7.手術日程

 貴島美咲の急変、そして医師たちの一連の対応を見届けた私はそのあと、紫木には会わずそのまま帰った。いかに「付き添い」のネームタグを下げているとはいえ、本当に紫木の病室で並んで寝るわけにもいかないだろう。時間も遅かったし、急いで伝えなければならないようなことでもないから、翌日でいいと判断したのだった。

 しかし、翌日は昨日の平和な昼下がりが嘘のような慌ただしさだった。京都市内で連続した強盗事件が発生。複数の被害者を出したが、市を跨いで起こったために所轄が主導権争いで揉め始め、結局京都府警が上に立って捜査の陣頭指揮をとることとなった。府警としては、昨年の連続通り魔事件以降低調となっている警察への信頼を回復すべく、被害が拡大する前に犯人を逮捕したいという思惑もあったのだろう。だからといって、府警が出しゃばれば解決が早まるというわけではないが……今回は所轄がいがみ合ってしまったのだ、やむをえまい。

「やべっ、もうこんな時間……」

 署のある京都市内から少し離れたところで立ち上がった捜査本部(といっても、強盗なので些細なものだけど)に私も送られ、捜査員たちの調整に慌ただしく動いている間に午後三時をまわろうという時刻になってしまっていた。私は小さな会議室の壁にかけられた、濁った白色の時計を眺めて慌てた。これでは結局、紫木に会うのが夕方過ぎになってしまう。悪ければ今日は病院へ行けないかもしれない。病院にいる彼の携帯へ連絡することが憚られて、おかげで昨日別れてから碌に情報共有もしていなかった。これはあまりよろしくない。

 何とかこの場を抜け出したいが、しかしまだ仕事が落ち着く様子もなかった。

「まいったな……」

「どうしたんだい、神園さん」

 ため息をつきながら書類をまとめる私の後ろから、平さんが声をかけてきた。私が座っていると、ただでさえ背の高い彼が巨人に見えてくる。いや、身長に関しては私も人のこと言えないけど。

「あぁいえ……人員配置って結構大変だなって。仲悪い人たちをくっつけるとまずいし、かといって馴れ合っても困るし……」

 私は平さんの言葉へ、適当な返事を返した。相手が平さんとはいえ、私用でちょっと抜けたいと言える状況でもなかった。平さんは「そうだねぇ」と呟きながら私の隣へ腰かける。標準的な長机でも、大柄な私たちが並ぶと子供の学習机みたいに見えてしまう。

「そういえば紫木先生、倒れちゃったんだって? 大丈夫だったの?」

「えぇまぁ。ただの盲腸だったみたいで……って、なんで平さんがそれを?」

 私が尋ねると、平さんは年に似合わない悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「奥さんが仕事でね、実は紫木先生とやり取りしてたんだよ。それで彼女にも連絡がいって、そこで知ったんだ」

「仕事? 奥さんのご職業って?」

「弁護士だよ」

 平さんは短く言った。そして付け足すように「あんまりいい顔されないから。どっちの同業者にもね」と呟く。

 私は平さんの家族の話は、実はあまり聞いたことがなかった。結婚しているというのは周知の事実だったけど、奥さんが弁護士だったとは。

 それは……あまり声を大にして言わないわけだ。私たち警官にとって、弁護士は厄介な存在というイメージがどうしても大きい。彼らの弁護活動に苦渋を飲まされたことだって数知れずだ。

