第9話 ダブルの騙し

「早く手を切らせるようにしないと、だめよ」愛は悩ましげに眉をひそめた。

 喫茶店『ル・テラス』の席で、僕が、キングに脅された一件と、その後の空井との話を報告した後だった。

「海賊版は、これで最後にするって言ってましたけど」

「最後になればいいけど……」

「次の仕事さえ見つかればいいのに。普通の仕事さえ見つかれば」

「彼、今も仕事探してるの?」

「いや……最近は全然」

「そう」

 愛の返事が素っ気なかったので、僕は、おや、と思った。

「愛さんは、そんなに、ヘッドハンターが持って来た仕事をやらせたいんですか?」

 ひょっとして彼女は、空井の収入が「普通」じゃ満足できないのかもしれない。

 愛はゆっくり過ぎるほどゆっくり紅茶を飲み、カップを置いた。

「そりゃ、できればね」

「なんか、うさん臭い仕事だって言うじゃないですか」

「彼がそう言ったの?」

 僕は頷いた。「そういう言葉は使いませんでしたけど」

 愛は神妙な顔つきになり、ストローをつまんで、アイスティーの氷をものすごい速さでかき混ぜはじめた。

 僕は話を続けた。「お金はいいけど、仕事の内容を一切知らされないっていうのは、どこか変ですよ。ひょっとして、何か悪いことに加担させられるのかもしれないし、お金だってちゃんと払ってもらえるかどうか……。話を聞いた限りじゃ、キングの海賊版と、どっこいどっこいの気がしますけど」

 愛は手を止め、僕を見据えた。あまり長い間見つめられて、こちらがどぎまぎする程だった。何か重大なことを言おうかどうか、迷っているふうに見えた。だが、彼女は緊張を、ふっ、と解き、うつむいてまた氷をかき混ぜた始めた。

「でも」愛は言った。「とにかくキングの仕事だけは止めさせないと。脅されて、無理矢理やらされてるんだろうし」

「いえ、なんか、無理矢理ってことじゃないみたいですよ」

「でも、あんな奴と組まない方が、いいに決まってる」

 僕はうなずく。「問題は、空井がどうもあいつ、キングを信用しているようだってことなんですよ。僕たちが脅されて、『ぶち殺す』とまで言われたことも話しましたけど、空井にはどうもピンときてないみたいで……」

 愛はストローをを長い間もてあそんだ。

「ねえ……、警察にチクっちゃおうかぁ」そう言って彼女は、僕の反応をうかがった。目は本気だった。

「でも、それじゃあ……」

 ……空井が捕まる。

「大丈夫、空井君は絶対足跡を残してないはずだから。捕まるのはキングだけよ。空井君はね、どこにでも入れるし、入ったという証拠をひとつも残さないで出て来れるのよ。だから、警察に、キングを捕まえてもらうのは、どう?」

「捕まったキングが、空井のことを話したら?」

「だけど証拠がない」

「彼の腕をそこまで信じるんですか?」

「うん」

 僕は少し嫉妬した。

「しかし、ちょっと危なくないですか……」空井だって人間だ、ミスはありえる。コンピュータの片隅に、ほんの些細な証拠を残していないとも限らない。

「そうかなぁ。とにかく、もうちょっと考えてみる。あ、そろそろ仕事に戻らなくちゃ」

 愛は腕時計を確かめると、自分の払う分をテーブルに置いて足早に店を出ていった。形のいい腰が、男を誘うように左右に揺れた。

 僕は、愛の積極さに少したじろいでいた。

 

 マンションの玄関を開けると、ほぼ同時に、空井の部屋の戸が開く音が聞こえた。玄関の明かりを点けると、背の高い空井が、廊下の壁によりかかるようにして立ちはだかっていた。

