8.第二の患者

 永川に教えてもらった情報では、貴島美咲の一家は京都市内はおろか京都府からも離れた滋賀県大津市にある。一家は両親と長女の美咲、あと小学三年生の弟がいるようだ。父親は仕事が忙しく、母親が二日に一回のペースで京都と大津を往復している。九歳の息子を残して娘にかかりきりというわけにもいかないから、大変だろう。

 貴島邸は大津市内の郊外にあった。駅に近く、外から見た家は随分大きかった。京都よりも土地が安いという事情もあるのだろうけど、真新しくも見える外壁やよく整えられた庭の芝生から貴島家がそれなりに裕福な一家であることが察せられた。

 インターホンを押すと、母親が出てすぐに私を中へと入れてくれた。広い玄関には黒のランドセルが投げ捨てられていた。おそらく弟はかえってすぐどこかへ遊びに行ったのだろう。

 だだっ広い居間へ通され、加奈子がティーカップに紅茶を入れて持ってきてくれた。改めて私が京都府警の刑事であると名乗ると、彼女は不安そうな顔で胸に手を当てた。代理性ミュンヒハウゼン症候群かもしれないという前情報があると、そんな些細な動きもわざとらしい演技に見えてしまう。彼女はそんな重々しい動作で口を開く。

「それで……京都府警の刑事さんが何の用件で」

 私は紫木の指示通り、正直に、率直に話を運ぶ。

「あなたの娘さん、美咲さんが入院している烏河病院で少し事件が持ち上がっています。事件といってもまだ疑惑どまりなのですが」

「もしかして、重症の患者が急変するという?」

 加奈子は事件のことを知っていた。私の驚きが顔に出たのか、彼女は取り繕うように言った。

「いえ、入院患者の家族の中でも噂にはなっていたんです。証拠があるわけではないですし、入院患者なんていつ急変するかわからないものですけど……ただ、長く入院している方も多いですから、様子がおかしいことはすぐにわかります」

「そうでしたか」

 話の合間にカップを口へ運ぶ彼女の様子を凝視する。手が震え、紅茶の水面が揺れていた。嘘か本当かはわからない。彼女の動揺には不自然なところがないように見えるが。

 なら、もっと大きな衝撃を与えよう。

「刑事さんは、その件で。でもなぜ私に?」

「次に狙われる可能性がある患者の一人が美咲さんだと、私たちは考えています」

 伏し目がちだった加奈子の視線が私を射抜いた。硬直。驚いている。だけどなぜ驚いているかまではわからない。全く予想していなかったことを言われたからか? それとも自分の思惑が明るみに出そうだからか?

「なぜ?」

「仮に一連の事件が人為的なものだったとしての話ですが、今までの死者を調べると皆重篤な急変に至るまでに何度も体調の悪化を経験しています。このような変化は、特に重病の入院患者にはつきものですが、犯人はそれを利用して事件の発覚を遅らせたのではないかと思われます。なので、体調の急変を何度も経験している美咲さんも狙われる恐れが……」

 最後まで言う前に、加奈子が手で顔を覆って伏せた。泣いている。嘘泣き……ではない。手の隙間から涙が零れ落ちている。これで嘘だったら大女優だ。たまにそういう犯罪者もいるけど、この人がそこまで肝の座った人物であるかというと……。

 私の頭に、疑念がのしかかる。本当にこの人が犯人なのだろうか。私たちは何か、大事なことを見落としていないだろうか。

 そもそもやっぱり、今回の事件は何から何まで異様だ。普通じゃない。そもそも事件が起こっているのかわからない上に、紫木もいつも通りじゃない。霧の中で手を闇雲にもぞつかせているようなものだ。

 取り急ぎ、私は加奈子へハンカチを差し出しながら彼女が落ち着くのを待った。そうしている間に居間を見渡す。本当に使えるのかフェイクなのかはわからなかったけど、居間には暖炉があってその上にいくつかの写真立てがのっている。

 写真を見てもいいかと尋ねると、加奈子はうずくまったまま頷いた。私は席を離れて暖炉へ歩み寄る。写真立ては全部で五つ。一つは家族四人が仲良く収まっているもので、背景にある桜が満開に咲き誇っている。おそらく美咲が中学に入学したときのものなのだろう。美咲はセーラー服姿で穏やかな笑みの母親に肩を抱かれている。私は病室で一瞬だけ見た顔を思い起こす。写真の彼女の方が肉付きも血色もいい。そういえば葉原は、美咲の症状が始まったのは一昨年からと言っていたか。じゃあこの写真を撮ったあとに。

