紙とペンと女王

雷藤和太郎

細川真理愛は歪に笑う

「ありがとう!貴方のこのスケッチは、あの忌まわしい冷泉学園高校の女王を完全に失脚させることになるわ!」

 丸眼鏡にショートヘアのその女の子は、僕の両手を包むように取って上下に何度となく振った。煌々と見開かれた目には、フクロウのように僕をジッと見据えて、これからのことに胸を躍らせているようだ。

 その証拠に、彼女はそれからすぐに僕の手を離すと、ふり返って壁際にある机に齧りついた。ノートパソコンには、既にレイアウトされた校内新聞の記事が出来上がっている。

「ねえ、画像はどのくらいの大きさがいいかしら?一面を飾るほど……とまではいかないけれど、このスケッチはとても印象的だもの、このスケッチの持つ力をできるだけ発揮させたいわね」

 クロッキー帳から取り込んだスケッチを丁寧に処理ながら、彼女は僕に相談するかのようにつぶやいた。しかしその視線はディスプレイから一切離れていない。

「あの……僕はもう帰るね」

 きっとその言葉すら彼女には届いていないだろう。ディスプレイと丸眼鏡の間で延々と続く革命へのカウントダウンの音を、彼女は聞き続けているに違いない。

 新聞部室のドアを開けて、僕は帰路へ着く。

 事の発端は、一週間前の放課後だった。


 ◇


 冷泉学院高校に一人の女王あり。

 彼女の名前は細川真理愛、二年生にして学院高校の生徒会長を務めている。

 父は文部科学省の役人、母は地域私塾の社長という、教育に強いパイプを持った家系だ。

 名前に負けない美しく清純な容姿は、見る者を惹きつけてやまない。流れるような緑の黒髪、キリリとした眉、見る者を射すくめるような瞳、スラリと長い手足に、一部の狂いもない制服の丈。立ち居振る舞いも完璧で、歩く姿は百合の花などと言う言葉があるが、彼女の場合は百合すらも頭を垂れるだろう美しさだ。

 多くの男子生徒が彼女の美しさに惚れるものの、彼女の性格はその完璧な容姿と同じように峻烈だった。恋愛感情など学業に無用とばかりに、あらゆる男子の告白をはねのけた。

 鋼の心。

 父母の経歴をそのまま引き継ぐかのように、彼女は生徒会長として辣腕を振るった。さまざまな改革を断行し、生徒はおろか先生たちにも口を挟ませない。それもそのはず、彼女の父母の逆鱗に触れることが何を意味するのか、先生たちは誰もが分かっていたのだ。

 そうして冷泉学院高校に一人の女王が誕生した。

 そんな彼女に憧れて、この僕、中山ダヴィッド定嗣は入学してきたのだ。

「とは言っても、真理愛さんと直接話す機会なんて無いんだけどな」

 夕焼けの差し込む空き教室で、僕とアキラはカンバスに向かいながら話していた。

「廃部の宣告もペラ紙一枚。廊下に掲示されておしまい。俺らに弁解の余地なんてないのさ」

「腐るなよアキラ。部活は無くなっても、絵は描けるだろう」

「ツグはそう言うけどよ、やっぱ部活動って名目は欲しいじゃん?」

 実績のない部活動など一利なし、と女王は部活の削減を断行したのだ。

「大体さ、俺らがいなくなったら美術部なんてなくなるんだし、それまで待ってたって良いだろうに」

 そこを待たないのがまた真理愛さんらしいのだが、アキラには言わないでおいた。

「はァ……こんなんじゃカンバスに向かっても何も描けねぇよ」

「それはいつもの事だろう?」

 アキラが筆を鼻の下で挟んで口を尖らせていると、ガラガラと大きな音を立てて、一人の女子が乱入してきた。

 夕焼けに染まった女子は、丸眼鏡に光を反射させていた。

「あなたたち、美術部ね」

 出し抜けに言って歩み寄り、僕らの間に立った。

「そうだけど……君は?」

「アタシは有馬琴音、新聞部よ。あなたたちと同じように、ペラ紙一枚で廃部を宣告された部活の一つの、ね」

 ペラ紙には、整った字でいくつかの部活動が名を連ねていた。彼女もそのうちの一つだと言う。もっとも、新聞部などというのは彼女一人で行っているらしく、僕ら美術部と同じように、ほとんど部活動の体は成していない。

「俺らと同じ木端部活動じゃん」

 アキラが言うと、琴音は目を尖らせて言った。

「いい?新聞部っていうのは、ああいう独裁を許さないための部活動なの。女王の権力は目に余る。先生たちもどうすることもできない。だからアタシが彼女を失脚させなきゃならないのよ」

「そんな肩に力を入れなくても良いじゃないか。彼女は決して間違ったことはしてないと僕は思うよ。美術部にしたって新聞部にしたって、遅かれ早かれ廃部になっていたんだし」

