IF:幸せのカタチ

 朝起きたてから一番最初に顔を合わせる相手は、一人暮らしでもない限り家族だろう。未だ学生であり実家から通学している僕もその例に漏れず、リビングで真っ先に僕を出迎えたのはテーブルについて朝食を食べながら新聞を広げている父さんだった。


「おはよう智樹。今日はオフなのか?」

「おはよ。父さんこそ休み?」

「昨日投げたばかりだからな。歳には勝てんから休みをもらった。ほら、見てみろ。昨日の父さんの活躍が新聞一面を飾ってるぞ」


 プロ野球選手である父さんがこうして朝から家にいるのはとても珍しい。昨日試合で先発登板していたのは勿論テレビで観ていたけれど、もうベテランといってもいい歳の父さんが完封試合を見せたとなればそりゃ新聞の一面を飾るだろう。

 まるで子供みたいに自慢してくる実の父親は、マウンドの上で圧倒的な存在感を放つスター選手とかけ離れたものだ。


「どうだ、凄いだろ?」

「あーうん。凄い凄い」

「ところで智樹、今日は久しぶりにキャッチボールでもどうだ?」

「いや、悪いけど今日は」

「今日はダメよねー。桜ちゃんがうちに来るんだから」


 僕の言葉を継いだのは、台所から出てきた母さんだ。どこか含みのある笑みを浮かべながら、僕の分の朝食をテーブルに並べてくれる。さすがにため息が溢れてしまった。僕とあの子はそういう仲じゃないと何度説明すれば分かってくれるのだろうか。


「そういうことだから、悪いけどキャッチボールは無理かな。出来れば父さんには外に出といて欲しいんだけど」

「父さんも桜ちゃんに会いたいぞ。なんたって未来の家族なんだからな!」

「頼むから白雪の前でそんなこと言わないでくれよ……」


 機嫌を損ねることはないだろうけど、ここぞとばかりにからかってくる未来が容易に想像できる。


「そもそも、智樹は消極的すぎるな。しかも歳の割には女の子に興味がないときた。父さんが学生時代の頃なんかそりゃもう沢山女の子を侍らせてたってのに」

「お父さん?」

「もちろん今は母さん一筋だけどな!」

「やだもうあなたったら……」

「痛い、母さん痛い。お盆で肩叩かないで大事な商売道具だから」


 手に持っていたお盆でペシペシというかガンガンと父さんの肩を叩く母さんは、ポッと頬を赤らめている。恥じらいながらするような動作じゃないぞそれ。てか夫婦漫才を息子の前で披露するなよ。反応に困る。


「僕は父さんほどチャラいわけじゃないからね。日本男児として恥ずかしいことはしたくないんだよ」

「父さんが恥ずかしいことしてたみたいな言い方だぞ?」

「まさしくその通り。よく分かっていらっしゃるさすがはお父様」

「母さん! 智樹が反抗期だ!」

「はいはい。どうでもいいから早くご飯食べてちょうだい」


 母さんからも素気無くあしらわれて若干涙目のスーパースター。父さんのファンの子供が見たら何を思うんだろうか。

 けれど、僕からしたらこんな父さんの方が馴染み深い。僕にとってはスター選手の夏目祐樹ではなく、二人といない大事な父親なのだから。母さんにしたってそうだ。僕が生まれてから仕事はやめたけど、昔はそれなりに有名なアナウンサーで、美人ゆえに色んな番組で引っ張りだこだったらしい。でも僕にとって母さんは母さんで。この二人がいない人生なんて考えられない。

 父さんに野球を教えてもらって、母さんが家で温かいご飯を作ってくれていて。それが僕の家族で、僕の日常だ。


「俺、今日は家から一歩も出ないからな。スターだって若い女の子との交流に飢えてるんだ。潤いが欲しいんだよ、潤いが」

「お父さん?」

「ごめん嘘母さんも十分若いからな!」


 ……うん、これもまあ、ありふれた日常だ。







 結局朝食を食べ終えた後も家に居座った父さんは、引き続き母さんと夫婦漫才を楽しんでいる。それを鑑賞する義理もないので早々に部屋へ引きこもった僕は、床に座ってベッドにもたれかかりグローブの手入れに勤しんでいた。