 残りの四つのうち、一つは弟だけが写っているものだった。サッカーのユニフォームを身にまとってボールを追う少年。顔立ちに母親の面影がある。もう三枚はそれぞれ、どこかのキャンプ場や行楽地、レジャーランドのような場所で撮影されたものらしく、父親を除く三人が写っていた。きっと父親は撮影係にまわったのだろう。どの写真も、どこにでもいる幸せそうな家族の風景だった。いまの苦境が待ち受けていると知らない頃の、家族の写真。

「すいません。もう大丈夫です」

 押し殺したような声で加奈子が言った。私は席に戻り、再び彼女と対面する。加奈子は真っ赤に泣き腫らした目で私を見た。私はすっかり話を進めにくい気分になっていたけど、そうも言っていられない。わざわざ大津まで来たのだから、仕事をしないと。

「えっと、美咲さんの症状が始まったのは一昨年、でいいんですよね」

「はい。娘が中学一年のころからでした。急にだるいとか、気持ちが悪いとか言い出して……風邪かと思ったんですけど熱はないし。きっと学校で嫌なことがあったから仮病でも使っているんだろうとおもったんですけど、そうこうしているうちに意識まで失うようになって」

「仮病、ですか。その異変の前にも、美咲さんは仮病を使ったことが?」

「小学生のころ、何度か。まぁ子供ですから。でも仮病で意識不明にはならないでしょう」

「失礼ですが、ご主人は普段お仕事が忙しいんですか?」

 加奈子はゆっくりと頷く。

「商社の営業マンで、残業や休日出勤も多くて。なので私は看護師の仕事をやめて、娘の看病に専念するようにしました」

「ご主人が美咲さんのお見舞いに来たことは」

「何度か。月に一度くらいのペースです」

 私は加奈子から聞いた情報をメモしていく。離職と父親の不在、つまり自分の看病を認めてくれる人の欠如。代理性ミュンヒハウゼンの条件としてはしっくりくる。認めてほしいから行動がエスカレートすると。だけど一方で、いくら一生懸命看護して献身的な母親を演じても誰も見てくれていないということでもある。

 なんだろう。最後の一ピースだけが余ってしまったかのような気持ち悪さがある。

 私はメモの端に、病院を出る前に記した走り書きを見つけた。永川に「聞いておいてください」と言われたことだ。

「あの、ところでなんですが。弟さんのほうは、何か病気とかはされていませんか?」

「いいえ。息子の方は健康そのもので。強いて言うなら虫歯が多いくらいですが」

「怪我はどうですか? 大きな事故にあったとか……」

「ありません。あ、でも去年足の骨にひびを入れてしまったことが。高いところから飛び降りて」

 永川の予想では、もし母親が代理性ミュンヒハウゼン症候群なら娘だけではなく息子の方にも何かしているかもしれないということだった。尋ねれば積極的に話してくれるだろうとも。だけどそうではないようだ。やっぱり、何かしっくりこない。

「あの、どうかしましたか」

「あぁいや……えっと」

 私は取り繕うためにカップへ手を伸ばした。この聞き込みは空振りだぞと、刑事の勘が頭の中でがんがん騒ぐ。私はそんな自分の勘に、そこまで空振りじゃないぞ、ちょっと予想と違うだけだと反論したけど、事実に相違ないはずのその主張は空虚に響いた。

 私はゆっくりと紅茶を飲んで精神を落ち着かせた。加奈子の方はそれをじっと待っていたが、やがて耐え切れなくなったのか、私がカップから口を離すよりも早く話し始めた。

「刑事さん。娘が狙われているということでしたけど、私は何をしたら」

「……美咲さんの病室に、監視カメラを設置したいのですが。もし美咲さんに何かをする人がいれば、それですぐにわかります」

 加奈子は口を強く結んで考え込んだ。結論はすぐに出たようで、顔を上げる。

「お断りします。もしそれで犯人を見つけられたとしても、それじゃ娘は、美咲は死んだあとじゃないですか? そんなの、あんまりです。カメラがあればプライバシーも暴かれるのに、防げもしないなんて」

 正論だ。その通りではある。加奈子の中ではあくまで、美咲へ危害を加える犯人はこの急死事件の犯人と同一人物。その犯人の加害をカメラに映すということは、美咲が死ぬことを意味する。全く正しい。

 だけど一方で、苦しい主張にも聞こえた。危険が迫っているのに、カメラ一つ設置することを躊躇うのか? と。あの涙を見た後でもなお、私の心には「貴島加奈子犯人説」がしこりとして残っていた。

 そこをなんとかできませんか、と私は言おうとした。しかし口を開くのと同時に、固定電話の呼び出し音が居間に届いた。加奈子がすいませんと言って廊下へ出る。私がしばらく待っていると、バタバタと慌てた足音とともに彼女が戻ってきた。

「刑事さん、美咲が……また急変を」

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