二年目五月 傷痕(2)

 浅木の墓地からそのまま学校に向かい練習に参加することとなったのだけれど。

 練習を開始するよりも前に、部員みんなの前で話しておくことにした。


「今回限り。最初で最後になるけど、試合に出ることにするよ」

「本当ですか⁉︎」


 安堵のため息を漏らすものも歓喜の声を上げるものもいたが、中でも小泉の反応が最も顕著というか、若干大げさだった。まあ、この子はずっと僕に戻って来てほしかったみたいだから、その喜びもひとしおだろう。

 ただし、と続けた言葉に、場が静まり返る。


「僕が投げるからと言って、必ず勝てるわけじゃないってのは理解しててくれ。もちろん本気で取り組むけど、結果は分からない」

「夏目先輩と修二が組むんだから負けるわけないじゃないですか!」

「君のその自信はどこから来るんだよ」


 いつになくテンションの高い小泉は、小さな体が今にも飛び跳ねそうだ。

 だが、小泉のその言葉を否定する気もない。必ず勝てるとは限らないけれど、僕と樋山がバッテリーを組めば勝てない相手なんていないと、そう本気で思うくらいの心意気でいないといけないから。

 月並みな言葉を用いれば、気持ちで負けてはいけない、というやつだ。


「ああ、それから。桜もマネージャーの手伝いに加わることになったから」

「それはいらないんですけど」

「綾子? 今なにか言ったかしら?」


 僕の後ろに控えている桜は、一度家に戻って制服から学校指定のジャージに着替えていた。僕が本格的に野球部へと参加する以上、それをサポートするために自分も、ということらしい。

 理世とは先日和解じみたことをしたけれど、小泉とは未だに売り言葉に買い言葉でよく言い争っている。これを機に、もうちょっと仲良くなってくれればいいのだけど。


「夏目。本当に良かったのか?」


 やいのやいのと口喧嘩を始めた桜と小泉を尻目に、キャプテンの新井が主語のはっきりしない質問を投げて来た。その足には痛々しいギプスが嵌められている。


「いいもなにも、君たちが頼んできたんだろう」

「いや、たしかにそうだけどな……」


 新井も中学時代から野球をしているだけあって、昔の僕を知っている。もちろん僕の両親のことも。

 だから彼が心配してくれる理由も理解できるつもりだ。おまけに新井は、他の誰でもない自分の怪我のせいで僕を表舞台に引っ張り上げたことに、なにか思うところがあるのかもしれない。


「これでも一応、君の気持ちは分かるつもりだよ」

「……そうか。いや、そうだな。お前の場合、俺なんかよりもっと酷かっただろうし」


 たしかに酷かった。諦めずに僕を頼ってきた新井と違って、僕はきっぱりと諦めた、つもりでいたのだから。

 でも、拾い直すと決めたのだ。諦めたつもりで、それでも諦めきれずに、捨てたはずのなにかを。


「さて、それじゃ練習を始めようぜ。夢はでっかく甲子園優勝。少し遅い気もするけど、まずは今からその一歩目を踏み出そう」


 僕の野球人生、その二度目のスタートだ。






 生徒会長である夏目智樹が野球部に入部した。その噂が校内に広まるのにさほど時間を有さなかった。

 学校という閉鎖されたコミュニティの中では些細な噂ですら広まるのが早い。それは学生にとって最大の娯楽であり、勉学などよりも興味の惹かれるものであるから当然だ。

 智樹は実際に入部したわけではないのだけど、まあその辺りはいい。所詮は噂。それを餌に群れる有象無象どもは、噂の真偽など二の次なのだから。

 問題はそこではなくて。

 いえ、完全に忘れていた私にも責任はあるのだけど。でもまさか、こんなことになるだなんて思っていなかったじゃない? 本格的に野球部へと参加することになった智樹に、マネージャーの手伝いをすることになった私。そして元から野球部にマネージャーとして所属している理世。

 まさか、生徒会から三人も出るだなんて、全くもって想像していなかったわけで。


「本当にごめんなさい……」

「いや、もういいですって。副会長がそんなに謝ってると逆に怖いです」


 放課後の生徒会室に、二年で書記に抜擢された稲葉疾風と二人。山ほど溜まっている書類を片付ける副会長がここに。ていうか私だった。

 兼ねてより生徒会の議題に挙がっていた、文化祭の日程について。六月の末は運動部の最後の大会があるから、もう少し日付をずらせないかと会長である智樹が画策していて、結果見事にその案は職員会議で通ったのだけど。まさかその会長本人が出払ってしまうだなんて、思ってもみなかった。


