第8話 不運への漏斗(ロウト)
僕は、青山一丁目駅の三番出口から地上へ出ると、愛から聞いたとおり、そのまま青山通りを直進し、カナダ大使館の手前を右に入った。道を行き来していたサラリーマンや事務服のOLの姿は消え、突然、閑静な住宅街になった。
気をつけてね、と愛は言っていた。彼女はすでにキングのところに行って、空井と手を切るように掛け合っていた。その時キングは、自分の後ろにヤクザがいることをちらつかせて、逆に愛を脅しつけたらしかった。「邪魔したら、手を折ってやるだの足を折ってやるだの、いろいろ吠えたわよ」と愛は言った。
それでも、とにかく一度会ってみようと僕は決めていた。
キングの会社は、赤れんが風の高級マンションの中にあった。門口には守衛室があり、中の広場には観葉植物の茂みと小さな池があった。会社名が書かれた扉のインターホンを鳴らすと、若い女が顔を出した。ひどく疲れているように見える彼女は、ぷっくりした唇と頬が愛に似ていた。
中は普通の住宅で、トイレと台所の間の廊下を抜けると、十二畳ほどの部屋があり、壁際に並んだコンピュータに向かって、派手なアロハを着た男と若い女が仕事をしていた。
愛に似た女の子は、奥の部屋まで僕を案内し、社長に取次いだ。小さな社長室には、黒い皮張りの応接セットがあり、壁にはクレーの絵がかかっていた。
事務机に向かっていたキングが、椅子をまわして振り向き、「いらっしゃい」と笑った。
七福神の恵比寿を思わせる無邪気な笑顔は、いつもとはまるで別人だった。
「どう? 空井は元気?」
キングは親しげに言った。いつも空井をたずねてくる時は、僕を無視していることなど忘れているようだった。
「元気にやってるみたいですよ」
「失礼します」と声がし、さっきの女の子がコーヒーを置いて行った。
「愛さんにちょっと似てますね」と僕。
キングはごまかし笑いをして「……でも暗いだろ? 雰囲気悪いからクビにしようと思ってるんだ」
僕は、廊下にいる彼女に聞こえるんじゃないかと心配した。
キングは、コーヒーを一口啜ると、両腕を天に伸ばして大あくびをし、そのまま手を頭の後ろで組み、背もたれに寄りかかって、僕が用件を切り出すのを待った。
「空井から聞いたんですが……海賊版を作ってるんですよね」
キングの目が半眼になり、ふてぶてしさが戻った。
「作ってる……としたら、どうなる?」
「やめてもらいたいんです。……いや、そちらでやるのは構いませんが、空井を巻き込むのはやめてもらいたいんです」
キングはさも面白そうに笑った。「そりゃできない相談だ」
「どうして?」
「あいつがやりたいって言ってんだから、仕方ないだろう」
それはちがう、と言いかけてやめた。それでキングと議論しても無駄に決まっている。
「空井さんの他に、代わりはいないんですか?」
キングは席を立ち、戸口に行くと、ドアを閉め、また席に戻った。
「代わりくらいいくらでもいるさ。それでも、あいつがやりたいっていうんだから、しょうがねぇじゃないかよ」口調が変わっていた。
僕は目の前のスプーンを取り、コーヒをかき混ぜた。これから言い出そうとしていることを、本当に言っていいものかと考えた。スプーンを置き、
「何なら、警察に言ってもいいんですよ」と言った。
キングの顔からニヤニヤ笑いが消えた。目つきが凶悪になり、まるで物を見るように僕を睨んだ。
「おい」彼は低く言った。「ぶち殺されたいか」
「どういうことです?」僕は、すぐにでも立ち上がって出ていきたい気持ちを押さえつけた。
「そのくらいわかんねぇかよ? その筋の知り合いに頼んで、やってもらおうってことだよ。三万円払えば、きっちりやってくれる外国人が、腐るほどいるぜ」
僕の喉が詰まったようになり、心臓の鼓動が目頭まで響いた。だが、キングから目を逸らさなかった。
「分かりました」僕は立ち上がり、膝が震え出さないように力を込めた。
「いいか、三万円で片がつくんだからな」
僕は部屋を出た。社員のいる部屋を抜け、玄関に行くまで、キングはぴったりと後をついてきた。
「じゃあ、また近くに来たら寄ってください」とキングは大声で言った。
僕は靴を履き、玄関扉を開け、彼と同じくらいの声で言った。
「じゃあ、警察のことは、これからよく考えてみますから」