「ただいま」僕は靴を脱いで上がった。

 空井の返事はなかった。見上げると、冷たい目で僕を見ていた。

 その時になって、様子がいつもと違うことに気づいた。

「どうしました?」

 彼は答えない。

 反射的に、愛と会っていたのがバレたのだと思った。だが、やましいことは何もしていない。次の瞬間、海賊版がまずいことになったのかも知れないと思った。

「まさか、警察ですか?」

 空井の目にあった冷たい怒りが、軽蔑に変わったように見えた。

「キーロガーを入れるなら、一言断ってほしかったな」と空井。

 僕は呆然とした。この前、僕自身のマシンにキーロガーを入れてあると、言うには言ったが、それは嘘だと空井も分かっている。

「キーロガー……どういうことです?」

 空井は、ふん、と鼻で笑った。「そんなにオレが信用できないか? 海賊版の仕事は、ここじゃやらないとはっきり言ったはずだろ。キーロガーを入れて監視したいならそれもいいが、黙って入れるのはやめてくれ」彼は鼻に皺を寄せ、臭いにおいを嗅いでいるような顔をした。

「空井さんのマシンに、キーロガーが入ってたんですか?」僕はゆっくりと言った。

「あのさあ、」彼の口調があらたまった。

「僕じゃないです」

 彼は、他人を見るように僕を見た。

「じゃあ誰だって言うんだ? オレのいない間に、どこの誰が入れたんだ?」

「ネットワークからじゃないんですか?」

 インターネットから、ウイルスのようにマシンに入り込むキーロガーもある。そういうキーロガーは、コンピュータで打ち込んだパスワードや個人情報を記録し、それを自動的に外部に送信する機能を持っている。もちろん、悪いことを企む奴らが使うのだ。だが、空井がウイルスに注意していないはずはない。

「そう思うか?」彼の目つきがまた鋭くなった。

「だけど、僕じゃない。誓って言います」僕はそう言いながら、僕以外の誰がキーロガーを入れたのか考えた。キングか? 海賊版の仕事で、空井の動きを監視するためか? それとも、愛か?

「オレのことが信じられないなら、それでもいい」空井は吐き捨てるように言った。「こっちだって、特別、信じてもらおうなんて思っちゃいない。ただな、マシンの中身をいじるのは反則だぞ。見てチェックするだけならいつでもしろよ。ただし、何かを植え込むんだったら、一言言ってからにしてくれ。確かにオレも、そっちのマシンを勝手に使ったが、中身は何も変えなかったはずだ」

「だからそれは、僕じゃないです」

「じゃあ証明してみろ」

「そのキーロガーを、見せてもらえますか?」

「どうぞどうぞ」空井は皮肉っぽく言った。

 僕は彼の机の上のパソコンに向かった。

「空井さんは、もう、いろいろ調べた後なんでしょうね」

 それなら望み薄だろう。

「ざっとは見たよ。さっき見つけたばかりだからね」

 僕はキーロガーを調べ始めた。

「これは……ネットから入ってくるウィルスタイプじゃないですね。ディスクからコピーして、直接インストールするタイプだ」(※6)

 空井は何も答えなかった。おそらく、僕が茶番劇を演じていると思っている。

「誰かがここに来て、入れていったことになりますね」

 僕は、インストールされた時刻の記録へと向かった。その時間に、僕がこの部屋にいなかったとなれば、アリバイ成立で、僕は無罪になる。

「インストールされた時間は……消されてますね」

「ああ、そういうことは誰にでもできるもんじゃない」

「……それに、ログレポートをどこにも送信しない設定にしてある。犯人は、目当ての記録を、ここに来て回収する気だったんですかね?」

「それか、いつでもここに居て、すぐに見れるかだ……」

 僕はそれを無視した。

「キングは、まだよく来るんですか?」

「昼間に、たまに来ることは来る」

「愛さんは?」

「愛が、何のためにキーロガー入れなきゃいけないんだ」

「ログレポートの中身はもう見たんですか?」

「いや……自分で打ち込んだものの記録を見ても仕方ないだろう」

 確かに、ログレポートにあるのは、打ち込んだキーとマウスの動きの記録だが、もうひとつ、空井が忘れていることがある。

 僕はログレポートを開いた。

「これの、時刻、のところを見ると……よかった、こっちは消されてない」

 キー操作を記録したコードのまとまりごとに、その操作が行なわれた時刻が記されている。犯人はインストールの日時は消去したが、一つ一つの操作に付く日時記録は消去し忘れたのだ。