 僕の高校は野球の強豪校といえど、オフの日くらい普通にある。ていうか、強いチームほどその辺りのスケジュール管理はしっかりされているんじゃないだろうか。365日ずっと練習だなんて絶対オーバーワークで故障してしまうし、適度な休みを挟んだ方が効率もいい。毎日頑張りますなんて根性論、今じゃ全く流行らない。そんな貴重なオフの日にまでグローブを触っているのは、我ながらどうかと思うのだけれど。

 日頃酷使しているグローブを労わるように丁寧に手入れをしていると、ピンポーンと家のチャイムが鳴った。遅れて、母さんが玄関へ向かう足音も聞こえる。それに構わずグローブを磨いていれば、突然ノックもなしに部屋が開かれた。


「ちょっと。せっかく来たんだから出迎えくらいしたらどうなの?」

「君はノックくらいしたらどうなんだ」


 顔を上げれば、そこにはムッとした表情の白いワンピースを着た美少女が。いつ見てもため息が出るほどの可愛さだ。高校では一体何人の男から告白されていることだろう。彼女と同じ高校に通う我が親友の話を聞く限り、二桁をマークしてるとのことだけれど。


「おはよう白雪。なんだかんだで久しぶりだな。二週間ぶりくらいか? 元気そうでよかったよ」

「おはよう夏目。そういうあなたこそ、相変わらずの野球バカっぷりで安心したわ」


 棘の混じった言葉とは裏腹に、柔らかな微笑を携えて部屋の中に入ってくる美少女の名は白雪桜。

 出会ってからもう二年は経つけれど、その笑顔には未だに見惚れてしまう。それを悟られたくなくて、すぐに手元のグローブへと視線を戻した。


「休みの日くらいは他のことしたらいいのに。わざわざ律儀なのね」

「日課みたいなものだよ。今更やめられるようなものでもない」


 無遠慮にベッドへダイブして寝転んだ白雪が、僕の肩口から顔を覗かせた。特に面白いことはないのに、白雪は機嫌良さそうに笑顔を浮かべながらグローブの手入れを眺める。

 やがてひと段落ついたところで、部屋の扉がノックされた。それに軽く応えると、扉を開いたのは母さんだった。


「お茶とお菓子持って来たわよー」

「ありがと。てか普段はノックしないのに、白雪がいる時だけはちゃんとするんだね」

「そりゃだって、お取り込み中だったら悪いじゃない?」


 クスクスと笑う母さんが机の上に白雪の好きなカフェオレと僕のブラックコーヒー、それから母さんが作ったクッキーを置いてくれる。お取り込み中ってなんだよ。

 ごゆっくりーとだけ言って部屋から出る母さん。ため息を我慢せずとも吐き出せば、耳元からも笑い声が聞こえて来た。息が耳にかかって擽ったい。


「ふふっ、おばさんも相変わらずね」

「相変わらず過ぎて困ってる」

「距離が近すぎるから邪推されるのかしら?」

「とは言っても、これくらいが当たり前になったからなぁ」


 僕の肩に顎を乗せる白雪。グローブを横に置いてその頭を撫でてやれば猫のように目を細め、後ろから僕の体に手を回して軽く抱きついてきた。


「私にここまでされてなんとも思わないのは夏目くらいのものよ。この前、三枝からも似たようなことを言われたわ」

「あのバカの言うことは放っておいていいぜ?」


 机の上のクッキーを一枚取って白雪の口元に運ぶと、パクリと一口で食べてしまう。本当に猫に餌付けしてる気分だ。

 これでどうして付き合ってないんだ、とかは親友なり親なり後輩なりから何度も言われて来たけれど。特に明確な答えを僕たち自身持っているわけでもない。気がついたら、この距離感が当たり前になっていた。

 出会った頃はもちろんこんなんじゃなかったけれど、時間が経ってこの子と仲良くなるにつれて、自然と。

 もしかしたら、どこか兄妹のように思っているのかもしれない。樋山と小泉のような幼馴染とはちょっと違う、けれど似たような感覚。うまく言葉に出来ないのがもどかしい。

 でも、僕たちの関係性を無理に言語化する必要もないだろう。一応今の所は友人ということになるのだろうし。


「そういえば、昨日おじさんの試合だったからテレビで観てたけど、相変わらず凄いわね。お父さんなんて感動してたわよ」

「そうだろうそうだろう。なんせ僕の父さんは凄いからな」

「それを本人に言ってあげなさいよ」

「思春期特有のあれやこれやってのがあるだろう。直接言うのは恥ずかしいんだよ」


 肩を竦めてみせれば、白雪がまたクスリと一つ笑みをこぼす。この子は僕が父さんを心の底から尊敬してるのを知っているから、こんな僕がどこか微笑ましく見えてしまうんだろう。ともすれば、姉のような目線で。