「今日、キングと会って来ましたよ」
僕は、空井の部屋の戸口に立って言った。
キングの方に、空井と手を切る気が全くないと分かった今、海賊版をやめさせるには、空井に直接話すしかない。
「空井さんを海賊版に巻き込むのを、やめてもらおうと思って」
空井は読んでいた文庫本から目を上げて、こちらを見た。
「……愛さんに頼まれて」
「愛が?」空井は少し嫌な顔をした。
「あいつ……キングのことですけど、一体どういう奴なんですか? 僕は脅されましたよ、ヤクザに頼んで僕をぶち殺すとかなんとか」
「ぶち殺す……?」空井は信じていない。
僕はうなずいた。「あれはヤバいですよ。空井さん、そのへんも知ってるんですか? ああいうのには、あんまりかかわらない方がいい」
「本当にぶち殺すなんて、言ったのか?」
「三万円でやってくれる東南アジア人を知ってるとか、何とか」
空井は当惑しているようだった。
「確かに危ない仕事ではあるよ。だけど、捕まらない自信はあるんだ。それにキングは、ああ見えても、根は悪いやつじゃない。あいつも今、金に困っていて、この仕事で借金を返したいだけなんだよ。オレもちょうど仕事が見つからなくて困ってたから、わざわざ話を持ってきてくれたんだ。それに、最初から海賊版だってことも言われていた。別に強制されたわけじゃない」
「そりゃ空井さんは、キングにとって大事な相棒だから、いい顔しますよ。でも、いざとなったら分からないでしょう。現に、裏では人に脅しをかけてるような人間なんだから。僕だけじゃなく、愛さんだって脅されてる」
「愛も一緒に行ったのか?」
「一緒じゃなく、一度ひとりで行って、同じようにヤクザのことをチラつかされて、脅されたそうですよ」
「あいつ、そんなにオレにやめさせたいのか……」
空井の眉間に深い縦皺が寄った。
「空井さん、仕事の口がないわけじゃなんでしょう? ヘッドハンティングされたって、愛さんから聞きましたよ。空井さんさえその気になれば、いつでもオーケーしてくれるっていう話らしいじゃないですか。どうしてそっちに行かないんですか」
「うん……」空井はしばらく考えてから「こっちへ入らないか」と手招きした。
僕は部屋に入り、机の前の椅子を引いて座った。パソコンには、僕が買ってきた新しいインターネット用のケーブルが繋がっている。……海賊版づくりに使っていなければいいが……と僕は思った。
「そのヘッドハンティングのこと、どこまで知ってる?」空井は言った。
「いえ……半年ほど前にそういう話があったということと、お金が相当いいということくらいしか……」
「金は悪くないんだ、確かに。だけど、オレに来ないかって言っているその会社は、ペーパーカンパニーなんだ。会社の登録だけはしてあるが、その所在地には何もない」空井は皮肉っぽく笑った。「な? うさん臭さから言ったら海賊版といい勝負だろう?」
「何かの詐欺ですか?」
「オレもそうかと思って、そのヘッドハンターってやつにいろいろ聞いたんだ。そうしたら、一応、理屈の通った説明はするんだよ。新しい事業を始めるために前から会社登録だけしてあった、とか、最近になって準備が整ったんで実際に事業を動かそうとしているとかね。だけど決定的におかしいのは、オレがやる仕事の内容を、教えないことなんだ。正式に契約を交わすまでは教えられないんだとさ。そりゃ、プログラマはみんな秘守義務の書類にサインさせられるけど、採用の前から、仕事の中身を一切知らされないなんてことはないだろう?」
「一切……ですか?」
「うん、一切」
僕は小さく唸って腕組みした。そんなわけのわからない話に乗って、騙されたくないと思うのは誰しもだ。しかし、警察に捕まるかもしれない海賊版の仕事とどちらがいいのか……。
「今度、二回目が終わった」と空井。「この前は税関でひっかかったけど、今回は別ルートを使うんだ。これがうまくいって金が入ったら、手を引く気でいる。キングだってそれで借金を返せば、それ以上危ないことをする必要もないんだからな。こんなことをずるずる続けていても、いいことがないことくらい、よく分かってるさ」
僕は黙ってうなずいた。
結局、二回目もやったのだ。
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