IF:愛のカタチ

 白雪桜と初めて出会った日のことは、昨日のように思い出せる。

 中学の時、父さんが見に来てくれていた試合が終わった後。父さんが最近友人になったという男性の娘が僕のファンだと、唐突に教えられたのだ。

 いやいや、たかが中学生、しかも無名の公立中学の部員一人にファンだなんて大袈裟だろう。父さんのファンだというのなら分かるけれど、その息子である僕のファンとか。しかも女の子って。

 まあ、こう思うのも無理はない。中学三年のいわゆるお年頃、思春期を拗らせていたあの頃の僕は美人局かなんかだと疑ったりもしたものだから。

 だけど、そんな思考は実際に白雪と話すことで、塵も残さず消えることとなる。


『マウンドの上に立つあなたの瞳が、とても輝いて見えたの。一目見ただけで、心を奪われた。もしかしたら初恋かも』


 そういう白雪こそ瞳を輝かせてまくし立てるように僕の魅力を僕自身に語り、聞かされた僕はただ呆然とするのみだった。

 だって、まさかこんな可愛い子が初恋だと言ってくるだなんて思わないじゃないか。その場の勢いでその発言は流れてしまい、今でも当時の爆弾発言について互いに言及していないけれど。

 ともかく、僕と白雪の出会いはそんな突然のものだったのだ。

 初恋云々については多分白雪自身も忘れているだろう。じゃないと、あんな遠慮なしに僕にひっついて来るわけがない。恋する乙女は恥じらいを持っているものだって漫画で読んだし、なにより彼女が自分の口で言っているのだから。

 僕たちはそんな関係ではない、と。

 まあ、あんな可愛い子との物理的な距離がいつも近くてなにも思わないほど僕は枯れているわけでもないのだけど。しかし実際、白雪を恋愛的な視点で見ることがあるかと問われれば首を横に振る。

 出会ったばかりの頃ならあるいは、そんな目で見ていたかもしれないけれど。距離が近くなるにつれて、彼女との時間が増えるにつれて、反比例するようにその意識はなくなっていった。白雪の女性としての魅力がないわけではない。何度も言うが、あの子は可愛い。めちゃくちゃに。多分この世で一番。そりゃまあ一部絶望的なまでに魅力の欠いている部分はあるけれど、それは置いといて。

 料理は美味しいし気遣いが出来るし感情表現豊かだし一部を除いてスタイルもいいし。あと可愛いし。

 そりゃ学校ではさぞおモテになられていることだろう。しかしそれは、あくまでも白雪桜の表面的な魅力にしか過ぎない。

 白雪と同じ学校のやつらの、どれだけが知っているだろう。口の悪さの裏に隠れた優しさを。笑顔に覆われた弱さを。

 それを知っている人間は片手の指で足りるほどしかいなくて、その中の一人に僕も入っていることが誇らしい。

 閑話休題。

 とまあそんなわけで、出会った頃ならいざ知らず、今の僕は別に白雪のことを恋愛的な意味でどうこう思っているわけではないのだ。

 けれどしかし、どうも僕たちの周りはそれで納得してくれないらしくて。


「それで? 智樹は桜ちゃんのこと、どう思ってるの?」

「……」


 部活から疲れて帰って来た僕を待っていたのは、母さんが作った夕飯と唐突な質問だった。今までは僕と白雪がそういう仲であることを前提にからかって来ていたけれど、この手の質問は逆に初めてである。

 実の母親に向けて全力で白けた目を向けるも、その程度で諦めてくれる母さんではないことはよく知っている。


「どう思ってるって聞かれても、答えに困るよ。好きか嫌いかだともちろん好きだし、でもあの口の悪さはちょっとどうにかして欲しいし」


 答えながらも本日のメインディッシュである鳥の照り焼きを口に運ぶ。最近白雪の作る料理がどんどん母さんの作るものと味が似通ってきているから、母さんから料理を教わっているのだろうか。楓さんに教えて貰えばいいのに。


「んー、そうやって躊躇いもなしに好きって言えちゃうあたり、私とかお父さんが思ってる類のものじゃなさそうだものね」

「今まで何回もそう言ってるよ」

「これは、段階を一つ飛ばしちゃってるなぁ」


 苦笑いを浮かべた母さんは、手元にあったリモコンを操作してテレビを消した。流れていたのは野球の試合。父さんのチームであるけれど、別に父さんが出ているわけでもなかった。ただ惰性でつけていただけのテレビ。

 それを消したのは、母さんが真剣な話をする時の合図だ。本人から直接そうだと言われたわけでもないけれど、これまでの経験上察せられる。

 雑音が消え、ただ食事の音だけが聞こえるリビング。そんな中、母さんのよく通る声が響く。


「恋と愛の違いって、何だと思う?」

「……下心か真心か?」

「んー、それだと当たらずとも遠からず、ってところね。いえ、正確な答えがあるわけでもないけど」


 意図の見えない問い。首を傾げる僕に、母さんは「これは私の個人的な意見だけど」と前置きして、語り出した。


「恋って言うのはね、どこまでも相手を求めるものなの。相手の全部が欲しい。自分のものにしたい。離れて欲しくない。一緒にいて欲しい。その願望を相手にぶつけるのが、恋。だから下心って言い換えても間違いじゃないかもね」

