し玉を、あっさり横流ししてしまったことに……!

 もやもやのあまり、重大なスパイ行為を働いてしまってたみたいです!?


「あ、あう、その、あの」

「落ち着け」

「は、はひ……」

「まあ、でも問題ないのか……ポーラもラン先輩にレッスンを受けているわけだし」

「そそそうですよね、はひ」


 すーはーと深呼吸して気持ちを落ち着けます。息、だいじです。


「それに、もしその曲が俺にもできるようなものなら……その楽譜の持ち主は、ハマルじゃなく俺にそれを渡していただろうしな。選ばれなかった俺に、その曲はれない」

「え……?」


 楽譜を私に手渡しながら、レイ先輩は驚きの発言をしました。

 その曲がものなら、って……?


「こ、この曲、レイ先輩にもできないくらい難しいんですか……?」

「違う。難しいか簡単かで言ったら確かに難しい方だとは思うが、俺にできないレベルじゃない。今の話はそういう意味じゃなく……楽譜の主は、ハマルにならできる、あるいはハマルにこそってほしいと思ったから、お前に楽譜を託したんだろう、という意味だ」


 私に……?

 どうして? 私、ベース歴0秒の素人オブ素人なのに。


「…………」

「……ステージの上にいるとな」


 困惑に黙り込んだ私の代わりに、レイ先輩が落ち着いた声音で話します。


「星が、いつもと違って見えるんだ」


 一声で戸惑いが凪いでいく。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合った色の絵の具に、黒を一滴零したみたいに。


「屋上で見渡す星とも、家や近所の公園で眺める星とも、天文台ライブの客席で他の部員の演奏をバックに見上げる星とも違う。ステージの上、音楽を奏でながらでしか、見えない星空がある」


 ……それはきっと私の、知らない星。


「そいつを一緒に見よう、そう言ってあの人は……レグさんは、俺をバンドに誘った。ハマルの机に楽譜を忍ばせた誰かさんも、もしかしたらそんな気持ちだったんじゃないか?」

「そう……なんでしょうか、本当に」

「名前も目的も明かさず一方的に机に入れて寄越すなんてことをしてきたんだ。何をどう解釈しようが、ハマルの勝手だ。好きなように受け取ってしまえばいい」


 先輩の僅かに上がった口角に、私の口元も緩んじゃいました。


「ふふっ。そうですねっ。好きに解釈、しちゃいます」


 きっと楽譜をくれた子は、……奈緒ちゃんは、ステージから見上げる星の話を、部長先輩から聞いたのでしょう。

 その星を、私と一緒に見たいって……そう思ってくれたんです。


 ――しえらは、ベースやってみたい?


 奈緒ちゃんは最初から、できるかできないかなんて聞いてません。

 向いてるか向いてないかなんて話も、していません。


 まだ二人とも知らない星を、隣で一緒に見上げないか、って。

 きっと、そう言ってくれたんです。


「……レイ先輩」

「ああ、何だ」

「その星。いつもと違う、私のまだ知らない星。私にも見えるでしょうか?」

「見えるかどうかは、見上げてみないとわからない。だが見上げるだけなら簡単だ。そして俯いたままじゃ絶対に見えない。……全部レグさんの受け売りだが」


 見上げるだけなら……簡単。

 なのでしょうか、本当に。

 ずっと見たくない世界を前髪で隠してきた私には、簡単だなんて到底思えません。


 目を背け続けたものの眩しさを受け入れるのも。

 右も左もわからない場所に踏み出すのも。

 怖かった。簡単なんかじゃなかった。


 それでも選んでこれたのは……お姉ちゃんや奈緒ちゃん、みんなに分けてもらった勇気があったから。


「ハマル。俺は星が好きだ」

「……私もです」

「星が好きな人間は、広い夜空のどこかに自分の知らない星があると知ったら、そいつを見てみたくなるものだ」

「はい。……見て、みたいです」

「そしてもうひとつ。天音部は、星が好きな人間が、音楽の楽しさと出会うための場所でもある」

「……はい」

「俺から焼けるお節介は、この程度だ。後は頼られ次第張り切る。まだもやもやが晴れないようなら、もっと頼れ」

「ありがとう、ございます……」


 もやもやを晴らす方法は、きっと最初から明らかでした。

 私が、『本気』で音楽と向き合えばいい。

 奈緒ちゃんみたいに。ポーラちゃんみたいに。

 ……スピカちゃんみたいに。


「……っ」


 ぞわり、と。

 背筋を伝う震え。


 音楽のこと何も知らない私が、みんなが努力してきた間にも何もしないで立ち尽くしてただけの私が。どうやって『本気』になるの?

 本気に恐れるような私には。

 その星を見たいと願うことさえ、おこがましいんじゃないの?


「……ハマル?」

「い、いえ。……何でも、ないです」

「そうか。……そろそろ、日が落ちるな。部員ももうすぐ集まってくるだろう。タイムアップだ。あまり力になれずすまなかった」

「そ、そんなこと!」

「お前のもやもやを解消して、元気いっぱいの状態にして、万全の状態で星見に駆り出すのが俺の目標だったからな。残念ながらミッションは失敗だ」


 どうしよう。私なんかのせいで、レイ先輩にまで嫌な思いを。


「……だが、夜はまた来るし星は巡る。ミッションは次の日にまた挑戦すればいい」

「ふぇ……?」

「星は逃げない、というやつだ。ハマルもきっと天音部からは逃げない。だから俺は何度でもお前の悩みを聞くし、もやもやが晴れるよう努める。先輩としてな」


 ……ああ、この人は、まるで夜空のよう。

 迷子の泣き虫を見つけてくれる、あったかい夜空。

 私がなりたかった、やさしい暗闇。


「……なんて、こんなのは全部、あのレグさんが俺にしつこく言い続けてきた受け売りばかりなんだが」

「違います」

「……そうか?」

「はい。部長先輩は太陽で、……レイ先輩は夜空です。全然違います」

「そ、うか……うん。ありがとうハマル。誉め言葉として受け取る」


 それきり、私も先輩もお互いに黙り込んで、およそ五分。

 最初にやってきたのは隆子さんでした。


 それからことり先輩、ポーラちゃん、おねむ先輩と続いて。

 そして奈緒ちゃんと、スピカちゃん。

 一人、また一人と集まってくる天音部の部員たち。


「揃ったな。さあ、楽しい天体観測の時間だ」


 レイ先輩の号令で、今日も屋上の扉が開かれました。

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ステラ☆リズム 早見高校天音部活動日誌 リン・シンウー(林 星悟) @Lin_5_star

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