「そうじゃあないのよ!」

 語気を強める琴音が言うには、集中した権力は必ず腐敗するから、常にそれを見張る者が必要だというのだ。

 とは言え、僕には真理愛さんがそうなるとは思えない。

「それで、何で俺たちのところに来たんだ?」

 アキラが問うと、琴音は我が意を得たりとばかりに言った。

「同盟を結びましょう?」

「同盟?」

 廃部同盟を結んで彼女を失脚させるのだと言う。他の廃部を宣告された所にも同盟を持ちかけているのだそうだ。

「考えておくよ」

 どうやら、どの部からも同じ答えだったらしい。琴音はその言葉を聞くと、僕の両手を包むように取って握手をした。

「ともに頑張りましょう」

 その時、僕はちゃんと断れば良かったのだ。


 よく分からない同盟に対して曖昧に答えた放課後、僕は群青色に染まった帰り道を歩いていた。

 別に美術部が廃部になっても構わないし、僕の高校生活には何も支障はない。真理愛さんとの接点などもともとないし、きっとこれからも無いだろう。高校が同じだったというわずかな繋がりだけで満足している僕には、告白して玉砕する勇気さえない。

 電球の切れかけた街灯がチカチカと明滅する。

 その眩しさに思わず目を向けた僕は、街灯の照らす生垣の向こう側に見慣れた制服姿を見つけた。

「……真理愛さん?」

 僕は思わず腰をかがめて生垣に身を隠し、その敷地内を覗き見た。

 そこは大きめの公園で、水の止められた噴水の周りに設えらえたベンチの一つに彼女が腰かけていた。

 枯れた噴水をジッと見つめる彼女は、何かにとり憑かれたかのように身動き一つしない。人形のように、腕を垂らして座っている。

 噴水には埋め込み式のライトが備え付けてあり、それが彼女の顔を幽霊のように照らす。

 見てはいけないものを見てしまったのではないか。

 そう考える頭とは裏腹に、僕の両手はカバンの中のクロッキー帳とペンを取り出していた。

 思い返せば、通報されても仕方ない姿だったろう。

 街灯に照らされ、歩道に一人、生垣の向こうの公園内を必死にスケッチする高校生。事件性は感じられなくともあまりに不自然だ。たまたま人通りがほとんどなかっただけで、誰かに見られていたらと思うと今でもゾッとする。

 とにかく、僕はその時、周囲のことなど全く気にせず一心不乱にその真理愛さんの姿をスケッチしていた。

 時間にして、ほんの四、五分だったと思う。素描は小学生の頃から訓練してきたから、描き上がったモノを見れば大体その絵にどのくらい時間をかけたかはすぐに分かる。

 線の本数こそ少ないが、そこにいた真理愛さんの姿はそのまま写し取ることができたと思う。声もかけず、盗み見るようにして描いたそのスケッチを、僕は大切に持ち帰った。

 唯一できた接点のように思えた。

 人のいない教室で好きな女の子の縦笛を舐めるような興奮、とでも言えば良いだろうか。自分だけの秘密の繋がりに、僕は薄暗い満足感を覚えたのだった。


 翌日、そのことをアキラに話したのがまずかった。

 話した時は何でもなかったが、数日後、真理愛さんは非難の矢面に立つことになる。

 彼女の父親が、児童買春で書類送検されたのだ。

 本来ならば彼女とは何の関係もない出来事のはずだが、両親の権力を笠に強権を発動していたと見なされていた彼女だ、その一件によって校内での求心力は落ち、恨みのある者からつけ狙われるようになった。

 新聞部の有馬琴音は、そんな校内の雰囲気を味方につけるように、女王を糾弾する記事を次々書いていった。

 そんな折、僕が女王のスケッチを描いたことが彼女の耳に届いた。

「すごい……きっとこの時、女王は父親の失脚を知ったんだわ……」

 薄暗い新聞部の部室に呼ばれた僕は、ほとんど脅迫されるように彼女にクロッキー帳の一ページを見せる。

 彼女の中には女王凋落のシナリオができあがっていたようだった。僕が否定しようとしても、その耳に届きはしなかった。

「素晴らしいスケッチよ、定嗣くん!いえ、ダヴィッドくんと呼んだ方が良いかしら?」

「僕はジャック=ルイ・ダヴィッドじゃあない。そんな風に言うのなら、そのスケッチは返してほしいんだけど」

「何を言っているの。廃部同盟の仲でしょう?ほら」

 そう言って彼女が取り出した一枚の紙。

 証書のようなものに、それぞれの部活の名が円く連座してある。反権力を貫く同盟を証明するその用紙には、確かにペンで美術部の文字が書かれていた。

「……アキラのヤツ」

「言いたくはないけれど、もし提出を断れば……分かるわよね」

 廃部を免れようとしたアキラは僕に内緒で同盟を結んだのだ。提出を断れば、真理愛さんを描いた僕の行為は下衆なそれとして明るみに出る。

 全ては後の祭りだ。

 こうして僕は有馬琴音にクロッキー帳を渡し、僕のスケッチが載った校内新聞は、父親の失脚に失望する失意の生徒会長の姿として、学校内でしばらく話題になった。


 ◇


 それからさらに一週間後、全校集会で細川真理愛さんは生徒会長を辞した。

 体育館のステージ上で淡々とその理由を語る彼女の言葉をまともに聞く者はほとんどおらず、白けた空気が漂っている。

 全てを語り終えた真理愛さんは、ステージから階段も使わずに降りた。ふわりとスカートをはためかせ、ツカツカと僕に向かって歩み寄る。

「あなたが、ダヴィッドくんね」

 真理愛さんは、大きく目を見開き、歯を見せて歪に笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紙とペンと女王 雷藤和太郎 @lay_do69

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