「じゃあもう片方は?」

「愛の形にも色々あるけど、相手が自分の隣にいる。それが当たり前になること。お母さんは、それが愛だと思うの」


 自分の願望をぶつけるまでもなく。ただ、隣にいる。それが当たり前で、当然のようにあるもの。これはたしかに、真心というには些か異なる気もする。当たらずとも遠からず、というのはこういうことか。


「例えば、私やお父さん、それから智樹の三人が一緒にいることは、当たり前でしょ?」

「まあ、家族なんだし」

「それも一つの愛の形。家族愛って言うものかな」


 母さんと父さんがいない人生なんて考えられない。なにを言わずとも一緒にいる。わざわざ意識する必要すらなく。なるほど、母さんの定義に基づくなら、たしかにこれも愛の形だ。


「話を戻すけど、恋愛っていうのは、恋を愛へと育むための過程のことを言うんだと思うの。自分の願望を互いにぶつけ合って、そうやって相互理解を深めて。いつかそんな必要も無くなった時に、本当の愛情っていうのが芽生えると思うのよ」

「父さんと母さんも、そうだったの?」

「んー、私たちは大人になってから出会ったから、学生ほど激しいものでもなかったけどね。でも、いっぱい喧嘩だってしたし、その度にお互いのことを理解して、いつの間にかあの人が一緒にいることが当たり前になってたから。私たちも、ちゃんと恋愛して結婚したのよ」


 僕の知ってる二人は近所でも軽く有名なくらい仲睦まじい、いわゆるおしどり夫婦だ。だから、二人が喧嘩する姿なんて想像もできないけれど。子供である僕にすら教えていない、二人だけの物語があったのだろう。

 こうして話を聞かないと、そんなものがあったことすら気づかないままだった。


「じゃあ、最初の質問をちょっと変えて、もう一度聞くわね? 智樹にとって、桜ちゃんはどういう存在? 一緒にいて欲しい子? それとも、一緒にいるのが当たり前な子?」

「それは……」


 どう、なのだろう。

 白雪と一緒にいたいと思う。いて欲しいと思う。けれどそれはつまり、あの子が僕の隣にいないこと自体を想像できないからで。あの子が一緒にいるのが、当たり前になっているとも言えるわけで。


「って、これも結局僕が白雪のことをそういう風に見てるのを前提にした質問じゃないか」

「あら、バレちゃった」


 危ない危ない。危うく母さんの口車に乗せられるところだった。たしかに僕は、白雪が一緒にいることが当たり前に思えているし、できる限り一緒にいたいとは思うけれど。それはきっと、友愛とかの類いだろう。一応、今のところ、彼女とは友人という関係にあると思うし。

 男女の仲が全て恋愛に発展するのなんて、フィクションの話だけだ。


「でもね。智樹が桜ちゃんのことをどう思っていても、これだけはちゃんとしなさい」

「自分の気持ちは、ちゃんと相手に伝えること。それから、自分の見ている世界を拡張すること、だろ? 分かってるよ。昔から口酸っぱく言われてきたんだから」


 後者は特に。母さんの口癖、我が家の家訓みたいなものだ。

 自分が見ているものが全てとは限らない。人の主観とは酷く頼りないものだから。客観的に見るだけでも足りない。そこに人の心理や感情の機微が含まれないから。主観的にも客観的にも物事を観察した上で、他の人の主観に立って考えてみろ。あらゆるものを多角的に捉えろ。相手もそうできるように、自分の気持ちは素直に伝えろ。

 元アナウンサーの母さんが、仕事の中で培った人生のノウハウ。それに助けられたことは今までも何度かあった。主に野球の試合でのことだけど。


「ちゃんと分かってるみたいでお母さん嬉しいわ。智樹も立派になったのね」

「男子三日会わざれば刮目してみよ、と言うからね。まあ、母さんとは三日会わないどころか毎日会ってるわけだけど」

「我が子と三日以上離れるなんて考えられないわ」

「そんなんでよく僕の修学旅行中我慢できたね。てか父さんは」

「別に」


 冷たい。冷たいよ母さん。おしどり夫婦じゃなかったのかよ。僕がこの家出て行ったくらいに熟年離婚とかやめてね?

