二年目六月 傷痕(3)

 忙しなく過ぎ去っていく時間。日々の練習も文化祭も気づけば全て終わっていて、ついにこの日がやって来た。

 六月末の土曜日。ついに大会本番である。

 今日までこなして来た地獄のような練習の日々を思い返してみれば、マジで血反吐を吐く勢いで地獄を見たのだけれど。お陰様で絶好調。全盛期を超えることが出来ている自覚がある。小泉が本気で組んだ練習メニューは二度とやりたくない。

 会場はお馴染みの蘆屋記念球場。二回戦はまた別の球場らしいけれど、家からも学校からも近い場所でよかった。心の準備というものをする時間が存分に取れるから。

 その記念球場の第三試合が僕たちの出番だ。今は第二試合をしている最中。球場の外で待機しているのだけれど。


「ともくんこっち! こっち見て! カメラ目線頂戴! もういっぱい撮っちゃうから! ほらポーズもつけて!」


 キャーキャー騒ぎながらカメラを構える妙齢の女性が一人。周囲にいるチームメイトや歩行者達は、奇異の視線を向けている。心の底から認めたくないけど、こんなのでも僕の叔母だ。

 僕はなにも教えていないどころか、ここ最近は連絡すら取っていなかったのに。母さんの妹、叔母の天城沙織は当然のような顔でこの場に現れた。以前桜を紹介した時振りだから、大体五ヶ月振りくらいか。


「なんでいるんだよ……」

「私が呼んだのよ」


 叔母の後ろからヒョコッと顔を出したのは、制服姿の我が恋人。その頭には小泉から渡されたらしい野球部の帽子が乗せられている。可愛い。

 桜はカメラのシャッターを切り続ける叔母を止めることもなく、ユニフォーム姿の僕をマジマジと眺めて一言呟いた。


「なんだか懐かしいわね」

「練習着とは言え、ユニフォーム姿なんていつも見てただろう。それに、蘆屋高校のユニフォームを着るのは初めてだぜ?」

「そっちじゃなくて。背中の番号よ」


 桜の立っている位置からでは、僕の背番号は見えないはずだけど。まあ、細かいことは置いておこう。

 僕が渡された背番号は1だ。エースをエースたらしめる象徴のような数字。これを渡された時はさすがに断ろうと一瞬思ったのだけれど、本来この番号をつけるはずだった新井から直接渡されてしまったら、ノーと言えるわけもなかった。

 そんなエースナンバーをつけた僕を桜が見るのは、これが何年振りの話になるだろう。当時は彼女が僕のことを一方的に知っていただけとは言え、たしかに僕と彼女の始まりであることに違いない。


「ていうか、それの連絡先知ってたのか」

「それって……あなた、仮にも叔母相手にその呼び方はどうなのよ」

「いつも通りだから気にしないでくれ」

「昔みたいにお姉ちゃんって呼んでくれてもいいんだよともくん!」

「誰がこんな公衆の面前で呼ぶか!」


 そんなことしてしまえば羞恥心で試合どころではなくなってしまう。もう高校三年生にもなったというのに、お姉ちゃん呼びはないだろう。そもそもお姉ちゃんって歳でもないし、この人。

 咳払いを一つして気を取りなす。


「それで? 桜はなんで沙織姉さんの連絡先知ってたんだ?」

「別に連絡先を知ってたわけじゃないわ。ちょっとお母さんの伝手を辿らせてもらったら、あっという間にコンタクトを取ることができただけよ」

「ああ、そういう……」


 桜の母親、白雪楓さんは作家先生だ。写真家である叔母と知り合い、もしくは出版社経由で関係があったとしてもおかしな話ではない。


「だとしても、一言くらい僕に教えてくれてもいいだろう」

「言ったらあなた、絶対嫌な顔するでしょ」

「まあそうだね」


 だってこうなることが予想できるし。あらゆる角度から僕の写真を撮っていた叔母はようやく満足したのか、ムフーッと息を吐いてカメラを下ろした。撮られる方も疲れるってのをこの人は知らないのか。

 しかし、写真を撮るだけなら別にこの人に限った話ではない。高校生活最後の大会。その雄姿を収めようと、やって来た保護者の皆さまがたは我が子のユニフォーム姿をスマホなりデジカメなりで撮影している。