「一番最初を見ると……この記録が始まったのは十二月十三日、三日前の二十三時五十三分ですね。つまり……」

「その時刻の前に犯人はキーロガーを入れた、あるいは、もっと以前に入れておいたキーロガーのレポートを回収して、新たな記録を始めるようにリセットした」と空井。

 僕はホッとして頷いた。僕のアリバイが成立した。「その後で犯人はマシンの電源を落とし、それから、空井さんが初めて電源を入れたのが二十三時五十三分。その時からキーロガーが始動した、ということになりますね」その日のその時間、僕は会社で残業していた。

 空井は無表情に画面を見つめていたが、気がついたようにマウスを動かし、レポート続きを読んだ。途中でスクロールを止めると、深刻な表情で考え込み、「愛か……」とつぶやいた。「この時刻の直前に、愛が来てた」

「愛さんが、ここでひとりになる時間はあったんですか? それに、記録の一部を消したりできるんですか?」僕は助け舟を出すつもりで言った。愛がそんなことをする女だとは、僕も思いたくない。

「それくらいなら、あいつもできる。それにひとりになる時間もあった」空井はきっぱりと答え、ログレポートの文字を怨めしそうに睨み続けた。

「でも、短時間じゃ無理ですよ。マシンを起動させて、それからディスクを入れて、インストール操作をして、ディスクを出す、それだけの時間となると、けっこう長くかかる。ちょっと物を取りに行った隙とか、トイレに行った時間だと、無理じゃないですか」

「いや……シャワーを使った」空井はそう言って、鼻の先まで赤くなった。

 シャワー? 僕は意味を呑み込んだ。恋人同士なのだから当然だ。頭の中に、裸で抱き合う二人の姿が浮かんだ。同時に、タクシーの中で僕の腕に押しつけられた、愛の乳房の感触がよみがえった。

「でも、まだ決めつけるのは……」僕は愛の味方になっていた。「キングはどうです? その日、キングは来なかったんですか?」

 空井は少し考えてから、思い出したように言った。「ああ、夕方頃にキングも来た。ほとんど入れ替わりで愛が来たんだ。だけどキングはずっとここで話していて、途中、オレが缶コーヒーを取りに行った時くらいしか、ひとりになる時間はなかったはずだけど」

 二人は黙った。

 ……これをどうしたものか。

「とりあえず、愛さんと話してみますか?」

 空井の顔が曇った。

「それより」と僕は続けた。「まず誰がやったかを、はっきりさせた方がいいんじゃないですか。愛さんにチャンスはあったかもしれないけど、その時間に、確かにキーロガーを入れたという証拠はないでしょう」

 空井は二、三度うなずいた。「そうだな」

 僕は後ろを振り向いた。「例えば、ビデオカメラを置いといたらどうです?」

 だが、コンピュータを写せる位置には、白い壁があるだけで、カメラを隠す場所がなかった。

「ビデオがだめなら……」キーボードに残った指紋を取ることを考えたが、現実性が無さすぎる。

「キーロガー、入れるか」空井が言った。

「え?」キーロガーはもう入っている。そのログを回収しに来る人物が、今、問題なのだ。「キーロガーを二つも入れて、どうするんです?」空井は混乱している、と僕は思った。

「裏に入れるんだよ」

「あ……」

 その瞬間に分かった。空井は混乱などしていない。今入っているキーロガーの裏で働く、別のキーロガーを入れようと言うのだ。そうすれば、犯人が次にログを回収した時に、その操作も時刻もはっきりと記録される。その時間に愛かキングか、どちらが部屋にいたかで、犯人が分かる。

 僕は、空井の発想の奇抜さに、改めて驚かされた。ひとつのマシンにキーロガーを二つも埋め込もうなどという考えが、一体どこから出てくるのだろう。

「まさか自分が入れたキーロガーのログを回収する操作を、別のキーロガーに記録されているとは、普通考えないだろう」空井は、唇の端で笑った。


(※5 現在、コンピュータにウィルスやマルウェア(悪意のあるソフトウェア)を植え付けるには、容易に隠して持ち歩けるUSBメモリが使われている。USBメモリが日本で初めて発売されたのは2000年6月。1999年にはまだ存在せず、作中でウィルスを植え付けた犯人は、CD-ROM(データを保存するCD)を使っている)

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