 軽い抱擁を解いた白雪はベッドから起き上がり、僕の隣に腰を下ろす。


「その父さんが言ってたぜ。たまには若い女の子とお話がしたいってな」

「非常に申し訳ないんだけど、ご遠慮願うわね。やっぱりちょっと気後れしちゃうもの」

「まあ、それもそうか」

「こっちも、小梅がまた会いたいって言ってたわよ」

「それは是非。次の休みの日にでも君の家にでも行こうか?」

「小梅の休みと被ればいいんだけど」


 白雪の妹である小梅ちゃんも、中学陸上の有名な選手だ。故に毎日練習に精を出している。陸上だけでなく、ありとあらゆる分野で完璧に近い成果を出す小梅ちゃん。そんな妹にコンプレックスを抱いていた白雪だったけど、最近ではそんな様子を全く見せない。

 まあ、どの道そのうちまた家族ぐるみでご飯に行ったりするのだから、そう慌てて予定を組む必要もないのだけれど。


「でも、小梅も最近うるさいのよね」

「なにが?」

「あなたと本当になにもないのかって」

「本当になにもないんだけどなぁ……」


 いやはや、どうして僕らの周りはみんなしてそっち方面の話に持って行きたがるのか。そりゃたしかに年頃の男女が休日からこんな風に過ごしていれば、邪推してしまうのも仕方ないのかもしれないけれど。何度もなにもないと説明しているはずなのに。

 いや、それなら逆に。発想を転換してみて。


「ならいっそ、本当に付き合っちゃうか?」


 冗談交じりの苦笑気味に呟いた言葉。全く微塵もそんなつもりがなくて発したわけではなかったのだけれど、それでも冗談の範疇を出ないそれを聞いた白雪は。

 大きな目を見開いて、珍しく面食らっているようだった。

 もしかして言葉のチョイスを間違えたかと不安になったものの、しかし次の瞬間にはその顔に笑みが浮かんでいて。

 ああ、どうしてだろう。その笑顔が、今まで見てきたどれとも全く違うように見えたのは。この世の何より美しくて、綺麗で。

 愛おしく思えてしまったのは。


「魅力的な提案だけど、却下ね。だって、今以上に甘えてしまいそうだもの」

「残念、振られたか」


 胸の内に沸き起こった言いようのない感情に蓋をするために、無理矢理皮肉げな笑みを浮かべた。


「てか、今でも十分甘えられてる気がするんだけど」

「将来的には養ってもらうつもりだからよろしくね。プロ野球選手の妻だなんて一生働かなくて良さそうだもの」

「君まで父さんと似たようなことを……僕の母さんは毎日家事という名の仕事をしてるけどね」

「やー、働きたくないー」

「国民の三大義務って知ってるか?」


 白雪と結婚なんてことになれば父さんが大いに喜びそうだけど、こんな怠惰が服着て歩いてるような相手が妻では大変そうだ。

 僕も白雪もお互いに冗談だと分かっての会話。本気でそう思っているわけでもない。いつかは白雪だってどこかの誰かと恋をしたりするんだろう。それは僕も同じ。

 でも、どうしてか白雪以外の女の子の顔は思い浮かばなくて。

 僕以外の男と白雪が笑いあっている光景は、想像するとちょっとだけムカついた。


「よし、ちょっと買い物にでも行こうぜ。父さんもいることだし、車出してもらってさ」

「別にいいけど、どうしたのよ突然」

「ずっと家に篭ってるのも勿体無いだろう? せっかくの休日なんだからさ」


 立ち上がり、手を差し伸べる。僕の手を取った白雪の手は、とても小さくて、マメだらけの僕の手と比べ物にならないくらい柔らかくて。たしかに、女の子の手だった。


「夏物の服を買いたいんだよね。見繕ってくれよ」

「はいはい、分かったわ。私のセンスに恐れおののきなさい」

「期待してるぜ」


 そうと決まれば、早速父さんに声をかけよう。母さんも一緒に行くと言うだろうから、そうなったら白雪が着せ替え人形にされるかもしれない。

 そんな未来を想像して、クスリと笑みをこぼした。

 これが僕の日常。父さんがいて、母さんがいて、白雪がいて。ありふれた、けれどかけがえのない幸せのカタチだ。

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