「あんまりないだろう? 警官と弁護士の夫婦なんて。敵対するのが常だから」

「いえ。でも紫木先生と平さんの奥さんが仕事で? いったい何を」

「それは私も知らない。守秘義務もあるだろうし」

「それはそうですね」

 平さんが笑うのにつられて私も笑った。意外なところで人脈が繋がってしまった親近感と気恥ずかしさが混ざって言葉にしにくい気持ちになる。

「でもその話を聞いて合点がいったよ。あぁ神園さんが大慌てて出てったのはそのことだったのかって」

「慌ててました? 私」

「それはもう、すごく」

「……すいません」

「いやいいんだよ。それで、神園さんはお見舞いに行きたいけど仕事が忙しくなってしまって行けないと」

「うっ」

 平さんが何でもないように見透かしたことをいう。平さんが私の教育係だったのはもう十何年も前の話だけど、未だにこの人には敵わない。

 彼は私の目の前にあった書類をかき集めて、自分の手元へ引き寄せた。そして一言「やっとおくよ」とだけ言う。

「でも」

「いいのいいの。その代わり、私に抜け出したい用事があるときはよろしく」

「……はい。ありがとうございます」

 私は席を立ち、平さんへ背を向けて会議室から出た。


 愛車をぶっ飛ばして三十分ほどで烏河病院へたどり着くことができた。四月とはいえまだ風が冷たい日もあって、バイクで走り抜けた私の体は冷え切ってしまっていた。私は自分の手で体を抱きしめてさすりつつ、小走りで病院へと入っていく。私の歩幅なら小走りだってとんでもない速度だが。

 入口の自動ドアが開き切るのもじれったく、半ば無理やり大きな図体をねじ込んで待合室へ入っていく。エレベーターへ直行し、ボタンを叩いて箱を呼んだ。ちょうど三階に止まっていたエレベーターが途中で止まることなくするすると一階へ降りてきてくれる。降りきると、古めかしいベルを鳴らして止まって扉を開いた。

 ドアを開けたエレベーターには、一人の女性が乗っていた。正確には一人と一匹だった。オレンジのベストと白いハーネスを装着したゴールデンレトリバー。首には青いスカーフをつけていて、飼い主もお揃いのスカーフを巻いていた。犬を連れていた女性はサングラスをしていて視線を窺うことはできなかったが、エレベーターを降りても周りを見渡す様子はなく顔はまっすぐ前を向いている。全盲に近いのだろうか。私よりも年上と思しき女性はパンツスーツ姿で姿勢よくきびきびと歩き、歩く速度が速いため盲導犬も小走りくらいのペースで彼女の横を歩いて行った。

「……おっと」

 盲導犬という珍しいものを眺めていて、私は危うくエレベーターを見送るところだった。閉じかけた扉へ腕を差し込んで開かせると、箱の中へ納まって三階へのボタンを押す。

 紫木は病室で暇そうに本を眺めていた。『デヴィルズ・ワルツ』だった。やっぱり暇つぶし用じゃないか、その文庫本。しいて様子が違うとすれば、本を掴んでいる手の指が落ち着きなく動いて表紙を撫でたり叩いたりと忙しいことくらいか。彼が読書をしている姿をそう頻繁に見たわけじゃないけど、彼のイメージにそぐわないので、たぶん普段の仕草ではないのではと思われた。

 紫木は私に気づくと文庫本から顔を上げ、強張っていた表情を少し緩めて「あぁ」とだけ言った。

「ごめんごめん、遅くなっちゃって」

「いえ、こちらこそお忙しいのに、よく考えれば、神園さんを僕と永川の相談事に巻き込む必要はなかったのですが……」

「いいのいいの。それで、調子はどう? お腹は痛いまま?」

 紫木は頭を掻いて、小さく頷く。

「そうですね。痛いことは痛いですが最初ほどではないので。お見舞いにもいろいろな人が来てくれるのですが、正直そこまででもないので大げさに感じてしまいます」

 紫木がベッドサイドに置かれた花束を見る。昨日晶が送った紫のバスケットのほかに、ガラス製の一輪挿しとそこへまっすぐ立てられた青色のバラが増えていた。バラは血液を連想させるからお見舞いにはタブーだと聞いたことがあるけど、青色ならセーフというわけか。しかしお見舞い用の花というよりは気障な男からのプレゼントに見えてしまう。

 そしてそれらの花を見て、私も何か持ってこればよかったと後悔した。昨日の晶を見て頭の片隅においておいたはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。気遣いとか、やっぱり柄じゃないんだろうか、私は。幸い紫木はそういうのをいちいち気にするタイプではなさそうなので、そのことは自分の心のうちにしまい込んでおくことにする。

「あ、そうだ。神園さん」

「うん?」

「手術、明日に決まりました」

 紫木は唐突に、漏らすように言った。ずいぶん急な印象だったが、しかし盲腸にそう時間をかけるものでもないだろうから、これが普通なのかもしれない。

「よかったじゃない。痛いのとは明日でおさらばってわけ」

「まぁ、そうですね。よかったです」

 よかったよかったと口で言う割には、紫木の口調はどこから落ち込んでいて、何かがのどに詰まったかのような言い方になっていた。私はそれが引っ掛かったけど、その理由へ思考が至る前に、紫木に「それで、神園さんのほうは何かわかりましたか?」と声をかけられてしまった。私は考え事を中断して、彼の質問へ応じる。