「会長が自由奔放なことは、すでに百も承知ですし。あの人の尻拭いはもう慣れちゃいましたよ」

「それ、慣れるようなものじゃないわよ」


 智樹が野球部の大会に向けて練習を始めてから、すでに二週間が経過していた。

 私たちのクラスは文化祭で焼きそばの屋台をすることになっているから、去年のように放課後に束縛されることはない。文化祭の運営自体も、実行委員を設立しているので大丈夫だろう。私か稲葉のどちらかが定期的に顔を出すようにはしているが、今のところ目立った問題は見当たらない。まあ、実行委員を取り仕切ってるのが翔子だから、よほどのことがない限りは大丈夫だと思うけど。


「副会長は野球部の方に行かなくていいんですか? ここ最近、毎日生徒会室きてますけど」

「これが、意外とできることが少ないのよね。そもそもマネージャーだけでも五、六人いるんだし、私がいたところで大して変わらないのよ」


 去年の夏休みのような個人練習とは違い、今回はチームで練習をしている。そうなると、私の出来ることなんてたかが知れていた。

 練習メニューを組むのは綾子が一手に引き受けているし、備品や部費は理世が几帳面なほど丁寧に管理している。そのほかのマネージャーも決して無能というわけではなく、マネージャー初心者の私が出る幕なんてなかったのだ。

 だからこうして生徒会に来ている。会長と会計の仕事を代わりに引き受け、少しでもあの二人の心配を減らすために。

 今はこんなことしか出来ない。そう思うと、胸の奥に僅かな痛みを覚える。

 もしも私じゃなかったら、もっと上手く智樹をサポート出来ていたかもしれない。それこそ、小梅だったら。


「副会長?」

「……ごめんなさい、手が止まっていたみたいね」


 手が止まっていた私を訝しんだ稲葉が、心配そうな顔で声をかけてくれる。改めて手元の書類に視線を落とすも、そのペースは芳しくない。

 こんな調子では二人の心配を減らすどころではなく、余計に心配されてしまう。


「副会長、ちょっと外の空気でも吸ってきたらどうですか」

「大丈夫よ」

「俺が大丈夫じゃないんで。目の前でそんな顔されてちゃ仕事も捗りませんよ」

「悪かったわね、陰気臭い顔してて」

「そこまで言ってませんけど……分ったならさっさと出て行ってください」


 非常に癪ではあるが、稲葉の言う通りにすることにした。生徒会唯一の二年生が言うようになったものである。私に対してここまで物怖じせずハッキリと言葉を口にする人間は、この学校に何人いることか。

 生徒会室を出て向かった先は、いつもの場所。つまりは図書室横の自販機。そこでいつものカフェオレを買い、一気に喉へと流し込む。

 グラウンドからは甲高い金属音が聞こえてくる。智樹はちゃんと練習してるだろうか。綾子がいるから大丈夫だとは思うけど。

 彼の努力を無駄にしないと誓った。零れ落ちるそれを拾い上げると、約束した。

 大層なことを口にした割には、私が出来ることなんて限られていて。私じゃない他の誰かは、その人にしか出来ないなにかを為している。だからきっと、私じゃなくてもいいんだろう。私よりももっと役に立つ人間はいて、私にその代わりは務まらない。

 綾子も、理世も。二人にしか出来ない仕事をして、智樹や野球部のメンバーをサポートしているのだ。

 だから。私がもっと。小梅みたいに、色々出来る人間だったら。

 思考を反芻する。思考が反復する。

 小梅の能力に憧れて、それを持たない自分に失望して、でもその考えはダメだと頭を振って、結局どうしようもなくて。また振り出しに戻る無限ループ。

 行き詰まりのどん詰まり。ゴールのない思考の迷路。他者への憧れと自分への失望を繰り返し、そうやって殻に閉じこもっていたのが去年の私だ。

 今は違う、と言い切れない。今の私を構成しているなによりも重要な要素は、夏目智樹の存在だった。彼がいてくれるからこそ、私は妹へのコンプレックスをどうにか出来た。彼が認めてくれるからこそ、私は私の存在理由を定めることができた。