 さすがに叔母のような本格的なカメラを持参している人はいなかったけれど。


「さて、ともくん」

「ん?」

「今、どんな気持ち? 緊張してる?」


 先程までの興奮しきった様子などカケラも見せず、尋ねてきたその声音は至って真剣。

 こんなのでも、この人は僕の保護者代わりなのだ。一番つらい時にそばに居てくれて、僕のことを支えてくれた。

 僕が再びマウンドに上がる決心をした理由を、沙織姉さんはある程度察してくれているのかもしれない。


「緊張なんてするに決まってるだろう。昔からいつもそうだよ」


 試合の度に心臓が煩く高鳴って、意味もないのに何度も何度も道具の手入れをして。昔はずっとそうだった。

 今だって緊張している。中学の時の比じゃないほどに。

 僕はあくまでも助っ人だ。期間限定キャラでしかない。そんな僕の一球一球が、これまで二年半を賭けて試合に臨むみんなの期待を背負う。

 けれどそれらは、決して重荷にならない。


「緊張してても、恥ずかしいピッチングはできないからね。父さんにどやされちゃうし。なにより、桜が見てる」


 視線を向ければ穏やかな微笑が返ってくる。

 この子はいつでも、僕のことを見てくれていた。僕がどれだけ情けない姿を晒しても、それでもずっと。他の誰よりも一番近い場所で。

 今までだけじゃなくて、これからもそこにいて欲しいから。見ていて欲しいから。でも、どうせなら少しでもカッコいいところを見せたい。僕が頑張る理由なんてそれだけだ。


「夏目! そろそろ時間だぞ!」

「ああ、すぐ行く!」


 先週足のギプスを外せたキャプテンの新井に呼ばれた。それに返事をして、二人に向き直る。

 沙織姉さんは僕の保護者代わりで、母親の代わりを務めようと頑張ってくれた。

 桜を始めとした白雪家の人達は、僕のことを本当の息子や兄のように接してくれた。

 そんな家族に、もうこれ以上情けない姿は見せられない。


「それじゃあ、行ってくる」

「ええ、行ってらっしゃい」

「頑張ってね!」


 二人に背を向け、チームメイトと共に球場へ入る。前の試合もそろそろ終盤のようで、応援に駆けつけた人達の盛り上がりは最高潮となっていた。

 そういえば、三枝と神楽坂先輩も観に来るとか行ってたか。小梅ちゃんも家族を連れて来ると言ってたし、井坂を始めとしたクラスメイトも何人か。


「なあ樋山。僕たちの相手って強いんだよな?」

「そうですね。甲子園優勝候補らしいですよ」


 隣に立つ相方に声をかければ、言葉とは裏腹に全く気負った様子のない返事が。頼もしい限りだ。

 今日の対戦相手は徳峰学園。甲子園常連校である上に、優勝も何度かしている。県内でもっとも強いチームと言っても過言ではない。


「僕の復帰戦に相応しい相手だな」


 不敵に笑って言えば、緊張していたチームメイトから笑い声が漏れる。張り詰めていた空気が弛緩した。

 高校最後の大会に、優勝候補が相手。これまで彼らが経験したどの試合より緊張するのが普通だろう。


「油断しないでくださいよ、夏目先輩。いくら先輩でも、何失点するか分からないですからね」

「おいおい小泉、寝言は寝て言うもんだぜ? 僕と樋山が組んで何失点もすると思うか? むしろ一塁すら踏ませてやらないよ」

「その自信はどこから来るんですか……まあ、そこまで口が回るなら心配はいらなさそうですね」

「当然だ」

「じゃあ智樹さん。基本のリードは昔と同じでいいですね?」

「勿論」


 どうやら試合が終わったらしい。いよいよ本当に僕たちの出番。ここから先は後に引けない。ただ前に進むのみ。

 今までのこと、全てを受け入れ、抱えて、そして進む。彼女が見てくれている限り、どこまでも。


「全員力で捩じ伏せるだけだ」






 三十度を越す炎天下の中始まった、蘆屋高校対徳峰学園の試合。

 プロも注目する選手を何人も擁する優勝候補と、四番の樋山修二以外に気をつけるべき選手もいない無名の高校。試合が始まる前から、その結果は明らかだっただろう。

 私たち以外にとっては。

 九回の裏、徳峰学園の攻撃が終わった球場内は、異様な雰囲気に包まれていた。

 県内どころか全国でも屈指の攻撃力を持つ徳峰学園が、得点どころかヒットの一つもないのだ。相手チームのベンチや観客席はおろか、その実力を目の当たりにした蘆屋高校側の観客席も皆一様に驚いている。それは私も同じく。