 いや、もしくは。父さんは絶対ここに帰ってくる、それが当然だと思っているからこそ、そうやって言えるのかもしれない。

 なるほど、それが愛ってやつか。


「どうせお父さんは私にメロメロだから、離れることなんて考えるだけ無駄よ」

「息子にそういうこと言うのやめよ?」






 夕飯も終えて風呂に入り、後は明日に備えて寝るだけとなった夜。当たり前のように朝練があるので寝るのは大体二十二時を回ったあたり。時間はまだまだあるので、課題でも済ませておくかと机に向かう。

 さして難しくもない数学の問題を解いていると、傍に置いていたスマホがラインの着信を告げた。白雪からだ。


『見て見て。紅葉さんから貰っちゃった』


 そんなメッセージと一緒に送信されてきたのは一枚の写真。小梅ちゃんか誰かが撮ったのだろう。そこには大きなサメのぬいぐるみを抱いた白雪が、満面の笑みで写っていた。

 紅葉さん、とは白雪が通う蘆屋高校の三年生で、白雪と我が親友三枝が所属する文芸部の部長だ。去年二人を経由して知り合った、なんかすごいお金持ちの人。具体的に家がなんの仕事をしてるのかは知らないけど、とにかくとてもお金持ち。


『相変わらずの可愛い笑顔で今日の練習の疲れが吹っ飛んだよ』

『そうでしょうそうでしょう。もっと可愛いって言いなさい』

『はいはい、可愛い可愛い』

『誠意が足りない』


 ブー、と唇を突き出して不満な表情をしたウサギのスタンプが送られてきた。それを見てつい笑みが漏れてしまう。こちらからは同じウサギの、肩を竦めたスタンプを送った。


『で、そのぬいぐるみどうしたんだ? 流行はすぎてると思うけど』

『紅葉さんが余ったからって』

『余るようなものなんだ……』

『親の会社の人から三つ貰ったんだって。もう一つは三枝が喜んで受け取ってたわ』

『まず、高校三年生にそのぬいぐるみをプレゼントはどうなのかってのと、三枝がキモいってのと、神楽坂先輩の家は相変わらずなんの仕事してるのか謎すぎるっての、どれから突っ込んだらいい?』

『全面的に同意しちゃうから悩みどころね』


 考えるように頭を抱えるウサギのスタンプ。なんとなく僕もたまに使ってるけど、白雪はこのウサギが気に入ってるんだろうか。スタンプ送ってくる時大体こいつだぞ。

 なんてどうでもいい思考と共に、ふと母さんと夕飯の時に交わした会話が頭をよぎった。

 白雪は、どう思ってるのだろう。あれだけベタベタと僕にくっついてくる彼女は、いつもどういう心境でいるんだろう。


『ところでさ』


 そこでメッセージを区切り、続く文字を打ち込んでいく。

 こういう時のことを、魔が差した、というのだろうか。

 なんにせよ僕は、打ち込んだメッセージを深く考えもせずに送信した。


『君って、僕のことどう思ってるんだ?』


 既読はすぐについた。それも当たり前か。今さっきまで毒にも薬にもならない会話しかしてなかったのだ。向こうもその延長線上だと思っていただろう。

 そして、メッセージを送信してから後悔する。どうして僕は、こんな訳の分からないことを聞いてるんだ? しかも面と向かってじゃなく、電話でもなく、ラインというメッセージアプリを使って。なんか、凄く卑怯な気がするのは気のせいだろうか。これだと直接聞く勇気がないヘタレ野郎みたいに見られるかもしれない。いやまあ、今更白雪がその程度で僕に幻滅するとも思えないけれど。

 ていうか、改まってこんなことを聞くのは初めてだ。いつもはなんの疑問も挟まず一緒にいるから。一々彼女にそんなことを聞く必要なんてなかった。興味がないわけでもなかったけれど、それでも彼女が一緒にいてくれたから。それが当たり前だと、いつからかそう思っていたから。

 返信は中々こない。スマホの画面上部で時間を確認しても、メッセージを送ってからまだ一分しか経っていなかった。もっと長く感じたのに。体感時間が狂ってる。

 やがてピコン、という音が着信を告げ、画面に白雪からのメッセージが表示された。

 された、のだけれど。


『初恋の相手』


 想像以上に予想外の返信に、唖然としてなにも言えなくなる。頭の中が真っ白になる。思考が現実に追いつかない。

 そんな僕に、トドメの一撃と言わんばかりの追加メッセージが。


『それと、今もずっと好きな男の子』


 おやすみと言ってるウサギのスタンプが最後に送られてきたけれど。まさかそれにこちらからもおやすみと返せるほどの余裕があるわけもなく。

 ようやく現実を認識した僕の不出来な脳みそは絶賛荒れ狂っていて。頬が際限なく熱を持つ。心臓の鼓動が聴覚を支配するまで大きくなる。言葉にできない感情の嵐が胸の中で吹き荒び、スマホを机に置いた僕に出来たのは、一人小さく呟くことだけだった。


「なんだよそれ……」


 果たして彼女は、どんな気持ちでこのメッセージを送ったのだろう。そして送った後、会話を切り上げた今、どんか顔をしているのだろう。分からない。知りたい。

 だから、無性に白雪に会いたくなって。でもどんな顔して会えばいいのかは、皆目見当がつかなかった。

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