 結局、一歩も前に進めていないのは私なのだ。誰かに寄りかかり、依りかかることでしか自分の存在を認められない私こそ、あの頃から一つも変わっていない。

 小梅のために生きることで自分の価値を見出していた昔の私と、智樹のために動くことで自分の存在を定める今の私。そこになんの違いがあるだろうか。

 でも、そんな過去のことも全て否定せずに受け入れて、そうして前を向かないといけない。それは頭で理解していても、どうすればいいのかが分からない。

 智樹のことは簡単に理解できたのに、私自身のことはなにも理解できていない。なんたる醜態か。

 飲み干したカフェオレの缶を捨て、続けて自販機に硬貨を投入した。同じものを買おうとして、しかし直前で止まった手は別の場所へと誘われる。

 ボタンを押して購入したそれ、ブラックコーヒーを取り出してプルタブを開けた。


「珍しいね。お姉ちゃんがそんなの飲んでるなんて」


 缶を傾けたのと背後から声が掛かったのは殆ど同時だった。口の中に広がる苦味に眉を顰めながら振り向くと、そこには陸上部の練習着を着た小梅が。


「ちょっとカッコつけたい気分だったのよ」

「誰も見てないのに?」

「自分に酔っていた、とも言うわね」

「嘘。そう言う時のお姉ちゃんは、もっと人を馬鹿にしたような顔で笑ってるもん」

「私のことをなんだと……」

「でも今のお姉ちゃんは、めんどくさいこと考えてる時のお姉ちゃんだ。違う?」


 嚥下したコーヒーの苦味が口の中に広がる。それはどれだけ時間を置いたとしても消えそうにない。


「なにが言いたいの?」

「お姉ちゃんはね、考えすぎなんだと思うよ」

「思考停止するよりはマシでしょう」

「そんなことないよ。余計なことを考えないで生きる方が、楽に決まってるもん」


 具体的な主語がはっきりしない言葉の応酬。小梅とこんな風に会話をするのは珍しい。そもそも、私たち姉妹が対立した位置で話すことすら。

 それが恐らく、これまで犯してきた間違い。互いに心の奥底に隠したままの本音を曝け出さず、上辺だけの会話を交わしていたから。


「あたしはさ、お姉ちゃんがいてくれるだけで良かったんだよ」


 でも、それも今日で終わりだと。小梅の瞳に宿った真摯な決意が告げている。私と似ていて、けれど全く似ていない二つ歳下の妹が。私に、嘘偽りない本心を。


「あたしのことを考えてくれてるのは嬉しかった。あたしのために色々としてくれたのも、ありがたかった。でも結局はさ、お姉ちゃんがただいてくれるだけで、それだけであたしは頑張れた」

「……そうやって言えてしまう強さこそが、一番妬ましかったのだけどね」

「でもお姉ちゃんはあたしを嫌いになれなかったんでしょ? それはどうして?」

「どうして、って……」


 嫌いになれなかった理由なんてない。強いて言えば、妹だから。小梅が生まれてからずっと一緒に育ってきたから。嫌いになんて、なれるわけがない。


「多分、お兄さんはあたしと違うと思うよ。お兄さんと一緒にいる今のお姉ちゃんも、昔とは違う」

「違わないわよ」

「違うよ。あたしは狡いからさ。お姉ちゃんがあたしのことを嫌いになるわけがないって分かってて、だからお姉ちゃんのことを縛り付けてた。でも、お兄さんは違うの」


 ああ、そうか。そう言うことか。智樹自身も言っていたじゃない。私にカッコいいところを見せたいから頑張るって。

 小梅と違って、智樹は少しでも不安があるんだろう。いつ私に幻滅されて、見捨てられるか分からないという不安が。私がどれだけの愛情を示して、どれだけの信頼を彼に寄せても、人間である以上、他人である以上抱いてしまうものを。彼だって私に対して持っている。そしてそれは、逆もまた然り。

 私だって同じだ。いつ智樹に愛想を尽かされるか分からなくて、怖いから。だからこんな風に考えてしまう。悩んでしまう。

 そんな私が、そんな智樹にしてあげられること。私にしか出来ない、私だけが出来ることは、たったひとつだけ。

 ただ、見ていればいい。夏目智樹という人間がなにを成し遂げるのかを。他の誰よりも近い場所で。


「小梅。これあげる」

「え、いらないけど」

「いいから。色々と気づかせてくれたお礼よ。遠慮せず受け取りなさい」

「お姉ちゃんが飲みたくないだけじゃん!」


 喚く小梅に未だ大量に残っているブラックコーヒーの缶を押し付け、生徒会室へ戻る。

 どうせ見るのなら、少しでもいいものを見たい。だからまずは、目の前にある仕事を片付けよう。

 私にしか出来ないことをするために。

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