「うん、いくつか。まず第一容疑者だった中城沙織だけど、前の職場が広島にある大学病院ってところまでわかった。いま照会をかけてるところだから、明日には具体的な場所がわかるでしょう。それと、彼女の周りからの評価だけど、先生のにらんだ通り優秀で親切な看護師って感じだったわ」

「やはりですか。中城さんを注意してみておくべきでしょう。もしかしたら加害の現場をおさえられるかもしれませんし」

「だけどひとつ問題が」

 紫木は眉をあげて私の言葉を待った。私が貴島美咲の急変とその母親の態度を伝えると、彼の顔が目に見えて厳しいものになっていく。

「繰り返す急変ですか。それはいつからのことですか?」

「あのあと葉原先生に尋ねたけど、一昨年くらいからずっとらしいわ。この病院に来る前もいくつかの病院で入院してるって」

「じゃあ少なくとも、貴島美咲さんの件は今回と無関係ということですか……」

 紫木は文庫本を置いて、遠い目で病室の壁を見つめた。しばらくそうやってぼうっとしていた彼は顔をあげて「もしかしたらチャンスかもしれません」と呟いた。

「チャンス?」

「えぇ。貴島美咲さんを見張りましょう。もしかしたら犯人が現れるかもしれません」

「本当に?」

 紫木は私の質問に曖昧に頷いた。本人もあまり確信しているわけではなさそうだ。

「今回の事件の犯人はクレバーです。美咲さんを狙えば事態はより混乱すると踏み、手を出す可能性があります。もし今回の事件の犯人が現れなくとも、美咲さんへ何らかの加害をしている犯人は捕まえられるでしょう。急変のペースから言って、うまくいけば一週間以内に。そうなればとりあえず一人は救われます」

「そりゃそうだけど……どうやって見張るの? 私が病室の前にいたらあんまりにも不信だし、かといって看護師の誰かに頼めるもんでもないし」

「監視カメラが仕掛けられれば楽なんですけど」

 彼は投げ捨てるように言うと、リモコンを操作してベッドを倒してしまう。なんとなくだけど、やっぱり紫木の様子がいつもじゃないように見える。盲腸の痛みのせいかとも思ったけど、その割には苦痛そうな表情ではない。何か心配事があって取るもの手につかずという様子に見えた。

 私はとりあえず、気づいていない体で話を進めていく。

「監視カメラねぇ。美咲ちゃん本人が首を縦に振ればいいけれど」

「まさか母親が何かしてるかもしれないと言うわけにはいきませんからね。適当な口実があればいいのですが……いや」

 紫木が頭をこちらへ向けて言う。

「むしろ神園さんに、母親とぶつかってもらいましょうか」

「え? どういう?」

「母親と会って、この病院で起きている連続急死事件について正直に話してしまいましょう。そして、美咲さんが狙われているかもなどと言って監視カメラ設置を交渉してください」

「いいの? 美咲ちゃんの件に関しては母親が犯人かもしれないんでしょ」

 私が尋ねると、紫木がベッドの上でもぞもぞと頷く。

「ええ。ですが刑事が周りを嗅ぎまわっているという状況で動くほど向こうも間抜けではないかと。とりあえず時間を稼いで、美咲さんの安全を確保します。仮に焦って尻尾を出すなら、それこそそのときに叩けばいいですから」

「そうね。犯人逮捕も大事だけど、これ以上犠牲者が出ないようにするのも必要だし」

 病院でも数人しか知らない、私が探りを入れているという機密情報を開示するのはリスクがあるけど、あの少女の安全には変えられない。

「わかった。とりあえず母親に会ってみるわ」

「お願いします。永川に頼めば居場所を教えてくれるでしょう」

 私の返事を聞くと、紫木は大きなため息をついてベッドへ沈み込んだ。掛け布団を引き上げて、殻に閉じこもるカタツムリみたいに体をくるんでしまう。やっぱり、いつもより重々しい。

 私はどうやって声をかけようかと悩んで、結局布団越しに彼の肩を軽く叩いて病室を去った。

 紫木の重苦しい様子は、病気で気弱になっているだけかもしれない。

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