「まあ、過去のデータがなにもない投手がいきなり出てきたと思ったら、ここまでノーヒットノーランなんだから、この反応も当然だよねー」

「それでも、ここまで打てないものなんですか……」


 隣に座った天城さんが軽い調子で言うが、相手バッターはヒットどころかまともにバットを当てることすら出来ていない。

 当たったとしても完全にボールの勢いに負けてしまい、ファールボールか内野ゴロ。これまで奪った三振は十を超え、投球数はやっと百を超えたところ。

 それほどまでに、ピッチャー夏目智樹の実力は圧倒的だった。

 150キロを超える暴力的な豪速球に、生き物のように曲がる変化球。これまで何度も彼の投球を見てきたけど、そのどれよりも鋭い眼差しはそこに立っているだけで相手バッターが萎縮してしまうほど。


「何回か見てる桜ちゃんなら分かると思うけど、とまくんのスタイルは基本的に力で捩じ伏せることなんだよね。圧倒的なピッチングを見せて相手の気力を削ぐ。おまけにタチが悪いのが、本人が自分の実力を正確に評価してること。しかも相手が強ければ強いほど、本来の実力以上の投球をするし、ともくんのそのスタイルは相手が自分の強さに自信を持っているほどに効果を発揮する」

「性格の悪さが滲み出てますね」


 要は、相手のプライドを徹底的に折ろうというのだ。これまでの練習で積み上げてきた自信と実力を、それ以上のもので叩き折る。

 なるほど、それはたしかに夏目智樹らしい。


「それでも、今日は特別調子いいみたいだけどね。あとは一点でも取れたら、勝ち決定なんだけどなぁ」


 さすが優勝候補というだけあって、相手ピッチャーもそれなりのものだ。ヒットは許しているもののフォアボールはなく、ここまで無失点で抑えている。贔屓目を抜きにしても智樹の方がピッチャーとして優秀だが、決してレベルが低いわけではない。

 そんなピッチャーを相手に始まった延長戦十回表の攻撃は七番の下位打線から。九番の智樹まで打順が回ったけど、見事に三者凡退で終わってしまった。

 智樹はバッティングもそれなりに上手かったはずだけど、どうやらピッチングに対して練習量が足りなかったらしい。面白いくらい振り遅れていた。


「問題はここからだね」

「でも、今の智樹なら大丈夫じゃないんですか?」


 十回の裏。一点でも取られたらサヨナラ負けではあるけど、前の回までの智樹の投球を見る限り、いくら二番からの好打順とは言え今の相手チームが点を取れるとは思えない。

 勝負に絶対はないとは言え、そこまで心配する必要もないと思うのだが。私よりも多く智樹の試合を見てきたであろう天城さんが言うのであれば、なにかあるのだろう。


「違うよ桜ちゃん。智樹くんに問題があるというよりも、相手のバッターがちょっとやばいかもしれないの」


 私の疑問に答えたのは、ベンチに入らず私の隣で応援しているマネージャーの理世だった。手元にはスコア表があり、一球ずつそこに記入している。覗き込んでもみても読み方は分からない。たしか、ベンチで綾子も同じものを書いてるらしいけど。なんで二つも書いてるのかしら。

 だが理世がそれを見て顔をしかめているということは。


「相手の四番バッター。多分徐々に智樹くんのボールに慣れてきてるんだよね。このバッターに対してだけ投球数が多い」


 グラウンドに視線を戻せば、マウンドに立った智樹が先頭打者を初球で外野フライに打ち取ったところだった。

 これまで外野には一度も打球が飛んで行かなかったのに。四番だけじゃない。相手はみんな、智樹の球に慣れてきている。恐らく智樹のスタミナの問題もあるだろうけど。

 完全に捉えられるのも、時間の問題だ。

 祈るように見つめる先。マウンドの上で深呼吸をしている智樹は、私以上に状況を把握しているはずなのに。それでも、その瞳に宿った輝きは微塵も霞んでいない。

 いつか私が恋した夏目智樹が、そこに立っている。

 その目の輝きに心を奪われた。その輝きの源泉を知りたいと、触れてみたいと思った。なのに気がつけば、私自身がそうなっていて。

 膝の上で握る拳に自然と力が入る。黒い土の上を駆ける白球は私の目では到底追えず、相手のバットを三度空振らせた。


「次が勝負所だね」


 カメラを構えた天城さんの声にも、若干の緊張が滲んでいる。ペンを握る理世から息を飲む気配がした。

 打席に立つのは徳峰学園四番。智樹から多くの球数を稼ぎ、しかしこれまでの三打席全て三振に終わっている打者。強豪校の四番だけあって、威圧感もかなりのものだ。グラウンドに立つ選手達はそれを如実に感じているだろう。そしてなにより、打てるという自信に溢れていた。これまでの三打席で智樹のボールに慣れているという事実と、四番を背負って立つ覚悟。

 しかしそんな相手を前にしても、智樹が浮かべているのは笑顔だ。

 この瞬間を全力で楽しんでいる。強者と渡り合う高揚感を隠そうともしない。一点でも取られたら終わりだというプレッシャーなんて、彼にとってはこの状況をより楽しむスパイスにしかならないのだ。

 構えた智樹が、小さく息を吸って、吐いた。

 彼の性格をよく知るものなら分かる。投げるボールはストレート一択。小細工など使わずに、ただ全力の直球を持って相手を叩き伏せる。それが夏目智樹だ。


 振りかぶって投げた初球。渾身のストレート。しかし力強いスイングはたしかにそのボールを捉え。

 大きく鳴り響いた金属音と共にレフトスタンドへと消えていった。










 あの瞬間感じていた高揚感を、一日経った今でも思い出す。打たれるかもしれないという恐怖と、そんな相手と対戦できる喜び。自分の限界以上を引き出せるその環境に、それを受け止めてくれる最高の相棒がいて。

 けれど、今までの人生で一番だと思える投球は無情にも、サヨナラホームランという結果に終わってしまった。

 やばい思い出したらちょっと泣きそうになってきた。


「いつまでクヨクヨしてるの」

「だって、せっかくノーヒットノーランだったんだぜ? それがたった一本のホームランで全部パーになるなんてさ……」


 優勝候補が最後のホームランを除いて完封されたという、ある種異常な勝ち方はネットに取り上げられ、今日の新聞でも小さな記事ができていた。

 そうなれば僕が一体どこの誰なのかという話になり、両親のことに気づかれるのは時間の問題だった。

 悲劇の死を遂げた元野球選手、夏目祐樹の子供。当時もそんな風にして注目されたものだ。今となっては懐かしい話だけど。


「相手の方があなたよりも上だった。それだけの話でしょ」


 辛辣な言葉を投げてくる桜は、昨日試合が終わった後うちに来てそのまま泊まっている。晩御飯はいつも作るものより数倍豪華になっていたし、ちょっと引いてしまうくらいに労ってくれた。具体的にどんな感じでかは言わないけど。言えないけど。

 しかし、そんな言葉を投げていても、その声音は至極穏やかなものだ。


「それに、たしかに負けてしまったけど、私はちゃんと見てたわ」

「あんまりカッコいいとは言えないけどね」

「カッコよかったわよ」


 ソファの隣でピッタリとくっ付いてくる桜の顔には、柔らかな微笑が。落ち込んでいる僕とは違って、随分と満足げだ。


「結果よりも過程が大事だなんて綺麗事かもしれないけど。でも、私はずっと見てたもの。あなたが頑張る姿を、あなたの近くで」


 平日は僕の代わりに生徒会を回してくれていたから、桜が僕の練習風景を見ていたのは空いた時間と休日のみ。

 だから決して、物理的な距離の話をしているわけではない。それでも彼女は、いつだって僕に寄り添ってくれていた。僕のことを見てくれていた。

 だから僕は、この傷を抱えたままで前に進むことが出来たんだ。


「私は、綾子や理世みたいにマネージャーの真似事が出来るわけじゃなかった。小梅みたいに色んなことを知っていて、その知識を実践できるだけの力もなかった」

「それは」

「分かってる。これは、あの頃と同じ考え。去年の夏休みから、全く変わらなかったバカな私のバカな思考。でも今は違う。私もね、あの頃のことを全部抱えて、前に進むことが出来たのよ」


 僕だけじゃなかった。過去に固執して振り回され、前に進むことが出来ていなかったのは。

 桜もまた、小梅ちゃんへのコンプレックスを完全に払拭できたわけではなかったのだ。でもどうやら、僕の知らないところで解決を見せていたらしい。


「あなたを、誰よりも近い場所で見続ける。それは私にしか出来ないことで、私に許された私だけの特権」

「こんな男を見続けて、その結果はどうだったんだ?」

「さっきも言ったでしょう。ちゃんとカッコよかったわよ。全世界に自慢したいくらい」

「それはやめてくれ」


 二人顔を見合わせて笑い合い、小さな口づけを落とす。

 桜が僕を見続けてくれているから、僕も前に進めるんだ。

 いつか時間が過ぎて、この傷が癒えるかもしれない。少しの痛みを伴う思い出に風化してしまう日が来るかもしれない。

 それでもいいと思える。そんな日が来た時は、進んで来た道のりを振り返ってみよう。

 隣にいてくれるであろうこの子と一緒に。


「それはそれとして負けたのは悔しいんだよね。次やったら絶対勝てるのに」

「負け犬の遠吠えは無様よ。敗者は敗者らしく黙って地面に這いつくばってなさい」

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